正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

丹青  (第88回)

 丹精こめてという言葉が好きで、こういう日本語は大切に後世へと伝えていきたい。そんな気持ちでいるためか、最初に「子規居士丹青図」という絵をみたとき、子規が丹精込めて絵を描いているという意味だと思った。間違いでありました。

 手元に何冊かある子規の本や、子規について書かれた本において、前回の夏目漱石宛に書かれた手紙の中にもあった「嘘だと思わば肱を突いて書いてみたまえ」という彼の様子を描いた絵が二枚ある。一枚は子規本人が描いたもので、「病床図画讃」というもの。ストーブのようなものにヤカンが載っており、病床から乗り出して筆を執っている子規が厚着をしているので寒い季節なのだろう。


 もう一枚が先ほど勘違いした「子規居士丹青図」である。いずれも墨絵だろう。これから二三回、子規と親交のあった仲間のうち画家を話題にします。後者の絵を描いたのは浅井忠。実際にスケッチしたのか、それとも浅井画伯の想像図なのか分からないが、とても穏やかな絵で、子規が小園とも呼んだ子規庵の庭から病床六尺を描いている。

 庭に何本かのススキが立ち並び、居士の枕頭に好物の柿が三つ転がっている。秋だろう。図筆にも出てくるように、子規は庭から向かって右側(東寄り)の部屋で、西側に頭を向けて寝ていた。かつては襖か障子で外が見えなかったが、身動きがとれなくなってから周囲がガラスに換えてくれた。この絵もガラス張りで中が見える。


 似たような角度からの本物の写真も、お八重とお律との母娘のスナップとともに残っている。大正十五年とある。絵に戻ると、壁に蓑笠がかけてあり、天井から吊るされた鳥かごに小鳥が二羽、見える。子規はたぶん寝間着姿で、腰から下に布団がかけてある。子規は左利きだったという説があるが、どちらの画も右手で筆を持っている。広げた帳面に何か書いている様子。

 丹という字は広辞苑によると「まごころ」という意味があり、丹精も丹念も、その意味がこもっている。だから病の床で執筆か絵画にいそしむ子規を描くこの絵は、丹精図であってもおかしくないのだが「丹青」となっている。これだと丹頂鶴の「丹」で、赤と青という意味になり、転じて絵具で描くことという意味もあるらしい。つまり、白黒ではなくてカラー、代表が赤と青。


 浅井忠の名は「坂の上の雲」の文庫本第二巻、「子規庵」の章に出てくる。漱石がイギリスに渡航するのと殆ど入れ替わりで、英国駐在から戻った真之が子規庵を訪うくだりである。漱石が旅立ったのは1900年9月、真之は直前の同年8月に帰国している。浅井さんは洋画家で、同じ年の1月に渡欧したと「坂の上の雲」にも出てくる。

 したがって上記の子規と真之が再会する場面のころは日本にいないのだが、彼が子規のために作ってくれた鳥かごが話題になっている。先述の部屋の中にある小さな籠ではなくて、庭にトタン板と金網で作られており、キンバラのオス、ジャガタラ雀のメス、ヒワのオスという顔ぶれの計三羽が「大元気」だったそうで、これはどう考えても子規の書き残した記録だろう。


 「浅井忠を知っているだろう」と小説の子規は言った。真之は名前だけは知っていたとある。浅井さんは正岡記者の同僚であり、すわなち新聞日本に挿し絵を描いていた。この時点で、東京美術学校の教授としてパリにいると書いてある。

 この翌年(明治三十四年)に連載された「墨汁一滴」の6月24日の記事に、浅井忠が中村不折を紹介してくれたというエピソードがある。このあと何日間か不折絡みの記事が続くのは、この月に不折も「西航」しフランスで絵の修行をすることになっていたため、お別れも兼ねてのことである。6月30日には陸羯南主催のお別れ会が子規庵で開催された。


 すでに子規は見送りにも行けない体だが、この日の集まりは楽しかったようで、「草庵ために光を生ず」という賑わいであった。子規が浅井忠の紹介で不折に初めて会ったときの印象は、「目つぶらにして顔おそろしく」、衣装は普通の書生よりも、はるかに汚いものであった。でも絵は立派だった。これ以降ずっと不拙から影響を受け続けたと書いている。

 私はずっと子規の絵画好きは中村不折の影響だと思っていたのだが、大きな間違いで、お律の記憶でも故郷の松山にいたころから、絵を描くのは好きだったらしい。碧梧桐の記憶では、絵具は初めて不折にもらったらしい。


 「病床六尺」の第四十五段(1900年6月26日付)に、名高い「写生といふこと」の記事がある。詳しくは別途、話題にしたいが、この文中に「写生文写生画」という言葉が出てきており、子規にとって写生の大切さは、絵画も文学も同じであると思う。

 子規庵のある鶯横丁や近くの狸横丁は、昔も今も折れ曲がった細い道だ。どこで読んだか忘れてしまったが、子規はこの折れ曲がり横丁に、不折という男が住んでいるといって面白がっている。

 西の方(子規庵を出て左)に出かけるときの子規が、その門前を通過するほど近くに不折は住んでいた。「小園の記」に出でくる葉鶏頭を持ってきて、手ずから植えてくれたのも不折である。





(この稿おわり)





子規庵の藤  (2016年4月10日撮影)














































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