正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

運送船  (第80回)

 松山の歩兵第22連隊が属する第十一師団に動員令が下ったのは、1904年の4月であるらしい。「肉弾」の「第三 征衣上途」には、動員下令から殆ど一か月が経ったという5月21日に、著者の連隊が出征した場面が出てくるからだ。この間に兵士や家族たちに起きていた事柄は、勇ましいものあり、悲壮なものあり、そしてこれが日本中で繰り広げられていたのだろう。

 櫻井少尉の場合、父から「子の戦死は覚悟の上だ」という言葉を贈られ、母からは出立の朝、別れの水杯が手渡されている。櫻井家がどういう家柄か存じ上げないが、本人が二十代半ばの若さで少尉になっており、これだけの文章を書けて、しかも先述のとおり実兄は大隈重信の友人である。さらに実弟の妻は、すでに登場願っている「三六式無線機」の開発者、木村駿吉博士の娘さん。たぶん知識者階級だろう。


 著者は病弱だったと書いてあるが、それでも身体検査に合格したから一安心であった。中には検査に落ちてしまい、今さら国元に帰ることはできないと深夜、割腹した男が出た。幸い同僚たちが気付いて病院に担ぎ込んで一命を取り止めた。

 三歳の子をかかえて極貧暮らしをしていた男の場合、病身の妻が無けなしのお金をはたいて、米二合と薪一銭分を買い求め、最後の馳走を用意してくれた。また、他の士官の中には出発の前日に妻が病死し、だが後は周囲に託したのか、そのまま出陣したという。このエピソードは仲代達也が乃木大将を演じた映画「二百三高地」にも出てくる。


 出撃前さえこの調子だから、最前線に至ってからの兵の勇猛さは尋常でなく、司馬さんは何度もそれを明治という「国家の重さ」故という抽象的な言葉で全体を表現している。例えば、すでに徴兵制が敷かれているから、逃げ出したら重罪である。それに重税が加わる。富国強兵は、全国民の金と命を引き換えにする国策であった。

 私は学生時代の専攻が近代日本経済学だったので、このころの財政に関する専門書を読んだ覚えがあるが、計算の仕方によれば大日本帝国の税率は、胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなりという苛烈な税を課した徳川の時代よりも高かったらしい。その重税に苦しむ人たちが気力と金を絞り切って送り出してくれるのだ。負けたらどうなることか。これでは、さっさと国元に帰る訳にもいかない。


 5月21日、朝の3時に金亀城の号砲が集合の合図を鳴り響かせ、6時に全軍は出そろった。行進を始めたところ、連隊機を掲げ持つ著者のそばに中学校時代の恩師、児島教諭が二三歩、忍び寄り、「櫻井シッカリやれよ」と、「肺肝より小声に振り絞り賜いし最後の訓戒」、戦場を馳駆するたびに繰り返し唱えたのだという。

 岸辺に出ると「鹿児島丸、八幡丸等の運送船は、遥かの沖に停泊していた」とある。信さんや升さんや淳さんが旅立った浜だろうか。この二艘の船は、いずれも「坂の上の雲」文庫本第八巻の「敵艦見ユ」という緊迫の章に出てくる。約一年が経過しているが、戦時中に軍用船を作り直しはしまい。同一の船舶だろう。もっともこのとき両船の役割と行動は別々であった。


 八幡丸は仮装巡洋艦になっている。こう書けば見当がつくように信濃丸らと集団で、長崎五島列島の沖合で哨戒にあたっていたのだ。そのあとも帰投することなく海戦に参加し、鈴木貫太郎率いる第四駆逐艦隊に加わって、夜中の個別撃破作戦までぶっ続けで働いている。

 「ネボガトフ」の章において、貫太郎さんは海上に「三笠」に似ている船を見つけた。ロシア第二戦艦隊所属で、オスラビアのすぐ後ろに付いて主力決戦に臨み、満身創痍となった戦艦シソイ・ウェーリキ―の最期である。同船の降伏を受けて、信濃丸と八幡丸が乗務員を救助し、その目の前で「シソイ」は沈んだ。


 他方の鹿児島丸は、こちらに櫻井少尉が乗船した旨、後に出てくるのだが、同じ日に引き続き陸軍の輸送船を務めていた。もう奉天の会戦が終わっている時期なのだが、両軍のにらみ合いは続いており、好古も満州で頑張っている。したがって、増員兵や武器弾薬・食糧衣料などを輸送しなければならなかったのだろう。

 その日、壱岐島の近くを通りつつ大陸に向かっていた鹿児島丸は、海上遠くに大船団を見た。これぞロジェストウェンスキーを迎え撃つべく、手ぐすね引いて待ち構えている我が連合艦隊でなくして何であろう。日本の領海です。鹿児島丸はこれを激励すべく接近し、万歳の掛け声を挙げ始めた。


 驚愕したのは、この大誤解場面を発見した巡洋艦和泉の石田艦長である。本物の連合艦隊対馬沖を想定した正面決戦に向けて、鎮海湾を出撃したころだ。鹿児島丸が応援しているのは、その標的であるバルチック艦隊であった。ただでさえ忙しいこの時に、石田大佐は陸軍の面倒を見る羽目になった。

 陸軍の輸送船には、かの無線機が備え付けては無かったらしい。信号旗を掲げたが目に入らず、メガホンで怒鳴ったが耳に入らない。やむなく和泉は身を挺して引き返させるほかなくなって、警笛を鳴らしながら鹿児島丸に接近した。そのあとも随分と苦労したらしいが、その甲斐あって鹿児島丸はようやく気が付いて引き返した。みなさん顔面蒼白であったろう。




(この稿おわり)






賀茂川の黒鷺  (2015年12月28日撮影)














































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