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November 02, 2010

教育研究としての「外国語教育学」

-口頭発表:2010年6月26日駒場言葉研究会・課題提起会

-文章化(最終更新日):2010年7月13日

-HTML化:2010年11月1日

-PDF(完全整形)版:https://docs.google.com/open?id=0B5tTFTys7em8Q2N0TWhxVF9rVkU


要旨:

外国語教育が「学問」として構想されてある程度の年月が経ったが、現在の状況は、実証主義および心理学言語学への「知的偏り」が見られる一方、主流の教育学および教育諸研究が適切に参照されていない傾向がある。本発表では、外国語教育をめぐる諸問題の中には、実証主義や心理学・言語学では解決不可能なものも多いことを指摘する。そして、それらを解決するためには、教育学・教育諸研究の貴重な蓄積を適切に参照すべきであるということを提案する。



1. 外国語教育研究における「教育(学)」の取り扱い

本日は、教育諸研究として外国語教育学を位置づけるにはどうすればいいかという点に関してお話しさせていただきたいと思います。構成は、以下のような6節構成になっていまして、最後の6節「結論」に向かって収斂していく形で展開させていただきます


1.1 外国語教育研究の心理学化・言語学化

まず、外国語教育研究において、教育研究、あるいは教育学がどのように取り扱われているかということですが、結論から言ってしまうと、あまり顧みられていないということが言えると思います。この分野において、現在、支配的な知識は、言語学および心理学であると言えます。


その傍証のひとつとして、「大学英語教育学会」(JACET)の知的トレンドを見てみましょう。図1および図2をご覧ください(いずれも出所は、寺沢 2009)。これは、「大学英語教育学会」の学会誌である紀要で取り扱われている方法論(図1)およびトピック(図2)を調べ、図示したものです。もちろん、ここには、「大学英語教育学会」という学会特有の性格もここに反映されていると考えられますが、それ以外の英語教育系の学会と対照しても、同様の傾向が見て取れるのではないかと考えられます。

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まず、図1から明らかになる点は、もうお詳しい方には常識的な部類に属する情報かと思いますが、計量的な実証研究が非常に多く、そうしたタイプの研究が学術的 prestige を得やすく、そのような知的傾向が前提になりつつあるということです。しかも、研究対象に関して注目してみますと、計量デザインに乗りやすいトピックが扱われやすく、したがってそうした枠組みには乗りにくいトピックが避けられがちであるうとい可能性も示唆されるといえます。つまり、問題設定が言語学的・心理学的な問題設定に収斂されていっているのではないかということです。


図2をご覧ください。これは、上述の実証研究(量的・質的双方)のうち、どのようなトピックが取り上げられているかを示したものですが、学習者の内的なメカニズムに焦点化した実証研究が非常に多い――例えば、学習者の言語能力、そしてその発現としての言語使用、あるいは学習者の心理的要因―ということがわかります。その一方で、「教室」内でのインタラクション、さらに視野を広げると、学校や教育制度社会全体のなかで、英語教育という現象がどのように位置づけられるかという点に関してはほとんど注目されていないということがわかります。こうした状況は、件の学会名、つまり、大学英語教育学会というラベルとは、若干距離があるように見えます。なぜなら、英語をめぐる「教育現象」を総合的に扱っているわけではないからです。なお、これは「大学英語教育学会のラベルが実態に則していない」ということを主張したいということではまったくありません。繰り返しになりますが、同様の知的トレンドは「英語教育学」「外国語教育学」全般に、大なり小なり認められるからです。あくまでひとつの例として、「実証しやすい」素材を取り出してきて提示したものとご理解いただければ幸いです。


1.2 英語教育学の誕生

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このように心理学化・言語学化が進行している現状があるわけですが、「英語教育学」という学問領域が提唱・構想された1970年代においては、かならずしも心理学あるいは言語学に特化するというようなことがうたわれているわけではありませんでした。この点は例えば、いずれも70年代後半に出版された『英語教育学ハンドブック』(垣田直巳編、1978年大修館書店*1The Teaching of English in Japan (Koike et al (eds.) 1978, Eichosha) などから伺えるとおり、むしろ、教育哲学や教育史など、教育全体を視野にいれつつ、英語教育を総合的に捉えた「科学」として理念化されていたわけです。図3はその一例です(吉田 1976)。注目したいのは、---図の立体的連関図式の意図はよくわからないのでここでは置いておくとして--- 「関連諸科学」として何が挙げられているのかという点です。言語学系・心理学系の関連分野以外では、例えば人類学地域研究、教育史、教育哲学、比較教育学などが挙げられています。このように見てくると、現在の教育心理学化・英語学化の状況は、構想時点から徐々に乖離していったということが示唆されます。


2. 心理学的/言語学的には解決できない問題群

ここで私は、心理学や言語学では、外国語教育の諸問題を解明できないなどと言おうとしているわけではありません。既に、そのような知的伝統に基づく外国語教育研究は非常に膨大な蓄積があり、それらは敬意を表するべき「知識」です。しかしその一方で、そうしたアプローチでは解決できな問題群があることもまた事実です。では、それがどのような領域かといいますと、これは論理的な当然の帰結ですが、心理学と言語学のカバーしていない領域であるといえます。もうすこしだけ限定的に言うならば、教育心理学と外国語学が取り扱わない(取り扱えない)領域であるということができます。では、これは具体的にどのような問題群が該当するのでしょうか。大別するとそれは、(1)価値 --つまり、広義の「倫理学」--- に関する領域、そして(2)社会・政治に関わる領域です。大雑把にいうと、前者は実証主義に対するアンチテーゼ後者は、心理学・言語学的知識に対するアンチテーゼであるといえます。なお、これらは、一見しておわかりのとおり、ロジカルに区別できるものではありません。互いに重なりあう部分も多々あるかと思います。ここでは、あくまで、説明の便宜上、区別したとご理解いただければ幸いです。


2.1 価値(広義の「倫理学」)に関する領域

応用言語学や外国語教育学の支配的な知識である「実証主義」は、「何が事実か」(存在)を判断するうえでの重要な拠り所となります。一方で、事実をいくらつみかさねても、「何をすべきか」(当為)は、究極的には決定不可能です(マックス・ヴェーバー社会科学社会政策にかかわる認識の「客観性」』)。そこで、「教育」という営みに関して考えてみますと、教育は学習者に何らかの影響を与えるものである以上、「何をすべきか」という哲学的・倫理学的な問題設定は避けられるべきではないと言えます*2。以下に、その具体例をあげてみたいと思います。


そのひとつは教育哲学における教育の目的があげられます。これを、英語教育に即して言い換えると、「英語教育の目的論」が当てはまります。砕いて言えば、「なんで英語を学ぶの?」ということであり、多くの方にとって有名なテーマです。ただ、これは、英語教育論においてよく見られる、単なる「私はこう思う/思わない」式の目的論とは大きく異なります。教育哲学は長らく、複数の異なる「価値」が示された際にどれに優先順位をつけたらよいか、そしてその優先順位はどのように正当化されるのかに関して議論を蓄積してきました。この点については、後述します。


これはきわめて抽象的なレベルの問題ですが、もう少し具体的なレベルで「価値」が問題となるのが、教育政策に関してです。例えば、近年、英語教育政策をめぐって、「平等か効率」かという論点が提示されています(cf. 江利川 2009)。両者は互いに相手方の立場をたとえば効率主義に対して「弱肉強食」とか、平等主義に対して「悪平等」などとレッテルを貼りあいますが、ここでは特定の立場に立つことが目的ではないので、両者の言い分に基づいてフェアに記述します。前者は、英語の教育機会の「均一性」を保障することで教育の機会均等を達成することを目指す立場といえます。一方で、後者は、「教育の機会均等」をもう少し柔軟に捉えなおした上で、意欲や適性、ニーズのある人々に(まさしく「能力に応じて」!)教育機会を提供するのが効率的であるとする立場です。ここで、「平等」と「効率」どちらをどれだけ重視すればよいかという問いの答えは、「事実」だけをどれだけ積み上げても得られないわけで、この場合に、重要な議論の拠り所となるのが、哲学的・倫理学的な問題設定であるといえます。


2.2 社会・政治に関する領域

一方、もうひとつの問題群は、社会や政治に関わる領域です。これは、英語教育を総合的に捉えるのであれば、必然的についてまわるであろう問題群だと思いますが、同時に、心理学・言語学が取り扱うのが不得意な分野でもあります。


具体例をあげると次のようなものが該当します。たとえば、イデオロギーの問題、英語教育に関係するものとしては、言語帝国主義論などが当てはまります。イデオロギーは集合的表象であり(単なる個人の「思い込み」には還元できない)、したがって社会的な現象です。個人主義的な仮定に基づいた枠組みでは充分に現象を捉えきれないでしょう。


そして、教育政策も文字通り「政治」の領域です。2.1.で取り上げた問題よりももっと具体的なレベルの政策論がここに該当します。たとえば、ある英語教育政策が採用されるとき、この意思決定は、英語学の「常識」や教育心理学の理論から自動的に導き出されたわけではありません。意思決定に影響を与える要因は多岐にわたりますが、もっとも重要な要因のひとつが、財政的裏づけです(どれほど素晴らしい理念・効果の教育方法でも、多大な予算が必要な場合、政策として結実しにくい)。したがって、政策レベルの議論をする上では、政治経済的な条件への考慮が不可欠であり、したがって、言語学・心理学的なディシプリンでは解決不可能な領域です。


3. 実証主義的科学 vs. 非実証主義

以上の、既存の枠組みで対処可能な問題と、対処できない問題を、ごくおおざっぱな対立図式としてまとめると、「実証主義的科学」と「非・実証主義」の対立として理解することができると思います。この図式に自覚的になるならば、外国語教育研究を行うにあたって二つのアプローチが導出されます。ひとつは、実証主義への禁欲的撤退です。これは、科学的/客観的に検証できることに専念し、価値判断を行うことは慎重にさけるという立場です。ただ、科学史科学哲学科学社会学の膨大な蓄積から既に明らかなとおり、厳密な科学的方法論に基づいて研究を行っている「科学者」も人間ですから、完全に価値フリーであることはあり得ず ---「観察の理論負荷性」(Hanson 1958)---、したがって、純粋に科学的・客観的な認識に到達するということはほぼ不可能と言っていいでしょう。つまり、本アプローチは、できる限り禁欲的に、自身の価値観やイデオロギーを研究プログラムに「密輸入」させないようにするべきだという、反省的な態度を伴った方法論的構えとして理解すべき性格のものだと思います。


それに対して、実証主義からの批判的離脱がもう一つのアプローチと言えます。前述の通り、実証主義(正確に言えば、そのうち「心理学主義・言語学主義」的な枠組み)で明らかにすることが困難な領域を重視し、実証主義から距離をとることを積極的に選択するものです。ここで、価値判断は、「実証主義への禁欲的撤退」アプローチよりもさらに重要な意味を持ちます。自身の研究プロジェクトには、価値判断が必然的について回り、したがって決して認識論的に中立な立場に至ることができないことを認めた上で、その価値判断から逃れるのではなく、何らかの形で正当化していくことを目指すアプローチです。もちろん独善的な根拠を並べただけでは、「正当化」とは呼べないわけで、そこには共有可能な根拠が必要となります。


ここまでの議論を総合しますと、既存の外国語教育学にとって不得手なアプローチは、後者---「実証主義からの批判的離脱」であるということが言えると思います。ここで、念のため付け加えておきますと、私は「科学的アプローチはダメだ、教育者の『経験』『直感』ベースの教育論に帰るべきだ」ということを主張する気はまったくありません。それは進歩ではなく、むしろ後退です。日本において「英語教育学」が提唱された当時のrationaleのひとつが、「経験ベースの英語教育論から、客観的・科学的な英語教育論へ」でしたが、その振り子を元に戻すべきだという意味ではないのです。様々な事情によって科学的・客観的の名の下に脇に退けられてきた非主流の領域にも、主流の領域同様、学問的な探求が求められているということを申し上げたいのです。



4. 主流の「教育学」

では、この「実証主義からの批判的離脱」をいかになせばよいのかということになります。既存の外国語教育研究には蓄積があまりありませんが、幸いなことに、主流の「教育学」においてはすでに多くなされてきています。もちろん、教育学においても、ずっと前から「科学的」なアプローチは支配的な知のひとつでした。しかし、「社会」や「価値」に関する学問的蓄積も止むことなく続いてきました。そうした「蓄積」を適切に参照することで、外国語教育研究も新たな展開が可能になるのではないかということが、本日私が提案したいことです。


4.1 教育研究の照準

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ここで、教育学(教育諸研究)の対象はどのような領域に広がっているのか、そして、既存の外国語教育研究はどの辺りに位置づけられるのかを簡単に確認しておきましょう。

図4をご覧ください。これは田中(2003)による整理ですが、教育諸研究を、「ミクロ志向←→マクロ志向」を縦軸に、「学問志向←→教職志向」を横軸に、まとめたものです。図中の点線で囲まれている領域が、「教育学」が一般的に対象としている範囲と説明されています。さて、日本の「英語教育学」が現在のところどの辺りに位置づけられるかとすれば、おそらく、「教科教育学」と「心理学」にまたがる領域に該当し、図中の右上部分に位置づけられそうです。逆に言えば、それ以外の部分は、現在のところ、「英語教育学」の射程にはあまり入っていないと言えます。したがって、図の左上・右下・左下部分を英語(外国語)教育研究が取り組もうとすれば、先行研究として、教育学の既存の知見を利用することが有用となると言えるでしょう。


5. 解決(できるかもしれない)例

ここまで、教育学を参照することの有用性について、抽象的なお話をしてきました。以下、具体的に、その参照例(参照案)を見ていきたいと思います。


5.1.(不毛な)英語教育目的論

まず、取り上げたいのが、2.1.でも触れた英語教育の目的論に関してです。ご存じの方も多いかと思いますが、日本では長年にわたって、「英語(科)教育の目的は何か」という点について、非常に様々な論点が提示されてきました。それらを簡単に列挙しますと、実用、教養スキル育成、知育、国際理解、人格教育などといった多種多様な目的論があります。言い換えれば、互いに異なる ---場合によっては互いに対立する--- 「価値」が英語(科)教育に求められてきたわけです。とはいえ、長年の議論にもかかわらず、英語教育の目的に関する合意はほとんど得られておらず、論者各人の価値観の対立に終わっているとさえ言えます。


こうした「難問」を解決するヒントとなるのが、教育哲学の分野における教育目的論です。ただし、この分野ではすでに、「私はこれが正しいと思う」「いや、あれが正しい」といったレベルの議論に止まっているわけではなく、それを越えるような展開を見せています。そのひとつとして、ここでは、宮寺晃夫氏の「教育目的の正当化論」(宮寺 2000)を取り上げます。


このアプローチでは、「正しい目的」は人それぞれだというように、目的の多様性を前提にして、では、いかにしてこのような多様性が正当化されたのかを主眼に置きます。言い換えれば、異なる価値観を持った成員に対し特定の目的が設定された場合、この設定の公正さを問うということです。私なりに、英語教育目的論の文脈に「翻訳」すれば、たとえば、「実用」と「教養」のどちらがどれだけ教育目的として相応しいかを結論づけることを目指すのではなく、「教養←→実用」のウェイトがそれぞれ異なる人々(学習者)にとって公正な目的論の導出はいかなるものかを論じるものと言えます。


5.2 (不毛な)英語教育政策論

一方、教育政策論の面から、教育研究が参照できる(かもしれない)例を考えてみたいと思います。ここではひとつのケーススタディとして、公立小学校への「英語」導入をめぐる議論 ---特に、政策導入の可否をめぐるアカデミックな議論--- を取り上げてみたいと思います。


ご存じの方も多いと思いますが、公立小学校での英語教育を導入する上での教育的根拠は、90年代から現在までに大きな変遷を示しています。当初は、その目的の大きな部分を「スキル育成」が占めていました ---もちろん、「スキル育成」のみというわけではなく、たとえば「国際理解」なども重要な根拠のひとつでしたが。しかしながら、2000年代以降、実践の蓄積によって、「英語能力育成」というrationale は次第に後退していき、その代わりに、「非・英語能力」的な価値(たとえば、異文化理解や、(母語も含めた)コミュニケーションへの態度)の比重が上がっています。


小学校英語教育をめぐる論争は、主に、これらのどれが「正しい/妥当」かを争ってきたわけですが、ここではそれに甲乙つけるのが目的ではないので、脇に置いておいて、上述の「目的論」がどのように根拠づけられているかに注目してみたいと思います。なぜこれが大事なのかと言いますと、「導入」をめぐる議論は、まず第一に政策論であるからです。その意味で、教育者の経験・信念に基づいた「教育論」とは一線を画す(べき)性格のものです。というのも、個人的な実践としてではなく、政策として特定のカリキュラムの導入を決定するということは、法的・制度的な強制力を伴うものであり、したがって、必然的に(子ども保護者/教師/国民に対する)説明責任が生ずるからです。つまり、ある「政策」導入に際し、どのような「説明」がなされているかを精査し、その「責任」を吟味することで、政策決定の公正さ ---5.1. で取りあげた論点です--- をはかることができるのです。


「公正な説明」としてまず考えられるのが、データに基づいた正当化です。つまり、「データで裏付けられているから効果がある」ということを導入の一つの根拠にするわけです。事実、小学校で英語教育を行うことの「効果」に関して、主に80年代後半から、実証的なデータが蓄積されてきました*3。そこで主に提示されてきたのは、言語テストや、動機づけや国際理解意識に関するアンケートの結果でした。つまり、数値で表現されているという意味での「客観的なデータ」が「効果」の根拠として持ち出されてきたわけです。


しかし、児童の言語能力や様々な態度が促進されたか否かというのは、特定のプログラムの妥当性を評価するうえでの、あくまで一つの基準に過ぎません。というのも、小学校英語は小学校の教室内で行われているものである以上 ---つまり自習教材による自主学習ではない以上---、児童個々の言語能力や心理要因にすべてを還元することはできないからです。むしろ、そのプログラムが教室にどのような影響を及ぼしているか、端的に言えば、「現場で何が起きているか」の情報が不可欠です。


もちろん、現場に関する情報は、様々なところで様々な「観察者」の方から ---とくに小学校英語に携わる方々から--- 述べられています。たとえば、「英語を始めたら、教室の雰囲気が変わった」のような。こうした「語り」自体は、私たちにとって大変貴重な情報ですが、ここで重要な点が、こうした「語り」の蓄積だけで説明責任を果たしていると言えるのか、という点です。結論から言いますと、まだ不十分であると思います。なぜならば、政策決定の手続きが公正と言えるのは、観察者の「主観」が非観察者にも共有化され、合意が目指されている場合だからです。


しかし実際は、たいていの場合、「観察者の主観」はごく抽象的に述べられており、豊富な記述に基づく説明的な「主観」ではありません。例えば、「教室の雰囲気が(ポジティブに)変わった」と一言で言っても、導入以前の教室の雰囲気は、具体的に誰(児童、担任、それとも学級外の人?)のどのような振る舞いや考え方によって形作られており、それが導入以降、具体的に誰のどのような行動・思考によって、変化していったのかはわかりません。さらには、教室\.{全}\.{体}の雰囲気が良くなったとしても、そのなかで取り残されている児童や、むしろ居心地が悪いと思っている人々もいるかもしれません。

しかし、このような記述は、従来の外国語教育研究の、実証主義的、そして数値至上主義的な方法論では不可能です。それに対し、こうした記述を得意とするのは、主流の教育学(いわゆる授業学など)、そして教室のエスノグラフィーです。前者と後者では、スタンスがやや違いますが ---例えば、教育的示唆や記述の中立性をどれくらい重視するか*4---、いずれにせよ、従来の「科学的」外国語教育研究が(おそらく食わず嫌いで)切り捨ててきた、「主観」を学問的に探求するアプローチであり、大いに参考になると思います。


6. 結論

以上の通り、長々と述べてきましたが、結論は至ってシンプルで、

  • 外国語教育研究と名乗る以上、他分野の教育研究を、必要に応じて適切に参照すべきである

ということです。既存の知的枠組みがこうだから、という理由で、その知的枠組みに安住し、それを再生産させるのは学問的誠意に欠けます。すでに良い部分はさらに発展させ、そのままではダメな部分は、他領域の知見を借り、修繕に当たるといった、ごく常識的なことです。とはいえ、その「常識」が、例えば「英語教育学」全体に浸透しているとは思えなかったので、本日のお話をした次第です。ご清聴ありがとうございました。



引用文献

  • Hanson, N. R. 1958. Patterns of discovery: An inquiry into the conceptual foundations of science. Cambridge: Cambridge University Press.
  • Koike, I., Matsuyama, M. Igarashi, Y., & Suzuki, K. (Eds.) 1978. The Teaching of English in Japan. Tokyo: Eichosha.
  • Pennycook, A. 2001 Critical applied linguistics: A critical introduction. Mahwah, NJ: Lawrence Erlbaum.

*1:特に、英語教育学の創出をめぐる議論の整理として、同書所収の垣田(1978)が参考になります。

*2:応用言語学の実証主義的傾向に対する批判は、Pennycook (2001) をご参照ください。また、ここでの「倫理学」という用語の使い方も同書の議論を意識しています

*3: たとえば、日本児童動英語教育学会(JASTEC)による(必ずしも「公立」小学校とは限らないものの)比較的大規模な経年的研究があります。

*4:前者としては、たとえば、稲垣佐藤(1996)が、後者としては苅谷ほか(2008)が参考になります。