おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

北上川  (第1184回)

 私は車を持っていない。バイクの免許はない。もう20年以上、レンタカーも使っていない。子供のころから近視と乱視がひどく、いまは老眼による目の疲れやすさも加わった。ドライブを楽しむ体力も落ちてきて、東京にいる限りは、公私ともに車は不要だから、もう生涯、運転はしないかもしれない。

 そういうわけで、出張でも旅行でも、遠出するときは公共交通機関と自分の脚だけで移動することになる。海外ならツアーやタクシーが必要なときもあるが、国内では逆に贅沢できない。というわけで、電車とバスが頼りであり、宿泊が伴う時は、宿の心配がこれに加わる。


 被災地ではこの交通機関も、復旧・復興の進展具合や、人口の動きなどにより、路線や運行時間に動きが多い。鉄道は一旦走り始めれば、そうそう大きな変更はないが、電車が行かないところは、バスだけが頼り。これがまた時々変わる。

 大川小学校に行く計画が遅れ遅れになった一因は、この交通機関と宿泊施設をどう見つけて、どう決めたらたらよいのか分からなかったからだ。ちょうど去年の今ごろ、名取の閖上地区で仮設住宅専用のバスに、そうとは知らず確かめもせず無賃乗車してしまった恥ずかしさが忘れらない(もちろん誰にも叱られたりなどしませんでしたが)。

 今回はしっかり、バスと徒歩で行ける方法をネットであれこれ探し続けた。現地の集落が消滅していると聞いているので、電話もかけようがないと思った。被災地の支援でも商用でもないのに、市役所等に詳しく訊くのも気が引ける。


 幸い、北上川の上流方向に飯野川という地名があって、現在そこまでバスで行けることが分かったのが、今年の秋に入ってから。ネットの地図をみると、飯野川から大川小まで、直線距離で8キロぐらいと見積もった。また、被災者用のローカルバスが走っているらしい。

 川沿いの道路なら徒歩で行けるだろう。2時間半ぐらいで着くと踏んだ。これなら、石巻駅のそばに泊って、早出すれば日帰りできるとみた。結果としては、そうなった。だが、見通しが甘かった。


 飯野川から北上川左岸を歩いた往路で、最初のうちは歩道があったが、途中から山肌を削ったような余り広くない片側一車線の道になり、歩道もない。交通量がけっこうあって、そのうち半数ぐらいは工事用の大型車両。

 そのたびにガードレールに捕まって車列が去るのを待つ。お相手の車も、対向車線に大きく出て避けてくれるので、これでは危ないし、公共事業の邪魔だ。

 ようやく難路を抜けてからは、民家や田畑が点在する里に出たので、そこを走る農道やあぜ道に迂回した。荷物も重くて、お線香の一式やら、昼食も朝の駅前で買ってきたので、さすがに歩くのが好きな私も疲れが出た。

 結局、片道で3時間もかかった。飯野川のバス停を降りたのが朝の9時、大川小の近くまでたどり着いたときには12時になっていた。早くも復路の心配をしなければならなくなった。


 さて、ここに石垣市のウェブサイトで、同市の津波被害を示した地図がある。この資料のフッターにあるページでいうと、第15ページにその図がある。
http://www.city.ishinomaki.lg.jp/cont/10106000/tiikibousaikeikaku/tunamisaigaitaisakuhen/sousoku/3-dai3setu.pdf

 上半分の図の黒い太線内が石巻市。したがって、その東側の海に挟まれるような格好で、石巻市と海岸線に取り囲まれているような形状になっている女川町は、単に別の行政区域だから表示がないだけであって、甚大な津波の被害があったのは周知のとおり。

 
 この図で一目瞭然なのは、石巻市で集中的に被害を受けている地域は(簡単に言うと、白地図に色が塗ってある面積が広いところ)、JRの駅や市役所がある石巻湾に面した南部と、太平洋に面している東部。

 被害が海沿いなのは当然として、両者に共通しているのは、津波が一番奥まで行った場所が川沿いだったことだ。南側が旧北上川で、松島から歩いてきた芭蕉が、石巻に偶然たどりつき、大きな港町があって驚くと共に、その堤防を散歩した。


 川の名前に「旧」という字が冠してあるのは、治水工事により東側の太平洋に人工河川を流したからだ。今回、両方の河口近くまで行ったが、この両方の水量が一本の川で流れていたころは、さぞかし洪水の被害などがひどかったことだろう。

 現在はこの東向きに流れている新しい川が、正式な名称の北上川になっている。関東の感覚でいえば、現在の江戸川を流れていた利根川を、上流で分岐させて銚子に流したのと似ている。もっと規模は小さいが、うちの近所の隅田川荒川放水路や、神田川日本橋川も同様です。


 この水害対策に役立てた新しい北上川が、上記の浸水地図の東部一帯の被災地であり、その河口から数キロの地点に、大川小学校があった。また、南部の旧北上川よりも更に、津波が川を遡上し、内陸深くまで達したことがわかる。

 飯野川から私が歩いた道も水没している。実は帰って来てから気付いた。あまりに野放図な旅程であった。飯野川はこの被災地図でいうと、北上川が上流から南下してきて左折する地点の左岸にあり、黄色で塗られている。

 この地が一帯の避難地域になったそうだが、実際に近くで津波を見た人たちの証言が数多く残っている。南部の旧北上川が蛇行しているのに比べると、人工河川はほとんど直線だ。おそらく、この点および外洋に直面しているという地理的な要素が、この被害を招いた一因ではなかろうか。


 


以下、写真はいずれも2018年11月13日撮影。
上は北上川の水面、下はその上空を渡る鴨の列。


 帰路に地元の人に伺った話によると、このあたり一帯はやはり広域で津波の被害を受け、災害後に川の堤防を盛土し高くしたそうだ。実際、農道を歩き始めてから、地面にいる私には県道が走るこの堤が高くて北上川の水面が見えない。

 津波は「川を選んで進む」。この震災で私が知ったことの一つ。堤防の向こう側の山は見えるが、初めての土地だからどの山かも知らず、海の近くまで山があることは事前に地図で見ていたので、自分がどの辺にいるのか、わからなくなった。東北随一の大河のほとりで迷子になった。


 幸運にも、珍しく制服姿のお方が、工事用車両の交通整理をしてみえた。その時まで歩行者といえば、近所の方々が朝の仕事か散歩で歩いていた程度で、私のような無謀な徒歩旅行者は、とうとう最後まで一人も出会わなかったのだ。

 その交通整理のおじさんに、「橋はどちらですか?」と訊いた。「どの橋だ?」という質問が戻ってきた。近くに橋がない証拠だろう。嫌な予感がした。たしか新北上大橋という名ですと追加情報をお伝えした。

 すると彼は、東の河口方面を交通整理用の電灯で指し示し、この土手の坂を登って、あっちに行け、景色が良いぞ、車に気を付けろと指示を受けた。小学生並み。

 まだ芝生くらいの浅い草地の土手を駆け上がり、下流方面をみた。橋が見えた。通常、目的地が見えたというのは徒歩の移動にとって吉報であるが、このときは正直言って「遠い。まだまだだ。」と思った。



上は新北上大橋の東側入り口。下は橋の歩道からみた上流方向の北上川


 この橋が被災して暫く使えなくなったため、その間は屋形船が運行されたらしく、乗船施設の跡も残っていた。幾つかの被災状況の資料を読んだが、津波が運んできた船や大木などが、この橋の橋脚に引っ掛かって堰のようになってしまったらしい(現場でつぶさに観ていた人はいないと思うが)。この架橋地点では、北上川は堤防を決壊することなく溢れ、堤防の上を乗り越えて周囲を襲った。大川小学校は、そこにあったのだ。
 

 堤防が決壊したのは、もっと上流のほうで、そこで決壊した理由を私は知らないが、このため飯野川に避難した方々は車道も橋梁も通行不能となり、大川小学校や、校舎が位置する釜屋の集落などに行くことができなくなったと語っている。

 ようやく後に迂回路を探して現地入りした人たちは、在るはずの街並みも、いるはずの家族も消えているのを知った。もちろん、そういう出来事は、この震災時に無数の土地で起きたはずだ。

 
 今回のみならず、私が訪った被災地は、行く先を選ぶにあたり、交通機関と宿泊施設という条件に加えて、ただ見物するだけではないので、なるべく多くの資料(写真は辛いので、できれば書いたものと地図)が多いところを選んでいる。つまり代表になっていただく。

 この日は小春日和という表現がぴったりの好天で、多種多様の花が咲き、鳥が鳴き、虫が飛び、柿が実り、本当に長閑で平和な光景だった。大橋を渡り切って、大川小学校の校舎跡が見えるまでは、疲れ気味の遠足にしか過ぎなかった。以下、次回に続きます。





(おわり)













 柿の木坂は 駅まで三里
 思い出すなあ 故郷のよ
 乗合バスの 悲しい別れ

  「柿の木坂の家」  青木光一











































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