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February 28, 2011

ジム・カミンズの言語能力理論と日本の第二言語教育


ジム・カミンズ(Jim Cummins)の理論と日本の第二言語教育 - Togetterまとめ


先日、バイリンガル教育の理論的基礎を築いた心理学者ジム・カミンズ氏(Jim Cummins)が来日され、ツイッター上でも氏の理論に関する議論が盛んに行われています。また、日本の英語教育においても氏の重要な言語能力理論(例えば、二言語相互依存仮説やBICS/CALPの区別)が引かれています。しかしながら、特に英語教育の分野で、氏の理論があまり適切に理解されていないのではないかという懸念が以前からあり、上記のようなツイートを連投しました。以下、ツイッターの140字では書ききれないことを、カミンズ氏の実際の論文に則して紹介したいと思います。


(なお、私の専門は教育社会学教育心理学ではありません。思い違い等あるかもしれませんので、気が付いた方はぜひご指摘をお願いします)


ジム・カミンズ氏の2000年頃までの基本的な主張は、An Introductory Reader to the Writings of Jim Cummins (C. Baker & N. Hornberger Eds., 2001, Multilingual Matters) という便利な本が出ていますので、こちらでカバーすることができます。


ここでは、氏の理論のなかで、日本の英語教育への示唆としてよく引かれる「言語能力の相互依存仮説」および「基礎的対人伝達スキル(BICS*1)/認知学力的言語能力(CALP*2)」を論じたいため、この本のなかの、次の論文を取り上げます。


  • Cummins, J. (1980). The Entry and Exit Fallacy in Bilingual Education. NABE Journal. Vol. 4., pp. 25-60.


母語」能力も「外国語」能力も「根っこは一緒」

実際のテクストを見る前に、日本の英語教育では上記の理論はどう説明されていることが多いのでしょうか。簡単に見ておきます。「相互依存仮説」は、文字通り、第1言語(L1)も第2言語(L2)も基底の部分では相互に依存している、いわば「L1もL2も根っこは一緒」という理論でが、これが日本の文脈に適用されると「日本語(L1)も英語(L2)も根っこは一緒」と言い換えられます(これは、「氷山」のイメージで説明されています ―以下の(ベネッセサイトから直リンした)画像参照)。


http://benesse.jp/berd/center/open/berd/backnumber/2006_05/img/nakajima_fig03.gif


ただ、言語能力のあらゆる側面において「根っこが一緒」というわけではなくて、相互依存の部分と独立している部分があります。前者が認知学力的言語能力(CALP)で、後者が基礎的対人伝達スキル(BICS)です。常識的に考えても、「とっさの一言」的英会話は、日本語の会話がどんなに上達しても上手くならない気がしますが、学術書を読む力は日本語と英語である程度相関している気がします。この点をカミンズ氏は心理学的に実証したうえで、L1およびL2の認知学術的言語能力(CALP)は相互に転移すると主張しました。砕いて言うと、「どちらの言語で教えても、もう一方の言語能力(CALP)は伸ばせる」という感じになるでしょうか。


「母語」の重要性?

以上のカミンズ理論から、日本の英語教育ではしばしば「母語の重要性」が説かれます。すなわち、「日本語能力育成を土台にした英語教育を行うべきだ、英語で英語を教えるのはもってのほか」のような「日本語重視の英語教育論」です。しかしながら、その帰結おかしいと思う方もいるのではないでしょうか?実際、私の知人にも次のような疑問をぶつけてきた人がいます。


  • カミンズさんは、第一言語と第二言語は相互に転移するとは言っている。でも、その転移は「L1からL2へ」だけとは言っていない。カミンズさんの主張に忠実に従うなら、「「どうせ日本語力につながるんだから、英語力育成を徹底的にやってもいいよ」だって同時に言えるんじゃないの?

これは要するに「英語力(L2)重視論」という帰結も等しく可能ではないかという疑義です。単に「英語使用を多めにする」というだけでなく、「英語だけの教育」(All in English)やイマージョン教育*3正当化できそうです。なぜなら、繰り返しになりますが、カミンズ氏は「L1とL2は転移する」ということしか言っていないからです。


いわば、「母語を大事にすべし」も「母語育成は後回しでOK」も両立可能。これは重大な理論的矛盾ではないでしょうか?


カミンズ理論の重要な文脈

結論から言ってしまうと、カミンズ氏の理論はまったく矛盾していません。(そもそも矛盾した理論がこれほど長らく生き残っているはずもありませんし)


矛盾しているように見えるのは、《日本の英語教育的な説明》が、重要な理論的文脈を無視してしまっているからです。その文脈とは、マジョリティマイノリティという権力関係です。つまり、マイノリティが言語学習を行ううえで、どのように教育言語の選択を行うべきかという論点です。


実際のテクストを確認します。上の論文はけっこう長いので、「相互依存仮説」そのものをずばり定式化している部分を見てみましょう(上掲書の p.122)。

To the extent that instruction in Lx is effective in promoting cognitive academic proficiency in Lx, transfer of this proficiency to Ly will occur provided there is adequate exposure to Ly (either in school or environment) and adequeate motivation to learn Ly.


[寺沢訳] X語での指導がX語の学力育成に有効である限り、この学力はY語へ転移する。ただし、(学校生活環境で)Y語への十分な接触があり、かつ、Y語を学ぶだけの十分な動機があるという条件においてである。


ここで非常に重要なのは、カミンズ氏は、第1言語(L1)・第2言語(L2)ではなく、X語(Lx)・Y語(Ly)という表現を使っていることです。つまり、ここでの定式化において、母語なのか第2言語なのかはあまり重要ではないということです。


どのような要因がX語とY語を決めるかというと、先述の通り、言語集団をとりまく権力関係であることをカミンズ氏は説明しています。ごく大ざっぱに言うと、X語はマイノリティ言語で、Y語はマジョリティ言語です。上記引用の「十分な接触があり」かつ「学ぶだけの十分な動機がある」という条件はマジョリティ言語の特徴と言えるでしょう。一方、マイノリティ言語の場合、言語集団に適切なエンパワーメントが行われなければ、この条件は当てはまらないと思われます。


なぜマジョリティ/マイノリティという区別が重要か

母語/外国語という区別が重要でないとすると、上記の定式化にはどのような意義があるのでしょうか。


そもそもカミンズ氏は、北米のマイノリティ児童のための第2言語教育に大きな関与をしてきた研究者です(さらに言えば、米国等の第2言語教育政策に対し痛烈な批判を展開している「戦闘的」心理学者でもあります)。上記の論文でも詳しく述べられていますが、マイノリティの児童(特に、移民の子弟)はまず第1に、「移行プログラム」と呼ばれる教育プログラムを受けます。これは、米国のメインストリームである「英語による教育」への準備段階のようなものと考えて頂ければいいと思います。このプログラムである程度の英語能力がついたと判断された児童は、メインストリームの学校教育順次移されるということになります。


この「移行」の判断に、大きな誤謬があったとカミンズ氏は指摘しています。その誤謬とは、


  • できるだけ早くメインストリームの教育に移行した方がよい(したがって、「母語」による教育はなるべく早く切り上げた方がよい)

というものです。この背後には、「英語力は、英語による指導を通してのみ伸びる。移民の言語による教育は時間のムダ」という素朴な誤謬があったわけです。こうした誤謬に反論するために、上記の相互依存仮説やBICS/CALP理論は有効なのです。すなわち、「英語力は、移民の母語を媒介にしても育成できる」ということです。


ところで、米国のマイノリティ児童は、日本の子どもと違い、学校で英語(語学)だけを学んでいるわけではありません。その他の教科も併せて学習する必要があります。数学理科社会などの複雑な概念・知識も、ただでさせ不慣れな英語を介して吸収しなければならないのです。もし「英語だけの教育に極力早く移行すべし」という誤謬をもとに、まだ英語のCALPが十分でないにもかかわらず、メインストリームの授業に放り出されたとしたら...。その場合、基本的なコミュニケーションスキル(BICS)は伸びるかもしれませんが、CALPの助けが不可欠な教科学習にはついていけなくなるでしょう。こうした「誤解に基づく教育措置」の問題点を理論的に明らかにできる点で、カミンズ氏の相互依存仮説やBICS/CALP理論は意義深いものになると思います。


日本へ適用した場合の皮肉な帰結

最後に、日本の英語教育に再び視点を戻してみたいと思います。日本国内において、少なくとも、日本語は「マイノリティ言語」とは言えないので、上記の定式化は、次のように書き換えられます。


  • 英語での指導が英語の学力育成に有効である限り、この学力は日本語へ転移する。(ただし、学校や生活環境で日本語への十分な接触があり、かつ、日本語を学ぶだけの十分な動機があるという条件においてである)

皮肉なことに、日本のコンテクストに置いた場合、「母語育成擁護論」というより、「英語力育成重視論」に都合がよい結論が導けてしまうかもしれません。


カミンズも、実際、上記の論文のなかで、マジョリティの子どもの場合は、マイノリティ児童とは逆に、「母語」以外の言語 ――特に、マイノリティの言語―― によってイマージョン教育を受けることは効果的であり、また、公共性観点からも望ましいと述べています(具体例としては、カナダフレンチ・イマージョンやアイルランドのアイルランド語による教育*4)があげられています)。


なお、当然ながら、「日本における英語」は「日本における日本語」と同様、「マイノリティ集団の言語」ではないので、上記のカミンズの主張とはまたずれてきます。ともあれ、「マイノリティ/マジョリティという権力関係のなかでの英語教育」というのを考えにくい、日本という《特殊》な環境ゆえ、歪んだ形でカミンズ理論が受容されているのでは、と邪推している次第です。

*1Basic Interpersonal Communication Skills

*2:Cognitive Academic Language Proficiency

*3:英語を使用して「英語科」だけでなく他教科も教える教育プログラム

*4:混乱しやすい点ですが、アイルランドの子どもの第1言語はほとんどの場合「英語」で、アイルランド語ではありません。

てらさわてらさわ 2011/03/01 05:20 最後の部分。

日本において「マイノリティ/マジョリティという権力関係のなかでの英語教育」は確かに考えにくいですが、「マイノリティ/マジョリティという権力関係のなかでの第二言語教育」自体は、そこらじゅうにあります。在日韓国朝鮮人やアイヌの子どもの言語教育、最近では移民の子どもの言語の問題。
誰かがその点を補足してくれるかと思ってあえて触れないでおきましたー

柳瀬陽介柳瀬陽介 2011/03/01 10:48
面白い記事をありがとうございます。

次の命題(仮に命題Aと名づけます)は、妥当だと私も実感します.


命題A
英語での指導が英語の学力育成に有効である限り、この学力は日本語へ転移する。(ただし、学校や生活環境で日本語への十分な接触があり、かつ、日本語を学ぶだけの十分な動機があるという条件においてである)


※ただしここでは、「英語での指導が英語の学力育成に有効である限り」という条件が、日本の環境でも満たされなければなりません。正直言いまして、ここまで高度な英語学力指導がなされている環境(=学術的な英語を読めるだけでなく、書けもする。また討議もできる)は日本ではさほど多くないのではと思っています。



しかし同時に、命題AのLxとLyを入れ替えた次の命題Bも妥当な命題だと思います。


命題B
日本語での指導が日本語の学力育成に有効である限り、この学力は英語へ転移する。(ただし、学校や生活環境で英語への十分な接触があり、かつ、英語を学ぶだけの十分な動機があるという条件においてである)


※ただし、少なからずの日本語の学術言語ディスコースは、英語などの学術言語ディスコースを違うところをまだ残しているので、そのあたりの留保条件は必要です。

この命題Bの妥当性は、私が学部生などに日本語での論文指導をし、最後に英語論文を書かせるなかで感じていることです(もちろん比較実験などしていませんが)。

カミンズの解説は非常にありがたかったのですが、最後の「日本へ適用した場合の皮肉な帰結」の中で、命題Bに言及されていなかったので、ちょっと気になって書きました。

もちろん寺沢さんは、「マジョリティ/マイノリティ」の観点から、日本の場合ではマジョリティ言語が日本語でマイノリティ言語が英語であるとの認識のもとに、命題Aを書かれたのでしょう。

しかし、例えば私がお話を聞かせていただいた某国立研究機関(生命科学系)などの中では、学術言語においては英語のほうがマジョリティ言語で、日本語がマイノリティ言語になっています。そのような(数の上では珍しい・しかし高等教育での英語教育を考えるには重要な)日本の環境では、命題Bに基づいて、まずは日本語で学術言語の使い方を教えることがなされています(その研究所でもそうです)。

私の大学・大学院では、そこまで英語は権力をもっていませんが、少なくとも「象徴的権力」は大きく、「タテマエ」の世界では「英語こそがマジョリティ言語であるべき」といった考えがぼんやりと共有されているとも思えます。

また命題Aの「英語での指導が英語の学力育成に有効である限り」という条件を日本で充たすのが困難であるのに対して、命題Bの「日本語での指導が日本語の学力育成に有効である限り」という条件は比較的充たしやすいということは言わずもがなかと思います。

というわけで命題Bの妥当性・現実性も無視できないと考え、命題Bについても補足したく思いました。

ともあれ有益なブログ記事に感謝します。

2011/03/01
柳瀬陽介

てらさわてらさわ 2011/03/03 22:18 柳瀬先生、コメントありがとうございました。

カミンズ理論に基づけば、日本という文脈とでは、命題A(L2=英語重視論)が真か命題B(L1=日本語重視論)が真かは不確定であるという点、おっしゃるとおりです。ですので、命題Bに関する言及をしなかったのは少しミスリーディングでした。

逆に言えば、同時に相反する帰結が導けてしまう両立してしまう日本というコンテクストは、同理論を適用する上でかなり「異例」な環境にあるということかもしれません。

また、これは私の書き方が悪かったのですが、「マジョリティ言語/マイノリティ言語」は、カミンズ氏の(少なくとも80年代の)理論に基づけば、

・マジョリティ(言語)集団の言語
・マイノリティ(言語)集団の言語

ということになります。日本では、日本語は「同理論におけるマジョリティ言語」は間違いないと思います。
一方で、英語は、そもそも日本国内に言語コミュニティが(いわゆる「アメラジアン」等を除き)ほとんど存在しないので「マジョリティ言語ともマイノリティ言語とも言えない」わけで、そもそも命題を構成するのが、困難になると思われます。そんなわけで、最後の1段落は「色気」(いわゆる「釣り」)と思ってくださればありがたいです(笑)


言語コミュニティが存在するという意味で、日本国内で同理論を適用しやすいのは、例えば《ブラジル人の子どものためのポルトガル語による教育》の正当化であると思います。


ともあれ、この記事が、英語力育成重視論に流用されてしまうのは、私の本意でもありませんので、注釈をいただいたこと、大変感謝致します。

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