こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

「SLAは疑似科学だ」という批判と「科学」の意味

この記事のつづき。
英語教育学における2つの「科学」(対話篇) - こにしき(言葉、日本社会、教育)

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SLA第二言語習得研究)は疑似科学だ」という批判がある。

言わんとしていることは、正直なところ曖昧なところも多い。ただ、実務家(教育実践者)からよく聞かれるという点を考慮するならば、SLAは「科学」然と振る舞ってはいるものの、その実、まったく科学的ではなく、私たちの指導には貢献しない、こんなものは役立たずだといった意味合いだろうか。

もちろん、ここでの「疑似科学」の用法は、科学哲学における分析概念としての「疑似科学」ではもはやない。単なる(比較的上品な)侮蔑語である。したがって、SLA側がこうした批判を真摯に受け止めつつ、「我々は疑似科学でない」ことをアピールしていく意義というのは特にないはずだ。たいした根拠も示さず「バカ」と罵ってきた相手に、「いいえ、バカではありません。なぜなら・・・」と応答する意味はあまりないだろう

しかし、こうした「SLA疑似科学」という批判のレトリックが一部の人にとって説得力を帯びてしまう背景には、SLA/英語教育研究側にもそれ相応の原因があると思う。それは、先日の記事で指摘した「政策科学と基礎科学(認知科学)を区別していない点」である。

つまり、教育現場が真に欲しいのは「意思決定のための政策科学」が提供する知識なのに、SLAが提供するものは主に「メカニズム解明型の基礎科学/認知科学」の知識である。この点にかなり深刻なミスマッチが存在するのだと思う。

もちろんSLAにもいろいろな分野があり、SLAは一枚岩ではないのは事実だが、その多様性にもかかわらず、SLAの大部分が意思決定を目指していないことは事実だと思う。ここは現状認識としてきわめて重要な点なので、違ったらご指摘して欲しい。たとえば、教室SLAは意思決定型ではないのか、と思う人もいるかもしれないが、フィールドが教室かそうでないかはあまり重要ではない。特定の処遇の効果を直接的に検討していない限り、それは意思決定型とは言えない。(つまり、検討対象を構成要素に分解し、厳密に測定したうえで、間接的な証拠を提示した場合は、意思決定型ではない)。

したがって、SLAは意思決定にはあまり役立たないし、そもそも役立つ気もない。これはメカニズム志向型・要素還元主義型の「基礎科学/認知科学」の宿命であるからどうしようもない。しかし、その役立たなさに対する不信感が「疑似科学だ」という批判につながっているとかんがえると納得がいく。

ちなみに、英語教育学の大先生の中にはごくたまにではあるけれどSLA的な科学知識を使って強引に政策(意思決定)を論じる人がいる。その場合に教育現場が感じる(なかば直感的な)不信感は正当なものだと思う。

たとえば、脳科学とか文法習得の加齢効果の知見を根拠に、早期英語教育のような特定の教育プログラムの効果を論ずるのは、明らかに「領空侵犯」である。もしそのような越権行為をする専門家がいるとすれば(実際あまりいないと思うけれど)批判はされて当然だろう。

ただし、SLA者の越権行為に対する批判として正当な表現が「疑似科学」ではないのは当然のことだろう。「そのような知見は、科学的エビデンスとしては不十分」あたりが妥当だと思う。「疑似科学だ」とは言わず、「科学の理解がおかしい」と言えばよい話であり、不毛な議論を避けるうえでもこうした論難のほうがまだマシだと思う。