先日の「教師のナラティブ」シンポジウムには間に合わなかったが、「英語教育学」の学の成り立ちに関する論文をいくつか読んでいる。70年代前後のものが多いが、現在と40年違うだけでこれほどディスコースパタンが違うものかと非常に興味深い。
「英語教育学」「科学的英語教育」「英語教育科学」「英語教育研究」という具合に、用語もまだかなり揺れているが、その志向性も、実学志向、応用志向、科学志向などなどと言った具合に、論者によって大きな違いがあることがわかる。
特に面白かったのは、金田道和氏の論文で
当時の諸家の「英語教育学」論をまとめたうえで、英語教育学の「科学」としての側面を強調している。それは、最後の二文に端的にあらわれていて
英語教育学がよくその構造を整理し、科学としての方法論を誤ることがなければ、英語教育の実践に益を与えるところも大であろう。しかし、英語教育学は、それを行わんがために存在するものではないことを最後に再びくり返しておきたい。(p.33)
「学」の自律性に関する主張であり、現代の私たちが慣れ親しんできた「英語教育学」から見れば若干奇異に映る。むしろ、認知科学としての第二言語習得研究と相通ずる部分が多そうな理論的立場であるように思える。
なお、この点はマックス・ウェーバーも『職業としての学問』の中で触れている。
ところで、人は近ごろよく「無前提な」学問ということばを口にする。だが、いったいそんなものがあるのであろうか。このばあい問題となるのは、ここにいう「前提」がなにを意味するかということである。もとより、論理や方法論上の諸規則の妥当性、つまり我々が世界について知る上の一般的諸原則が持つ妥当性は、すべての学問的研究においてつねに前提されている。だが、このような前提は、すくなくとも当面の問題にとっては、なんら議論を要しない。ところが、一般に学問的研究はさらにこういうことをも前提にする。それから出てくる結末がなにか「知るに値する」という意味で重要な*1事項である、という前提がそれである。そして、明らかにこの前提のうちにこそわれわれの全問題はひそんでいるのである。なぜなら、ある研究の成果が重要であるかどうかは、学問上の手段によっては論証し得ないからでる。(p.43)
先日のシンポジウムの私の発表の際、岐阜大の寺島先生が、現在の英語教育研究の多くが「実験などやらなくても大体予想がつく」ことばかり実証していると批判しておられた。もちろん寺島先生は、「大体予想が付く」というのを否定的なニュアンスでおっしゃっていると思うのだが、科学的英語教育の言説はむしろこうした評価を逆転させているようである。つまり、大体予想がつくことであっても、あらためて、それを「科学」のことばに乗せることが重要なのだ、と。
つまり「大体予想がつくことを計量的に実証する」ことは、ウェーバーがいうところの
- 「知るに値する」という意味で重要な事項
だと、「英語教育学」というコミュニティの成員に了解されてきたと見ることができる。(もちろんそれに対する異議申し立てがあったのだろうが、そうした「声」は相対的に弱かったのだろう)
これは、シンポジウムでも触れようと思ったが、結局収拾がつきそうもないのでやめてしまったことだが、現在の英語教育の知識システムには、
- 「予想外の事実の計量的な実証」 >
- 「当然の事実の計量的な実証」 >
- 「計量デザインにのりづらい『予想外の事実』の実証」 >
- 「計量デザインにのりづらい『当然の事実』の実証」
という知的ハイアラーキーがあるのではないかということである。
したがって、この論点は、2つの軸の交差として理解できる。つまり「予想外の新規な事実/想定の範囲内の事実」×「量的研究/質的研究」であるが、特に「想定の範囲内の事実」の実証というものが、いわゆる「科学」、特に「自然科学」においてどう取り扱われてきたかをきちんと考えることは重要であるように思う。自然科学が「想定の範囲内」としてきたことは、「現場の経験」や「暗黙の常識」ではなく、「理論的帰結から当然想定されるべき仮説群」ではなかったのだろうか。この点は科学史・科学哲学の議論をきちんと点検する必要がある。今後の課題である。
*1:原文傍点