おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

マルオのファンシーショップ     (20世紀少年 第14回)

 
 物語に初めて登場するケンヂの同級生は、第1巻26ページ目に出て来るマルオである。2000年の血の大みそか以降の苦労で、おそらく最も人格や外見が変ってしまったであろうこの人物も、この時点では商店街の小売店主らしい、にこやかな男だ。

 親の代からの文房具屋だったが、今ではファンシー・ショップとやらになっており、商号まで「まるお」になっている(あれ? マルオは苗字なのかな?)。

 商売も景気が良さそうだ。コギャル(私にとっては意味不明の言葉)からファンレターをもらうわ、女子高生の社交場になるわ、ケンヂのコンビニとは威勢が違う。そのマルオが敷島家に向かうケンヂの車を止めたのは、二人の幼馴染、ケロヨンの結婚式に幾ら包むかを相談するためであった。


 浦沢漫画の魅力の一つは、会話の面白さである。特に、言いたい放題同士の掛け合い漫才のような言葉の応酬が楽しい。ケンヂとマルオとヨシツネの仲は言うまでも無く、冒頭のケンヂと母親の言い争いも楽しい。

 このあとも、オッチョとバンコクの女たち、カンナとニューハーフのマライアさん、神様とコイズミ等々、お楽しみはこれからなのだ。他方、”ともだち”側にはこのような名物コンビが誕生しないのは、彼らが本当の友達ではないからである。

 マルオとケロヨンもそういう間柄であり、披露宴のご祝儀もマルオに言わせると、「一万でいいよな、ケロヨンだし」ということになるし、式典当日でさえ「おまえなんか何度着替えたって、蛙の子は蛙だ」とか、「かわいそうに、あの嫁さん、やまほどオタマジャクシ産まされるのかな」という次第になる。約20年後、二人は運命の再会を果たすのだが、そのときも言いたい放題は収まらない。


 20年か30年ほど前、ある統計調査において、「文房具屋に入ると心が弾むか」という質問に対し、男子の7割くらいが「はい」と答えたのに対して、女子の100%が「いいえ」と答えたという集計結果を、雑誌か新聞の記事を読んだのを覚えている。女子の心境は理解できないが、心が弾む男子の気持ちは私も良く分かる。理由の説明は不可能である。

 しかし、伝統的な酒屋同様、伝統的な文房具店も、特に都市部やその郊外からはほとんど姿を消してしまったようだ。私が文房具屋さんと呼んでいる近所の小売店も、すぐ近くに小学校や高校があるにも拘わらず、学校用の文房具の売り場面積は多分3分の1もなくて、ほとんどが領収書とか名刺フォルダとかインクジェットプリンター用紙とか、大人向けの商品が主力であり、店の名乗りも文房具店ではなく「ビジネス・ショップ」である。


 どうして古典的な文房具屋が絶滅危惧品種になったかというと、マクロ経済的に言えば、子供は文房具をコンビニで買えるし、親なら夕食の買い物がてら100円ショップやスーパーでも子供の文房具を買えるようになったのが最大の原因であろう。ミクロ経済レベルでは、この商店街において、酒屋からコンビニに転換したケンヂの店が、かつてのマルオ文房具店の固定客を奪ったのかもしれない。二人が全く気にしている様子がないのが幸いである。

 ちなみに、「三次会はカラオケで良いよな」というマルオの質問に対して、ケンヂの反応は鈍い。カラオケの場面はあとから出て来るので詳しくはそこで触れよう。


(この稿おわり)


上高地にて  (2004年9月19日撮影)


































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赤ん坊のカンナの表情     (20世紀少年 第15回)

 
 第1巻の始めの部分で、ケンヂがお母ちゃんやチョーさんやマルオと話をしているころのカンナは、どうやら首は座っているようだが離乳は終わっていないみたいだし、となると生後3か月から5か月くらいだろうか? ちなみに彼女の一番、年若い姿はこの場面でなくて、第8巻第5話「人類の勝負」に出て来る。

 この巻の82ページ目、母キリコに抱かれた新生児のカンナがすやすや寝ている。その絵柄や「たのもしいパパ」との会話の内容からして、これは出産直後の産院内の光景だろうか。次のページで、家政婦さんか誰かに抱かれているカンナは少し日が経っているようだ。この日、キリコはフクベエの下から逃げ出す訳だが、ここでの登場人物はみな長そで姿である。

 他方、第1巻でケンヂは「生まれたばっかりの赤ん坊を手放すなんて、どういう気持ちだったかよ」と語っている。つまりキリコがカンナを置いて出て行ったときは生まれたばかりだったが、その後、何か月か経ちカンナもそれだけ育って第1巻を迎えており、人々の服装も半そで姿に変っている。カンナの誕生日は知らないが、1996年から1997年にかけての冬か、97年の初春に生まれたのだと思う。


 さて、一般に0歳児は怒り方を知らない。正確には、大人にも分かるような怒りの表情を作らず(だから赤ん坊は可愛い)、その代わり泣く。実によく泣く。母親はその泣き声や顔つきなどから、眠いのか空腹なのか、おむつの具合が悪いのか暑いのか等々を見極める。ところが、カンナは一人前に怒る。さらに、彼女の表情の変化は、ケンヂおじちゃんの心境の変化を映しているのだ。

 まず、冒頭でケンヂとお母ちゃんが言い争いを始めたとき、カンナはケンヂの不機嫌を感じとって泣いている。直後にケンヂが正当な理由によって母親を糾弾し始めると、今度はカンナも一緒に怒っている。決め台詞は「だー!」です。このあとケンヂが刑事たちに事情聴取を受けている間はカンナも不安そうだし、マルオと他愛のないお喋りをしている間は、いかにも平和な、いかにもマルオ的な穏やかな顔で寝ている。


 そのあと敷島家や野球場で、ケンヂがともだちマークを見つける場面においては、カンナも至って機嫌が悪い。そしてとうとう彼女の感情が爆発するのは、第3巻の62ページ、ともだちコンサートでケンヂがともだちに翻弄される場面において、この0歳児は怒りのあまり立ち上がり、会場があるらしき方角に向かってブーイングを始める。

 このようにしてカンナとケンヂは離れ離れのときも、寄り添いあって生きていくのだ。もっとも、上記のともだちコンサートに対する怒りは、別の人すなわち”ともだち”の心を読んだのかもしれない。

 何巻目に出てきたか忘れたが、のちにカンナはこんなことを語っている。「ともだちの考えることは分かるけれど、ともだちのコピーの考えることは分からない」。どうやらカンナのこの手の特殊能力は、肉親に対してのみ発動するらしい。


(この稿おわり)