「悲しみの忘れ方」

2015年に公開された、乃木坂46ドキュメンタリー映画

アイドルのドキュメンタリーって初めて観たのですが、観終わって一番最初に思ったのは「なんでも“物語(ストーリー)”にしちゃうんだなぁ」という薄気味悪さでした。

本人たちは頑張っている。とっても頑張っている。色々ツラいこともある。忘れたい過去もある。人間的に変わっていく。でも、そういうものって、明石家さんま師匠の言葉を借りるならば「それが最低限」です。あらゆる人はもともと「フツーの人」だし、あらゆる表現者は努力しているし、色んなことを乗り越えている。「本当の自分はこうだけど、これだけ頑張って今があります」みんなそうでしょう。その上で、何を表現するかが勝負なのだから。

どんなに頑張っても作品が面白くなければ負けだし、どんなにサボっていても作品が面白ければ勝ち。それが「表現」というものの残酷なところであり、面白いところ。「本当の自分」がどうだろうと、表現されたものが全てであるという、表現活動が持つ“平等”さです。

なのに、この映画では殊更にそこが強調される。時に感傷的な音楽に乗って。絞り出した言葉に乗せて。そりゃアイドルのドキュメンタリーなんだからそうだろ、ファンはそれが見たいんだと言われればそうなんだけど、そういう表現を続けていくと、段々作品内でアイドルたちが遭遇するあらゆる状況が「自然災害」であったり「神の意志」であったり、そういう感じに見えてくるのです。

え、違うでしょ、と思ってしまうんですね。

その「状況」には、必ずその「状況」を作った「誰か」がいる。グループのコンセプト。選抜のメンバー。楽曲の制作。企画立案。全てにそれをそれだと決めている人がいるわけです、間違いなく。だけど、この映画には、その「誰か」が全く出てこない(写り込んでたりはするのかも知れないけど)。秋元康だって出てこないし、乃木坂46の楽曲を作った人のインタビューもひとつもない。バナナマンすらほぼ出てこない! ただひたすら、メンバーの気持ちだけで“物語”が綴られていく。

「悲しみの忘れ方」とか言うけれど、じゃあその「悲しみ」を作り出したのは誰なの? その人は、どういうつもりで作り出したの? 例えば、オーディションだって、サイコロ振って決めたとかでない限り、「誰か」たちによる喧々諤々の議論があったわけですよね。ならば、どういう意図で選ばれた人がどう変化していったか、という“物語”の方がよっぽど面白いし、観たいです。 僕はそのことが観ている間、ずーーーっと気になったのだけど、一度も触れることもなく映画は終わってしまった。

この映画には、ひたすら「過程」が描かれるけど、「結果」であるはずの「作品」にほとんど触れない。なのに、「物語」としてしまっていることに、非常に薄気味悪かったです。

グループ自体は存続しているわけだから、グループの「結果」を描くわけにはいかないけど、でもそれぞれの状況下で生まれてきた作品群があるわけですよね。その状況下でしか生まれなかった作品もあるはずじゃないんですか、という気になる。

敢えて言うならば、アイドルっていうのはプロジェクトの“最終出力先”でしかない。雑に言えば、彼女たちは大きな渦に巻き込まれているに過ぎない。その中でどう足掻いているかは描くのであれば、その「渦」が人為的なものである以上、その「渦」を起こした人たちも、彼女たちと同様に顔と名前を出して、自らの言葉を紡いで、「責任」を取るべきなんじゃないの。「自分たちは、こういう意図で彼女たちにプロジェクトを与えた」と。「試練」なんて都合の良い言葉で逃げずに、その成功と失敗にどう向き合ったのか。そして、彼女たちにどう向き合い続けたのか。そして、それらがどうぶつかって、どういう結果となったのか。そこのコミュニケーションを描かない理由って何?

僕のように「アイドルのパーソナリティー」というものに別段興味のない人間は、ターゲットじゃないってだけの話なのかも知れませんけど。少なくとも僕にとっては、画面の中で過程も結果も否応なく映し出すバラエティの、バナナマンを通してゲラゲラと笑い飛ばせる「乃木坂46」の方が、よっぽど意味があるし魅力的だなぁと思いました。