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兵の地 - つわもの迷走記 - このページをアンテナに追加 RSSフィード

20170202Thu

[]機種変更の季節ですね 機種変更の季節ですねを含むブックマーク

今、すげー悩んでいることがあって、でも誰かに相談するほどでもなく、しかし、ウンウン唸りながら悩むだけなのは無意味なのでどうしようかななどと考えていたら、ここの存在を思い出しました。そうだ! ブログって日常のことも書いていいんだった!

というわけで、何でも無い話を書きます

現在、色々と検討した結果、通話専用のガラケー通信専用のスマホiPhone)と分けた方が料金的にお得であるのと、スマホ通話すると画面に顔の脂がつくのが嫌だという結論の下、7年ほど(それぞれ機種変を重ねながら)2台持ちを続けてきました。そして現在はMARVERA2(ガラケー)とiPhone 6 plusというコンビと一緒に生活しているんですが、その二年縛りがまもなく解けるという段になって、ふと思ったんです。というか、正直4年目ぐらいから思ってたんですが、

2台持ち、めんどくさい。

ガジェット好きなので、複数台のデバイスを持ち歩くこと自体は良いのですが、下記のような状況が頻発。

1)iPhoneラジオやら音楽やらを聴きながら生活していると、ガラケーの着信に全然気付かない。

2)電話番号しか知らない人にiPhoneSMSすると、相手に「電話番号違うけど……」と言われる

3)ガラケー電話しやすいが、iPhoneの方が圧倒的に文字が打ちやすい(フリック入力が性に合ってる)

4)何かの手違いで電話番号が間違って伝わると、iPhoneの方に掛けられたりガラケーに掛けられたりでわちゃわちゃする

5)ガラケーは別途で電話帳を管理しなきゃいけないので、片方にあるのに片方にない連絡先があったりする

その他、細かい不便さが色々重なってきて、その都度対策を立てたりはしてきたのですが、それすらもう面倒になってきていまして、昨年末から年始に掛けて「もうiPhone1台にしよう!」と決意したわけです。

そしたら、つい先日、こんなニュースが……

ASCII.jp:auのタフネスケータイ「TORQUE X01」がアウトドアで最強な理由 (1/2)

ちょー欲しいんですよ、コレ。

以前、CASIOが出していた「G'z One Type-X」も使ってたんですけど、こういうゴツくて、如何にもガジェットという感じ……まぁ、言うなれば変身できそうなアイテム」は大好物なわけなんですよ! 折角、「もうiPhoneに絞ろう」と思ってたのに! 欲しい! 全然アウトドアとか行かないけど、ちょー欲しい!!

このTORQUE X01の登場によって、僕の決意が揺らぎまくり。7年目も2台持ち継続か……!? というところで、ここ数週はずっと悩んでます

しかし、そこで悩んでばかりでは前に進めないと、原点に立ち返ってみる。何故、2台持ちを始めたのか? 料金が安く抑えられるからです。ならば、より料金を抑えることで2台持ちの煩わしさを「まぁ、安いから我慢するか……」という状態に持って行こうと。

というわけで、ここ数日はそのラインナップについて悩んでいます。一番安いパターンとしては、

TORQUE X01 + iPhone格安SIM

なんだと思うんです、普通に考えて。でもね、これには重大な欠点がありまして、それは「テザリングができない」という点。

別に公衆Wi-Fiが充実してきた昨今、「絶対テザリングしなきゃいけない場面」ってそうはないんですよ。年に数回なんです。だけど、その「年に数回」は必ずやってくるです。しかも、ほとんど使わないにも関わらず「絶対テザリングしなきゃいけない場面」というのは確実に切羽詰まってるわけですよ。何せ、「絶対」だから

恒常的にテザリング環境必要なら、モバイルルータの導入とかも考えるところですが、そこまでじゃない。でも、年に数回は必ず使いそう。じゃあ、その数回のためにどこまでコストを掛けられるか? それが最近脳内議題であります

どうせなら、カブトゼクターにJ.A.R.V.I.S.的AIを搭載したデバイスが出てくれれば即決なのにな……着信したらどこからでも飛んできてきてくれて、あらゆることは音声認識でも対応してくれて、変形・変身機構も備えて、ちょっとした危機からは助けてくれて……ああ、欲しいな、カブトゼクター。悩みすぎて、現実から目をそらす日々です。

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20160917Sat

[]「スーサイド・スクワッド「スーサイド・スクワッド」を含むブックマーク

悪党」と口々に言うのだけど、実際に「どういう悪事を働いてきた悪党なのか」「どういうレベルでの悪党なのか」は、具体的描写が一切ない。説明文と、セリフで説明されるだけ。むしろ、子供を盾にするバッドマンの方がよほど悪党に見える。わざとそういう描写にしているのかも知れないけど、そのお陰でスーサイド・スクワッドの面々は“変化”に乏しい。最初からそういう人が、取るだろう行動を取って行っているだけ。各々のキャラクターが魅力的ではあるからちゃうんだけども、冷静に考えると映画構成としてだいぶ壊れていると思う。

例えば、同監督の「エンド・オブ・ウォッチ」の主人公2人は、「ルールに縛られず、不正も多少働くけど、それぞれに譲れないもの、守りたいものがある」というキャラクターけがあって、それぞれが配偶者に出会ったり、信じられない現実に出会ったりすることで“変化”していく。その結果、招くのは悲劇だけど。スーサイド・スクワッドの面々にも、そういう“変化”が欲しかった。

その他にも、出てきた瞬間に死亡フラグ立ってる奴がやっぱり死ぬとか、本当にスーサイドしてるのが全然関係無い奴とか、敵に魅力が無さすぎるとか、ジョーカーが本筋に関係無いとか、色々と問題は多いかったが、個人的に一番気になったのは、政府体制)の描き方。明らかな不確定要素を支配下に置くにあたって、次善策が何も無いとか、インフラ潰されただけで驚くだけが仕事になる会議室とか、とにかくスーサイド・スクワッドを操る側の人間たちにバカしかいない

こういう描写、ただ陳腐なだけとか雑なだけとか、そう言ってしまえば簡単ですけども、最近思うのは、これってただの願望でしかないと思うんですよ。「公権力を振るう人間バカばっかり……なハズだ」という。

でも、公権力を振るう人間というのは、時に必要以上に狡猾だということを。だからこそタチが悪いわけで。あいつらはバカだ、何も分かってない、で切り捨てれば楽なのかも知れないけど、それって何の解決にもならないんじゃないかなぁ、と思うのです。

バカに振り回される可哀想悪党たち……ということなのかなぁ。それにしては、悪党たちの縛り方があまりにザル。結局、「見せたい構図」だけが浮いていた。惜しい映画でした。

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20160902Fri

[]「悲しみの忘れ方」 「悲しみの忘れ方」を含むブックマーク

2015年に公開された、乃木坂46ドキュメンタリー映画

アイドルドキュメンタリーって初めて観たのですが、観終わって一番最初に思ったのは「なんでも“物語ストーリー)”にしちゃうんだなぁ」という薄気味悪さでした。

本人たちは頑張っている。とっても頑張っている。色々ツラいこともある。忘れたい過去もある。人間的に変わっていく。でも、そういうものって、明石家さんま師匠言葉を借りるならば「それが最低限」です。あらゆる人はもともと「フツーの人」だし、あらゆる表現者努力しているし、色んなことを乗り越えている。「本当の自分はこうだけど、これだけ頑張って今があります」みんなそうでしょう。その上で、何を表現するかが勝負なのだから

どんなに頑張っても作品面白くなければ負けだし、どんなにサボっていても作品面白ければ勝ち。それが「表現」というもの残酷なところであり、面白いところ。「本当の自分」がどうだろうと、表現されたものが全てであるという、表現活動が持つ“平等”さです。

なのに、この映画では殊更にそこが強調される。時に感傷的な音楽に乗って。絞り出した言葉に乗せて。そりゃアイドルドキュメンタリーなんだからそうだろ、ファンはそれが見たいんだと言われればそうなんだけど、そういう表現を続けていくと、段々作品内でアイドルたちが遭遇するあらゆる状況が「自然災害」であったり「神の意志」であったり、そういう感じに見えてくるのです。

え、違うでしょ、と思ってしまうんですね。

その「状況」には、必ずその「状況」を作った「誰か」がいる。グループのコンセプト。選抜のメンバー。楽曲制作企画立案。全てにそれをそれだと決めている人がいるわけです、間違いなく。だけど、この映画には、その「誰か」が全く出てこない(写り込んでたりはするのかも知れないけど)。秋元康だって出てこないし、乃木坂46楽曲を作った人のインタビューひとつもない。バナナマンすらほぼ出てこない! ただひたすら、メンバーの気持ちだけで“物語”が綴られていく。

「悲しみの忘れ方」とか言うけれど、じゃあその「悲しみ」を作り出したのは誰なの? その人は、どういうつもりで作り出したの? 例えば、オーディションだってサイコロ振って決めたとかでない限り、「誰か」たちによる喧々諤々の議論があったわけですよね。ならば、どういう意図で選ばれた人がどう変化していったか、という“物語”の方がよっぽど面白いし、観たいです。 僕はそのことが観ている間、ずーーーっと気になったのだけど、一度も触れることもなく映画は終わってしまった。

この映画には、ひたすら「過程」が描かれるけど、「結果」であるはずの「作品」にほとんど触れない。なのに、「物語」としてしまっていることに、非常に薄気味悪かったです。

グループ自体は存続しているわけだから、グループの「結果」を描くわけにはいかないけど、でもそれぞれの状況下で生まれてきた作品群があるわけですよね。その状況下でしか生まれなかった作品もあるはずじゃないんですか、という気になる。

敢えて言うならば、アイドルっていうのはプロジェクトの“最終出力先”でしかない。雑に言えば、彼女たちは大きな渦に巻き込まれているに過ぎない。その中でどう足掻いているかは描くのであれば、その「渦」人為的ものである以上、その「渦」を起こした人たちも、彼女たちと同様に顔と名前を出して、自らの言葉を紡いで、「責任」を取るべきなんじゃないの。「自分たちは、こういう意図彼女たちにプロジェクトを与えた」と。「試練」なんて都合の良い言葉で逃げずに、その成功と失敗にどう向き合ったのか。そして、彼女たちにどう向き合い続けたのか。そして、それらがどうぶつかって、どういう結果となったのか。そこのコミュニケーションを描かない理由って何?

僕のように「アイドルパーソナリティー」というものに別段興味のない人間は、ターゲットじゃないってだけの話なのかも知れませんけど。少なくとも僕にとっては、画面の中で過程も結果も否応なく映し出すバラエティの、バナナマンを通してゲラゲラと笑い飛ばせる「乃木坂46」の方が、よっぽど意味があるし魅力的だなぁと思いました。

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