正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

勇気  (第54回)

 陸軍の話題が長く続いたので、そろそろ海軍に移ろうかと思う。そして時代は日露戦争ではなく、その前の日清戦争を舞台にするつもり。しかも、その更に前から書き起こす。これには事情があって、薩摩のことを考えたかった。

 日清・日露の戦争において、野戦司令官は薩摩出身者が多い。土佐もいるが、薩長土肥のうち長州と肥前の出身者で最前線で兵を率いた人がほとんど思い浮かばない。むしろ賊軍の奥、立見、出羽といった不退転の将のほうが目立つ。


 薩摩が藩としてのみならず、その地に育った個々人までもこうまで強いのはなぜなのかについて、ここで詳しく書くまでもない。その青少年時の厳しい教育とお馴染みの示現流。激情に身をゆだねるばかりではない抑制の取れた言動。そして勇気。

 勇気について、別のブログでも触れたが、司馬遼太郎は「街道をゆく」の中で次のように述べている。「古代ギリシャの哲学者は、勇気と無謀はちがうとした。無謀はその人の性情から出たもので、いわば感情の所産といっていい。勇気は、感情から出ず、中庸と同様、人間の理性の所産であるとした。」


 司馬さんにとっての勇気とは理性の産物である。負けたら困る、死ぬのは怖い、この相手とは戦いたくない。戦争には、戦闘には、そういう感情が付き物だろう。それを乗り越えて戦うべきときに戦うためには、理性の力が必要なのだというふうに解釈している。

 その典型は幕末において薩摩藩が起こした京都伏見の寺田屋における騒動である。多くの作家が書き残しているが、内容は殆ど一致しているので、生存者の誰かが詳しく報告したものが残っているのだろう。

 
 この寺田屋に行ったことがある。京都か三重に住んでいた若いころだ。柱にちゃんと刀傷が残っていたのを見たのも覚えている。後年これがどうやらレプリカで、薩摩の同士討ちや、伏見奉行所の大捕り物で坂本龍馬が包囲網を突破した騒動の舞台になった寺田屋は、とっくの昔に火災で焼失していたと報道されて、ちょっとした騒ぎになった。

 幕末この寺田屋薩摩藩の謂わば急先鋒たる志士たちが投宿した。彼らは公武合体を企図する殿様、島津久光の方針に背き、大政奉還を実現すべく京に向かっている。ちなみに、光源氏の昔からこの頃に至るまで、日本の西や南と京を結ぶ主要交通は水運(瀬戸内海や淀川水系)であり、伏見がその東端のターミナルに当たる。寺田屋は今で言えばエアポート・ホテルのようなものか。

 久光は追っ手を差し向けた。君命を帯びて討ちに行く者も、寺田屋でこれを待ち受けた決起の組も、お互いが仲間である。単なる公務員の同僚ではない。一緒に育ち、志を共にする同士であった。司馬さんのいう勇気とは何か。膝詰談判が決裂してからの決闘のごく一部だけでも、充分それを示している。


 以下は薩摩ご出身の海音寺潮五郎著、新潮文庫「西郷と大久保」に収録されている「寺田屋騒動」より、まず薩摩武士の典型のような男だったという柴山愛次郎の最期。追っ手の山口金之助は示現流の達人で、向かい合って座っていた柴山の首筋を両側から斬り下した。

 「柴山は胸をV字型に切りさかれ、首は前に落ちた。柴山は討手を受けたら抵抗せずに斬られるつもりであると親しい者に言っていたが、この時もわざと小刀だけでおりて来、両手を畳に着けたままであったという。」


 これだけで勇気というものが無謀とは違うものであることがわかるが、もう少し続く。決起隊長であった有馬新七の「おいごと刺せ」は詳説不要であろう。橋口壮助も名を残している。彼は絶息寸前に水を所望した。海音寺さんいわく「手負いに水は禁物」だそうだが、追っ手の頭分、奈良原喜八郎がみると、もはやこれまでである。

 奈良原から水をもらいうけた壮助は、「おいどんらが死んでも、おはんたちがいる。天下のことは頼むぞ」と嬉しそうに語り残して息絶えた。奈良原は、後に同郷の吉井友実の後任として、子規が病床でその汽車の音を楽しんでいた日本鉄道の二代目社長になる。しかし、このときは、まだそれどころではない。二階にまだ物騒な連中がひしめいている。


 最初に二階から降りて来た男は、待ち構えていた討手の大山格之助に腰を切り払われた。大山は後に綱良と名乗り、今で言う鹿児島県知事になりながら、西郷どんに味方して刑死した。この死への階段を物ともせずに駆け下りて来た橋口伝蔵は、やはり大山に足を切り落とされた。伝蔵は片足で飛び跳ね廻り、おいにかなうもんがいるかと叫びながら数名を相手に斬り合い、斬り殺された。

 奈良原が上半身裸の血まみれ姿で、階段を登りながら「行くなら俺を切ってから行け」と二階の残党を鎮めた場面は、小説やドラマで欠かせないシーンである。これまた尋常の勇気ではない。このとき投降し、「天下のことは頼むぞ」という同士の遺言を背負った者の中に西郷従道大山巌がいる。篠原国幹もいた。天下の先はまだ遠い。

 「おいにかなうもんがいるか」の橋口伝蔵は、先の柴山愛次郎、橋口壮助(同姓だが親類ではないらしい)と共に、示現流の達人として仲間内でも名高かったそうで、生きていれば維新後、伯爵になった弟よりも出世したかもしれないという人もいるらしい。弟は寺田屋にはおらず、命を落とさずに済んだ。だがこちらの弟さんも、おいにかなうもんがいるかであった。つづく。



(この稿おわり)




少し穏やかな気分にもどるため、サクラソウをみる。
(2015年3月31日撮影)





”Take the first step in faith.
 You don’t have to see the whole staircase.
 Just take the first step.”

             Martin Luther King, Jr.
































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