2007-04-11
■[徒然][漫画] バレエの定義、天才の視線 −漫画【昴】−
先週の土曜日に、「シザーハンズ」のバレエを観にいきました。映画では有名な「シザーハンズ」ですが、あの話を一体どうやって「バレエ」で表現するのかと不思議に思っていました。そもそも、「ストーリー」を「踊り」で表現するというなら、ミュージカルと何が違うのだろう?という疑問すらありました。
しかし、実際パフォーマンスを観て理解しました。一言も発せず、体の動きだけで「シザーハンズ」のストーリーと感動を表現する、それがバレエのシザーハンズだったのです。ミュージカルのように歌いもしなければ、パントマイムのように無い物を無理に表現しない。人間の行動やそこから生まれる感情を、やはり人間の動きや表情で表現する、それがバレエの定義のようです。Wikipediaでも「歌詞・台詞を伴わない舞台舞踏」と定義しています。
バレエ(Ballet)は、西ヨーロッパで発生し広まった、歌詞・台詞を伴わない舞台舞踊。及びその作品を構成する個々のダンス。
Wikipediaより引用(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AC%E3%82%A8)
芝居やミュージカルは台詞や音楽によってストーリーや感動を伝えることが出来ます。しかし、通常の声では広い劇場の観客全員にそれを伝えることが出来ません。バレエはその声すら使えない。感情を表現するにしても当然表情など全ての観客が見えるわけではなく、全て「動き」で表現しなければいけない。動きの緩急や、動きそのものに含まれる普遍的な意味合いやイメージ、それらを最大限に利用した、人間活動の根本にも触れる「踊りの究極」と言えるでしょう。
そもそも、芸術にこのような定義が必要なのか?バレエでもミュージカルでも、その定義が表現者にとって何の意味があるだろうか?そうも思えてきます。
そんな疑問が凡人の戯言である、更にはこの命題が芸術家のみならず全ての人々に対しての
「自身の定義に抵触しない存在が、何をもって他の存在に影響を与えるだろうか?」
という問いかけに等しいことを教えてくれる、そんな作品、曽田正人氏の漫画「昴(すばる)」(isbn:9784091860026)を思い出します。
漫画「昴」
この漫画は2000年〜2002年にかけてビッグコミックスピリッツで連載されていた曽田正人氏のバレエ漫画で、実はまだ休載中で完結していません。
幼少時代に病床の弟と意思疎通を図るためにダンスをはじめた少女すばる。後に彼女はバレエと出会いますが、それは悦びでもあり、同時に「踊り続けなければ弟が死ぬ」「しかし、自分のために踊れば大切な人が死んでいく」という呪いでもありました。そんな呪いと数奇な出会いが少女すばるを「一生分のエネルギーを一瞬のバレエ人生に使い尽くす」そんな天才バレリーナへと変えていきます。
この物語は、バレエ自身が生み出した怪物ともいえる天才バレリーナ「すばる」が人間とバレエの「定義」に挑む姿を、彼女にしか見えない「天才の視線」から書き綴った作品といえるでしょう。
そして「天才」、その「天賦の才」はどこから来るものなのか?凡人にとって諦めにも似たその問いにあらためて直面させられる作品です。
バレエの為にその他の全てを切り捨てながら太く短く生きることを宿命付けられた一人の少女・宮本すばるの栄光に満ちたしかし天賦の才ゆえの孤独で哀しい生涯を綴った物語。それと同時に、彼女に関わることで少なからず自らの運命の歯車を狂わされていく人々の苦悩と葛藤を描いた物語でもある。
Wikipediaより引用: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%B4_%28%E6%BC%AB%E7%94%BB%29
バレエが求めた天才、宮本 すばる
すばるのバレエ人生は、そもそも彼女自身が求めたものではありませんでした。脳腫瘍によって日に日に脳の機能が衰えていく双子の弟、彼の意識をつなげとめたい、暴言を吐いた自分の謝罪の気持ちを伝えたい、そんな切実な想いから「選ばざるを得なかった手段」、それがダンスでした。その想いは次第に「踊るのを止めれば弟は死ぬ」という脅迫概念になり、そして奇しくもバレエとの出会いとダンスへの喜びの芽生えが弟の死期に立ち会えない原因となり、そうしてバレエはすばるの「呪い」となりました。
じゃぁ今日は、やらなくていいのか・・・今日はいいんだぁ・・・
昴 1巻 第2話 「ビッグバン」より
このトランクひとつ持ってどこへでも行ける。もう、何にしばられることもない。・・・ここにはもう、あの目は届かない。アメリカが好きなわけじゃない。このバレエ団だって好きになれるかわからない。でも・・・ここに来たからなんだ、きっと・・・ラクになれたのは。
あたしは自由だ。
昴 6巻 第60話 「解放」より
そんな呪縛からの開放に安堵する自分、
あたしにはもうあなたしかいないのに・・・バレエ。おねがいだからもういいなんていわないで!
昴 4巻 第44話 「ベストコンディション」より
気付かないうちに無しでは生きられないほどダンスに依存していた自分、そして
バレエはほとんど楽しくない。でも、楽しいこととか楽しくないのむこう・・・1cmとか1mmの、逃げ出したくなるような針の穴のむこうに、何かがあるの。
死んじゃうくらい気持ちいいことが・・・!!
昴 3巻 第30話 「姫君(プリンセス)の帰還」より
ダンスの向こう側にある何かに強く惹かれ、悦びを感じる自分が葛藤します。
誰もが羨む才能とチャンスに恵まれながらも、本人にとっては逃れたい呪いであり生きる手段でしかない、そんなバレエとのスタンスをとるすばる。しかし、実は誰よりも「生きるか死ぬか」という程切実にダンスと戦い、そしてそれゆえにダンスに愛された少女、すばる。
バレエという呪いから必死で逃げながらも、バレエ自身がその向こう側にある「何か」ですばるを魅了し追い求める、すばるはそんな印象を与える「悲劇の天才」といえるでしょう。
バレエを求めた天才、プリシラ ロバーツ
7巻から登場する、NYCバレエのプリンシパルを勤めるもう一人の天才、プリシラ ロバーツ。彼女は既に大成して
あたしが望めばローマ法王にだって会えるのよ!?
昴 7巻 第76話「プラチナ・チケット」より
と言わしめるほど有名になってから登場するので、彼女の何が彼女を天才たらしめるのかは明確なストーリとして登場しません。しかし彼女が、単身NYCへ乗り込んでいつの日か陽の目を見ると信じて下積みを続け、そしてチャンスとよき指導に恵まれた「努力の天才」であることは、物語中随所でうかがい知れます。
しかし、実は彼女の天賦の才を支える「努力」とは「血のにじむ思いで苦労して」成し遂げる次元のものではなく、
私は生きていることが、楽しくてしょうがないの。美味しいものを食べたりとか美しいものを見たりとか・・・そんなのじゃない。ただ・・・呼吸をしているだけで楽しいのよ。
(省略)
何もしなくたって楽しくて楽しくて死にそうなのに、ここから踏み出す次のステップはどうなるのか、自分で自分を想像するだけで、イキそうになる・・・!?
現状(いま)が楽しいから。
昴 9巻 第89話「SNOW」より
という、バレエの虜が嬉々としてその喜びを貪る、いわば「バレエの中毒患者」の病状とも言える存在なのでした。それゆえに見出した、バレエの向こうにある「何か」。彼女はそれを明確に知覚し、それを掴むためにバレエを追い続けます。
凡人が血を流す思いで積み上げる努力を、その流血すら快感であると言わんばかりに嬉々として茨の道を進み続けるプリシラ。彼女こそが、バレエを愛し、それゆえに真にバレエ理解して「飛び越えよう」とする、「盲目の天才」といえるでしょう。
相反する2人の天才が行き着く領域
NASAのパイロットでもない。学者でもない。ましてや政治家などでも。
もし将来、人類が宇宙人と接触したときに、最初に彼らと通じ合えるのはバレリーナではないだろうか。
昴 7巻 第77話「ミッドサマー・ナイツ・ドリーム」より
プリシラが自ら目指すものを表現する時に用いる、彼女の指導者からの言葉です。実はこの奇妙な言葉が何よりもこの物語「昴」の本質を物語っています。
それは、物語中に登場する数々の凡人が、バレエを踊る時に終ぞ考えもしない「バレエの定義」を見事に象徴しています。
そんな凡人達の努力とは裏腹に、この2人の天才は常に「言葉を用いずに意思や感動を伝える」、というバレエの本来の「定義」と相対し、苦悩します。ミスをしない、高く飛ぶ、速く回る、そんな凡人の苦労はバレエの定義に触れるための「手段」でしかなく、「如何に相手の感情に触れるか」というバレエの本質に触れるがゆえに、言葉に頼らないバレエという芸術の限界を知り、それゆえに苦悩し、そしてそれを乗り越える術を身につける、それが2人の天才を天才たらしめる「天才の視線」というわけです。その視線を持つがゆえに、実はその「バレエの定義」すら「人間の定義」ではなく、人間はバレエの定義を超えて感情を表現できる、ダンスは「相手の感覚を支配する」ことができる、という領域にまでたどり着きます。
「相手の感覚を支配する」などさすがに漫画のお話ですが、この「定義を知り、それを乗り越えようとする」姿は、天才という言葉の定義を遺伝子にだけ求めてしまう我々凡人の浅慮を戒めます。この姿は決して芸術の天才にだけ求められるものではなく、誰もが尋ねられる人生の生き方ともいえるものでしょう。
例えて言うならば、我々の人生は障害物の何もないだだっ広い草原で遊ぶ子供のようなものです(特に我々日本人は指して言うほどの障害もない、恵まれた子供達でしょう)。草原で遊んでいるうちは何をしてもいい、誰からも強制されず好きなところを好きなように走り回れます。そこで遊んでいるうちは、互いの容姿や行動だけが気になり、他の人間との相対的な違いだけが世界観となります。
ところが、ある子供はその草原が山に囲まれていることを知り、その山の形が、世界の形が気になり始めます。実は自分達は自由なのではなく、小さな世界・・・それでも山々が囲むことでその草原に地名を与え、そこで遊ぶ子供達に住所を与えてくれる・・・に限定され、限定されているからこそ互いが認識できる(つまりローカルである)ことを知るわけです。そして、その子供達は山のふもとをめがけて走り始め、そしてある者はその山を乗り越えてみたいと思う。その山の向こうにも人間の到達しえる世界があると知る悦び。その悦びに比べたら、連なる崖をよじ登る痛みなど苦労ではない。
そのような偉業を草原の子供達が「あんなことは決してできない、したくもない」と思う、その想いこそが「天才の定義」であり、決してそう呼ばれる人達の生まれ持った能力のことではないことを、すばるとプリシラという2人の天才が教えてくれます。
なぜならば、バレエから逃げる天才とバレエを追い求める天才、この環境も思考も全く相反する2人が「ダンスで人の感覚を支配し、ダンスで人に未知の何かを与える」という、同じ「向こう側の世界」に到達したからです。我々がこの漫画に感動するのは、2人が回りの人々を巻き込みながら彼らにも「バレエの定義」という山を見せ、そして共に麓までたどり着く姿に、自分の幼い日々にもあった「山の存在」を知った悦びと、その山に向かって走り続け、例え無残に転んでも走ることを止めなかった純粋さ、そしてとうとう山が自分には高すぎると知らされた敗北を思い出すからです。
我々の中にもそんな天才がいるという証なのです。
定義という束縛に触れる悦び
手が1cmずれたとか、足の甲がのびびてないとか。もう気がヘンになりそうなこと、しょっちゅうあるよ。でも、ほんとうにギリギリの、針の穴を通すような踊りができたとき、背すじがふるえるような感じがするの・・・!!
昴 3巻 第30話 「姫君(プリンセス)の帰還」より
少し意味合いは異なりますが、すばるは自由な表現方法である「ヒップホップ」に比べ、「バレエ」は意味があるとも思えない形式ばかりで息が詰まる、と言います。しかし、だからこそそれを成し遂げた向こうに得体の知れない喜びがある、とも述べています。これはまるで、将来使うとは到底思えない方程式や定理を覚え、それを使って答えを導く算数・数学と似ています。
とかく「自由」という言葉が尊ばれますが、実は何の束縛もない人生は人類にはまだ余りにも壮大すぎる代物です。定義やルールという束縛があるからこそ、そこに「意味」が生まれ、人間はその「意味」に価値を覚えて生き、そしてそれを追い求めて死んでいくわけです。方程式や定理で範囲を限定され束縛される錯覚に陥る算数や数学も、実はその狭い範囲を1つずつ乗り越えることで途方もなく大きな問題を解くことができる・・・そして、その方程式や定理に隠された「定義(本質)」を知れば、次は自らの力で自らの問題を解くことができる・・・という、人生の問題解決の練習なのです。その楽しみを一度知ってしまえば、その定義を追い求めることを止めることはできない。
定義、つまり「本来の形」を追い求めるという行動・・・そしていつかはそれを乗り越えてみたいと思う衝動・・・は、人間に与えられた宝物であり、それを他人の目をはばかることなく追い求めることができる才能、それを人は天才と呼ぶのかもしれません。
私のよく知る人は、幼い頃から毎日何時間もピアノを練習し、ある時期まではその道で食べていこうと本気で思って思っていたそうです。今ではめったにピアノを弾くこともないそうですが、そんな状態でも「きっと今、私は人生の中で一番上手にピアノを弾けるだろう」と言います。それは、幼い頃、何も分からず型通りに弾くことだけを考えてミスなく上手に弾けたころよりも、人生の喜びと苦しみを知ってそれを「自分なりに表現したい」と切に想い、そしてピアノの構造や音の仕組み、それを使って自分を表現する術を知っている練習不足の今の方が「ピアノを弾く」という定義・本質に近いということです。そして、自分や「ピアノ」が持つ限界を切に感じる今だからこそ、「今ピアノを弾く悦び」は幼い頃「上手に弾けた喜び」とはレベルが違う、ということなのでしょう。
私にとって、触れる悦びを知ってる「定義」とは、科学に他なりません。よく「科学 V.S. オカルト」という図式を見かけますが、これは科学の定義を知らない人たち(あるいは、その定義をそういった形で説こうという人たち)の表現です。科学とは「自然現象を誰もが理解するための方法」のことです。オカルトも、万人が知覚でき、それを理解できれば科学です(残念ながらオカルトの多くは特殊な能力をもった人たちだけが知覚できる領域で、言葉自身もそのような意味合いを含んでいる)。つまり、科学の定義に触れるということは、自然の、世界の定義に触れるということです。科学、学問に従ずる人ならば、人間自身を含むこの世の中が、如何に単純で美しくできており、それでも永遠に理解できないだろうと途方に暮れるほど理解しがたいものであることを誰もが知っているでしょう。「そんな世の中を創ったという存在があるならば追い求めてみたい」という「宗教」の感覚も自ずと「理解」できますし、「知ったところで何か役に立つわけでもない」という現象を「定義」することに人生をささげ、そして願わくば子孫がそれを「乗り越える」ことを望む科学者の価値観も分かります。
そしてそれらの「科学」を追い求める人々にとって、先人・同僚達の業績を知りそれを利用することがまだ見ぬ自然の神秘を覗くための唯一の手段であることを知っているがゆえに、学問・勉強とは強いられていやいやするものではなく、自ら喜んですることなのです。そして同じ「神秘」に向かう人同士が、国や利害を問わず、何の契約や申し合わせもなく協力して1つの事実を解明していく様はあたかも1つの生き物のようです。例えば、1つの大きな物理学実験プロジェクトで、その場の全員が全員の作業を知り、誰の指示があるでもなく誰かが倒れれば他の誰かが代わりを務め、その成果を全員が分かち合い、それでも責任者にはその事実を更に追求する権利を与え、そうやって何年もかかるプロジェクトが粛々と進んでいく姿を見れば、ノーベル賞を受賞するまでもなく、皆が彼らを天才と呼ぶでしょう。それは、全員が1つの同じ「定義」の壁に片手を触れながら同じ方向を見つめ続けているからこそ分かち合える感覚です。そして、お互いが自分の方法で乗り越えようあがく姿を見て、個々に科学者として尊敬しあうわけです。
誰も教えてくれない定義、「人生」
誰もが分かち合える「共通」の、それでも全員が個々に追い求める価値がある「固有」の「定義」があります。それが「人生」、もしくは「人間」です。これだけは、すばるやプリシラのような「天才の視線だけが捕らえられる」定義ではなく、誰もがいずれ自分の方法で見つけなければならない「定義」です。私が漫画やSFが好きなのは、そういった「定義」を一旦超えた世界に身を置くことで、あらためて客観的に「人生」や「人間」の定義を見つめなおせるからです。
勿論、すばるやプリシラのようなバレリーナは実際にはいないでしょうし、必ずしも彼女達の定義がバレエの定義でなければならない道理はありません。同じように同じものを追い求める必要などなく、大体、たとえ天才と呼ばれようがあんなに苦しい人生はちょっとごめんです。
ただ、そんな漫画の人物に感動するのは、そんなありえもしない現象から哲学を拾おうとするのは、自分の世界の「定義」をいつからか「限界」と呼んで意識の奥底へ仕舞い込んでしまったことに、「もしかしてもったいないことしているんじゃないの?」と自分の中の誰かが問いかけるからかもしれません。
人生の定義が何かを追い求めるのが人間の天才なら、私はそんな天才でありたい。
2007-03-30
■[徒然] もしも課長になったなら・・・
会社の近くでランチを食べている時に、「何もせずに給料貰っている人っているよね」という話題になりました。
うちの会社(日本)の場合、世代的に課長クラスが異様に多いんですが(ベビーブームの最後あたり)、特に管理職、バックオフィス、それにSEでも直接お客様のところに行かない人達(共通技術系)には、その業務の性質上そういう人が出現しやすくなります。本来叱る役なので叱られない、とか、お金に絡まないので放って置かれるとか。アメリカなどでは「働かないならクビ」なんて生ぬるいものではなく「他の人にさせれば少しでもコストがかからない/利益が上がる」というだけでクビです。当然といえば当然なんですが。
全ての人を守る、という日本式もうまくすればよい方向に働くのですが、いずれ「失敗の反省を活かす」という改善の概念と「失敗を極力回避する」という直接的な利益主義のミックスされた形で安定するのでは、と私は思います。
そこで、「自分が課長になったら・・・」という想定で、自分の課でこんなことをして、そんな時代に備えたい、と私は思いました。課長、なんて何世紀先の話か知りませんが(大体、あんまりなりたくない)、要するに、自分の組織がもてたら、という想定です。
個人経営システム
・・・ネーミングはさておき、要は「部署内の全員が自分を経営する」という仕組みです。そもそも、皆就職する前はバイトなどでこういう経験をしているはずで、もっと言えば就職したということは、自分の人生を売り込む経営において、多くの人は1度きりの交渉に成功したとういことですから。この緊張感を常に持ち続ける、これが本システムの主旨です。
仮想貨幣を作る
まずは仮想貨幣を作ること、要は工数です。ここを本当の給料にするとかなり問題が多いので、「評価時に考慮する」あるいは「評価の基準にする」とします。後で広い範囲で使われるので、1円と同じ単位にするとします(本物の貨幣と区別したいだけ)。ここでは、何の面白みもないですが「VM(Virtual Money)」という単位を採用して1円=1VMとしましょう。
仮想貨幣によって売買できるのは「成果」
この仮想貨幣で売買できるものは「成果」(=「労働力」)です。モノを売買してはいけません。この定義は非常に曖昧ですが、まずは全ての仕事においてこの定義を明確にする(「契約」を作る)事から始まります。日本ではこれが非常に難しいのですが、SLA方式、成果報酬方式、色々試してみましょう。
お金は沸いてこない
課長がまず予算を持っています。お客様です。課長は課の必要業務を各プロジェクトのリーダーに仮想貨幣で発注します。課長の感覚が非常に重要です。課長はいわば造幣局です。課のミッションを達成するためには多くのVMが必要ですが、VMを過剰に発行するということはその課のメンバーの労働時間が増えることにつながります。全員の単価の合計の営業時間×営業日数以上のVMを発行すれば自動的に残業を強要することになりますし、無理な残業を強いれば実質消費に繋がらずにインフレーションが起きます。まずは課長の課長としての能力が問われるわけです。
プロマネの能力を仮想貨幣が露呈する
各プロジェクトのリーダーは課長との交渉で得たVMを使ってチームの業務をこなし、残った分を自分の利益にできます。つまり、プロマネ能力(それは課長との交渉能力、チームの業務の理解度、工数を減らす発想力、人材発掘力・管理力、そしてメンバーのモチベーションコントロール能力)が優れていれば、かなりまとまったVMが手に入ることになります。
そもそもプロマネは大変な仕事ですから成功すれば高額収入を得てもよいはずなのですが、逆に失敗した時の責任も大きいため、どうしても評価があやふやになりがちな部分です。例えば、失敗した年の評価は低いが、次の年で「リカバリしたので」と高い評価を得、結局積算評価は平均以上・・・なんて馬鹿げた評価も生まれます。実貨幣だと失敗した時の損失を個人が背負えないためこのような事態になります。しかし、仮想貨幣ならば評価の仕方に応じて自由に調整できますから、まずはシビアにつけてみよう、という気になるわけです。
プロジェクトメンバーは自分のセリに出す
各リーダーはプロジェクトメンバーを集めることから始めます。メンバーは固定ではなく、課の内部で自由に調整してよいものとします。つまり、他のプロジェクトからヘッドハンティングしてもよいし、その時点で仕事がない人材を採用してもいいわけです。そのためには、課の人材のスキルなどがうまく公開されていなければならず、ここを整備するのは自然と各リーダーの仕事になります(もしくは、能力はあってもヘッドハンティングされないメンバーが作らなければ、と言い出すでしょう)。Googleでは、各メンバーの仕事を全員に公開することでこれ実現しています。
このとき、競売が発生するわけです。値段はメンバー自身が提示します。人気のあるメンバーは当然、受注がコンフリクトしますから、それを解消するためにはVMで交渉するのが一番シンプルです。提示金額を上げるか、がんばって両方やるかの選択が生まれます。
ヘッドハンティングが前提
課内のプロジェクトは都合よく一斉に終わりませんので、一人の人が複数のプロジェクトを掛け持つ事もあります。しかしそれにも限界があり、事実上あるプロジェクトから手を引いてもらって来てもらう、つまりヘッドハンティングが発生する場合があります。海外で仕事をしていると、このようなヘッドハンティングが「不条理」に行われる様をよく見かけます。「海外事業の重要な起点になるプロジェクトだから、日本の〜さんを引き抜こう」「でもその人は日本でも重要なプロジェクトに入っていて引き抜けない」「こっちの方が大事だ、そこをなんとかしろ」「なんともなりません」などとそれぞれの人の価値観で論じ始めて収拾がつかなくなることがよくあります。
お客様とベンダー間なら、お金の話で自然と決まるはずなのに。ここを本当にお金の話にすれば、社内でも簡単にいくはずなのにと思うことがよくありますが、実際のお金だとそう簡単にはいきません。そこで仮想貨幣の競売です。状況を客観的に評価しやすいだけでなく、各メンバーが最も能力を発揮できるプロジェクト(本人のモチベーションと能力を含む)にいられるというメリットがあります。プロジェクトリーダーは常にメンバーを失う危機を想定していなければならないので大変ですが、そもそもアメリカでは「人が急にいなくなる」のは日常茶飯事です。常にメンバーの現状の仕事、価値、これからの作業を把握していなければこの危機を乗り切れません。非常にシビアですが、そういう現実が待ち受けている以上、訓練しなければならないということです。
全員が家計簿をつける
全員が、全ての仮想貨幣のトランザクションを記録、つまり家計簿をつけます。「この人に是非任せたい」という実績ベースの評価は一番真実を物語るはずですから、所持金の多さで評価するのは正当な方法です。それに不正があってはなりませんので記録は必要です。しかし、家計簿は量だけを物語るわけではありません。評価をする側としては「どんな方法で稼いだか」も非常に興味深い情報なのです。
この仮想貨幣は「成果」によって支払われますが、組織というのは組織に入ってくる収入に直結する仕事だけでは運営できません。飲み会やメールの配布、コーヒー係なんてのもあるかもしれません。もっと言えば、新しい企画の立案やワーキンググループといった取り組みは組織にとってとても重要である程度時間を割かなければいけない作業でありながら、中々評価に結び付け辛い時間です。
こういったものも、実際に利益を得る人から仮想貨幣を徴収することで(徴収できるように企画・提案することで)このような活動を評価でき、それがたとえ小さな金額のトランザクションでも、内容がよければ「先行投資」できるわけです。つまり課長予算でその後の活動をサポートできるわけです。
生計の立て方が部内でのポジション
このような仮想貨幣制度を組んだときの一番の問題は、「そんなシビアな仕組みを組むと、能力のない人が浮き彫りになる」ということです。私はこれが問題になるとは思わないですが、格差社会という言葉もありますから、ある程度の抵抗になることは容易に想像できます。しかし、何より辛いのは、の本人がその部署で居場所が無いと自覚しつつも打つ手がないことです。何も言われないから何も変われず、気まずい思いを続ける方がよほど辛いと思います。
先もあげましたが、家計簿でプラスになる方法は直接仕事を受注することだけではありません。新しいことを創める事でも、賛同を得られれば小さなところから始められる訳です。例えば、急な雑用を電話やメール受けて、その時空いている人・時間を即座に割り振る「人材派遣」業を始めたり、専用のテンプレートを作って人より早くドキュメントの清書を完成させ、ドキュメント作成を一手に引き受ける「ライター」になったり(そのうち課長がそのテンプレートを高く買い上げるでしょう!)。自分の得意なことで貢献できれば、つまり仮想貨幣を稼げれば、これほど楽しい事はありません。逆にそれが出来ないのであれば、その部署にいても辛いだけでしょう。他の部署を探すか、その部署で自分の居場所を「開発する」しかありません。
逆に、そうやって自分のポジションを「アピール」できるメリットの方がずっと大きいと思うのですが、いかがでしょうか。
がそして何より、そのコンフリクトがその人の評価になりますし、「この人に是非任せたい」という実績ベースの評価は一番真実を物語るはずです。
そうすると日本で問題になるのは、「そんなことをしたら、仕事が来ない人が出てしまう」ということ。そういう人も置いておかなければいけない日本の辛さ。でも、私ならば自分が売れ残ったら、自分が何を身につけないといけないか明確になってうれしいですが。お前は無能だといわれる(言われても雇われ続けられる)ことは、本当にありがたいことだと思います。若いうちは。
ではその売れ残りの人たちはどうするかというと、自分の提示額を下げるしかないですね。あるいは、勉強する時間ができるということです。当然、この仮想貨幣は自分を養うコストにも費やされますから、仕事が無いと金欠になります。グループ内のことですから、残業も徹夜したらその分全部つけます。担当の頃からコスト管理意識を高めます。また、プロジェクトというのは色々な能力を必要としますから、例えば「私が送別会の幹事やります!」とか「コーヒー制度を私が提案して運営します!」といった事に対しても、それが必要だと思う人、参加する人から仮想貨幣を受け取ります。勿論これも査定に入ります。ここは個人の提案力です。
そして大事なのが、全員が偽りなく「家計簿」をつけるということです。不正な取引が無い様に、逆に不正じゃない取引ならば自分達でうまく取引して管理し、その様子自体も評価の対象に含めるためです。
そして評価の際は、各個人の教育方針と照らし合わせ、その家計簿から評価と次の方針決めをするわけです。
それでも命令は・・・
最後に、この箱庭のシステムがうまく機能するためには、やはりどこかに「強制力」が必要です。なぜならば、この仮想貨幣が通用しない「外の世界」と必ずやり取りをしなければならず、それがその課の何よりも優先する場合があるからです。この場合、仮想貨幣の威力で仕事を「拒否」することは許されません。この仕組みを置いておいて、上司の命令で仕事をしなければならない事態があるということです。
理想的には、その強制力を発揮できるのは課長、もしくは課長の承認ということになります。あるいは、課長の造幣局としての力で現行プロジェクトを凍結したり、残業を強要したりということになります。あくまでこのシステムは箱庭内のものです。この箱庭と外界をつなげるにはどうしても人間の感覚に頼らざるを得ません。つまり課長のセンスということになります。
いかがでしょうか?
Googleはこのような仮想貨幣の概念無しに似たような仕組みを機能させています。それは、仮想貨幣の代わりに「誇り」が通用するからです。自分がよい仕事をすると人が集まり、更に大きな仕事が出来る。人の仕事の方が優れていると「なにくそ!」と燃える。公開された仕事に対するメンバーの反応が仮想貨幣の役割を果たすからです。そういう人だけが集まっているという特殊な環境だからこそ為せる業です。
これを一般にするには、やはり一番分かり易い概念である「お金」を使うのが一番だと思いました。誰か研究・検証してくれませんかね?
2007-03-29
■[ニュース][YouTube] Dolphin Massacre in Japan
日記をつけ始めて早々、凄くショッキングなものを見つけてしまいました。
mixiでトピックが挙がっていて見つけたのですが、YouTubeに「Dolphin Massacre in Japan」という動画が挙がっています。
* お子様は一人でみないでください!
Dolphin Massacre in Japan http://www.youtube.com/watch?v=OsEEmmIGtFg
日本人は"いるか"を食べる
という話です。いるかを食べる習慣があるなんて知りませんでしたが、どうやら本当にあるそうです。動画には鯨肉として店頭に並んでいる(これがいるかの肉なのかどうかは知らないが、偽っているならそれは非常によろしくない)映像がありますが、伊豆などではきちんといるか料理として存在しているそうです。
もっともこの動画の題名が「食べる」とは言ってなくて、「大量虐殺」と言っているところが、捕鯨を批判する系の話に発展していることを物語っています。映像としては日本人である私にとっても非常にショッキングなものに仕上がっており、意図的に残虐さを強調しています。私は馬肉とか平気な人ですが、馬や豚や牛だって殺される現場を見たらさすがにしばらく食べる気は失せます。あのどうみても笑っているようにしか見えないいるかが、かなり大量の血を噴出して屠殺されるのを見ると、特に食べたいと思いません・・・この映像の見事な編集具合には、今までいるかを食べていた人達も食べる気が失せるでしょうね。
当然のことながら、捕鯨でアレだけ責められているのですから、いるかを食べるというだけでもアメリカ人の非難の的になることは目に見えています。「人間に害を為す生き物ならば絶滅してもよい」と考える文化ですから、逆に「人間に愛嬌のある生き物は殺してはならない」と考えるのも自然です。これは非難というわけではなく、実際アメリカの教養のある人々と話しても「現に生き物を殺して食べている我々は動物の殺生を単純に非難することは出来ない」という命題を提起するのにとても苦労する、という経験です。そもそも、「自然は偉大である」という考え方は日本的(あるいはネイティブアメリカン=インディアン的)で、世界共通の考え方ではありません。人間はその偉大な自然の一部である、と考える私達だからこそ、生き物を殺して食べるという行為を「他の動物と同じく自然の摂理である」と解釈し、またそれでも知性ある人間の行動として「殺される生き物に感謝して食べよう」「残すのはもったいない」という発想が生まれるわけです。「まず人間が作られました」という考えから始まれば、ここに行き着くのは非常に難しいですし、またたどり着く必要もありません。どちらが善い悪いという問題ではなく、自分達の存在をどのように定義しているかという概念の違いから生まれるギャップであると言っているだけです。
ただ、やはり日本人であるならば、子供が「普段おいしく食べている肉は可愛らしい生き物の死骸である」という事実を知る時、その葛藤に答えを出して「食事に手を合わせる」ことを覚えるのを、温かく見守り導いてあげたいと思うわけです。いつか知らせてあげたい事実なわけです。「生き物を殺して食べるのは悪いことなのだ!」と結論付ける文化が、植物であろうと生き物を食べなければ生きていけない人間としてどのようにこの葛藤に答えを出すのか、私は非常に不思議です。
ただ、まぁ、この映像をそれに使う必要は決して無いと思いますが。
2007-03-27
■ "There... Are... Four... Lights!"
はじめまして。ThomasTTです。はてなでは世の中や身の回りの様々な出来事を、自分の切り口で語っていきたいと思います。
タイトルの"There... Are... Four... Lights!"は、スタートレック The Next Generation "Chain of Command - Part 2"における有名なピカード艦長の台詞です。4つあるライトを5つあるといえば拷問から開放されるという状況で、ぎりぎりの気力と理性を保って「ライトは4つだ!4つしかないっ!」と叫んだこの場面を思い出して、例え世の中や定説に反していようとも、自分の理念を貫いていきたい!(せめてこの上では・・・)そんな想いをこめました。
どうぞよろしく。

