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2006-01-17 演説は最初の武器だ

[]河野密(社会党)の犬養健(自民党)追悼演説

これはメモです。

○議長(清瀬一郎君) また、御報告いたすことがあります。

 議員犬養健君は、去る八月二十八日逝去せられました。まことに哀悼痛惜に至りにたえません。同君に対する弔詞は、議長において贈呈いたしました。

 この際、弔意を表するため、河野密君から発言を求められております。これを許します。河野密君。

    〔河野密君登壇]

○河野密君 私は、諸君の御同意を得て、議員一同を代表し、故本院議員正三位勲一等犬養健君に対し、つつしんで哀悼の言葉を申し述べたいと存じます。

 私どもは、昨年来、犬養君が健康を害し御静養中と承り、御回復の一日もすみやかならんことを心から祈り上げていたのであります。しかるに、不幸にも御本復を見るに、至らなかったことは、まことに痛恨きわまりない次第であります。(拍手)

 犬養君は、わが国憲政の先覚者の一人であり、後には内閣総理大臣の重責をになわれた木堂犬養毅先生の長男でありまして明治二十九年七月、東京で出生されました。

 長じて学習院に学び、大正六年、東京大学文学部に進まれましたが、生来芸術を愛し、文筆に長じておられた君は、作家として立つべく、間もなく大学を退いて文学に専念されました。君の、格調の高い、しかも意欲的な作品は、文学の新しい領域を開拓するものとして世の注目を集め、将来を期待されるに至ったのであります。

 しかしながら、君は、父君の業を継ぐべしとの周囲の人々の勧めもだしがたく、作家生活において養われた理想主義と批判的精神とをもって、やがて政界に入られたのであります。

 すなわち、昭和五年二月の第十七回衆議院議員総選挙に東京第二区から立ってみごとに当選され、立憲政友会に所属し、少壮有為の政治家として研さんに努められたのであります。

 昭和六年十二月、犬養毅先生が内閣を組織せられるや、首相秘書官に就任し、当時のきわめて、不安な政治情勢のもとにあって、よく父首相を助け、その職責の遂行に力を尽くされたのであります。

 翌七年五月、不幸にも父君は暴徒の凶弾に倒れられたのでありますが、そのあとを継いで、次回の総選挙からは岡山県第二区より出馬されました。

 昭和十二年には、第一次近衛内閣の逓信参与官となり、通信、海運、航空行政に参画されたのであります。

 昭和二十年十月、君は、幣原内閣の外務政務次官となり、終戦直後の混乱期における総司令部との折衝に日夜肝胆を砕かれました。また、当時、わが国の政界においては、何よりもまず、政治力の結集、すなわち、政党の組織が急務とされたのでありますが、君は、同志と相はかり、時代の要請にこたえるべく努力を重ね、その結果、同年十一月、修正資本主義の旗じるしのもとに進歩党の結成を見るに至りました。同党は、二十二年三月、民主党に発展したのでありますが、翌二十三年十二月には、推されて、その総裁の重任につかれたのであります。

 また、昭和二十七年十月には、第四次吉田内閣の法務大臣となり、第五次吉田内閣にも同じく法務大臣として入閣されました。その後は自由党の総務、常任顧問となり、また、自由民主党顧問の要職にあって、政界の長老として党内外の信望を集めておられました。

 かくして、犬養君は、本院議員に当選すること実に十一回、在職二十八年七カ月に及び、去る三十二年二月には、永年在職議員として、はえある表彰を受けられたのでありまして、わが国憲政の発達、ことに終戦後の国家再建に尽くされた君の功績はきわめて大なるものがあると存じます。(拍手)

 思うに、犬養君は、父木堂先生の血を受けた国士的風格に近代的知性を加えた温厚な君子人でありました。まれに見る、明晰な、しかも緻密な頭脳の持ち主であるとともに、常にみずから高い理想を掲げ、満腔の情熱をもってあくまでこれを追求するという信念の士であったのであります。

 犬養君は、また、幼時より孫文その他中国の革命家と親しく接する機会を持ち、中国に対して深い関心と愛情を抱いておられました。ことに、日華事変中は、生命を賭して幾たびか中国に渡り、かの地の要人と会見して、両国間の平和回復のために奔走を続けられたのであります。

 昨年夏、当時の記録を残すために、原稿の作成に着手されたのでありますが、不幸にも病気にかかり、入院のやむなきに至りました。その後半歳にわたる闘病生活の間、主治医の再三の注意にもかかわらず、一意専心、原稿の完成を急がれたのであります。この文字通り骨身を削る苦心の結果、ようやくこれを脱稿されたのでありますが、いよいよ発刊される数日前に病にわかにあらたまり、八月二十八口早暁、ついに不帰の客となられたのであります。

 私どもは、犬養君のこの旺盛な精神力に心から敬服すると同時に、今この遺著「揚子江は今も流れている」を拝見するとき、行間にあふれる君の高邁な人間愛と平和主義に胸を打たれるのを覚えるのであります。(拍手)

 私が初めて犬養健君の名を知ったのは、遠く雑誌「白樺」の誌上でありましたが、君と親しく交わるに至ったのは、君が政界に入られてからでありました。戦時中君が大陸において画策されたことについては、おそらく後世史家の批判に待つべきものが多いと存じますが、君は、この間、囹圄の人となるなど、苦難の道を歩まれました。

 終戦後、日本社会党の結成にあたって、われわれは君の参加も求めたのでありますが、君は、笑って、育ちの違う私は別の道を歩みます、と断わられました。私は、むしろ、君の誠実さと率直さに尊敬の念を禁じ得なかったのであります。君は、このころから進歩的な保守政治家をもってみずから任じたようでありますが、みごとそれを貫かれたと思います。たとい党を異にしても互いに相通ずるものを感じ合える君の存在は、私にとって、かけがえのない尊いものであったのでありますが、その君は今やこの世になく、むなしく思い出のみが残っているのであります。

 現下、内外の情勢はますます多事多端であり、議会民主政治の確立と国会の権威の高揚とが従来にも増して要望せられております。従って、われわれ国会議員の責務も一段とその重きを加えたと痛感いたすものであります。このときにあたり、犬養君のごとき練達の士を失いましたことは、国家、国民にとり大なる損失でありまして、哀惜の情いよいよ尽きぬものを覚える次第であります。(拍手)

 私は、ここに、犬養君生前の事跡を回顧し、その人となりをしのび、つつしんで追悼の言葉といたします。(拍手)

疑獄事件に女性問題など、偉大なる犬養毅の息子にしては具合の悪いエピソードに事欠かない犬養だが、死んだあとはそれなりに業績を評価してもらえたみたいだ。勿論、死者に鞭打つ様な真似はできないというのは、与野党ともにあるのだろうけれども。

戦時中君が大陸において画策されたことについては、おそらく後世史家の批判に待つべきものが多いと存じますが、君は、この間、囹圄の人となるなど、苦難の道を歩まれました。

この部分は、汪兆銘政権の樹立に関わって色々画策したことを指している。そのせいもあって戦後は公職追放されたが、本人は自分の立場でやれることをやっただけなんだろうけど。

父親の影響で中国通だったんだろうけど、ちょっと甘かったかな、というのは後世の後知恵か。

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