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映画評論家町山智浩アメリカ日記

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2013-08-27 マシスン『縮みゆく男』新訳に解説書きました

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大好きな作家リチャード・マシスンの『縮みゆく男』の新訳文庫が本日発売されますが、巻末に町山智浩が解説を書きました。

僕らはみんな縮みゆく男たちである。

「私はリチャード・マシスンに会ったことはありません。でも、彼は偉大な人でした。あなたがたとえマシスンのことを知らなくても、彼の書いた物語は知っているはずです」

2013年7月のリチャード・マシスンの逝去に際し、『サンドマン』『コララインとボタンの魔女』などで知られる作家ニール・ゲイマンはツイートで追悼した。太字の部分はどういう意味か。

 まず、マシスンの作品は数々の映画やテレビになってきた。『地球最後の男』は64年、71年(『地球最後の男オメガマン』、2007年『アイ・アム・レジェンド』と三回も映画化されている。最近でも『運命のボタン』(09年)、『リアル・スティール』(11年)と映画化が続き、現在ハリウッドは『縮ゆく男』の三回目のリメイクを計画している。

 世界の巨匠スティーヴン・スピルバーグの出世作もマシスンの短編を原作にしたTVムービー『激突!』(71年)だった。筆者がリチャード・マシスンの作品を初めて読んだのも、小学六年生の頃、短編集『激突!』だった。その後、マシスンの作品を読み進めていったのだが、読みながら何度も思った。「この物語は既に知っている」と。

 たとえば『長距離電話』。病気で寝たきりの老婦人に得体のしれない電話が何度もかかってくる。「今、どこにいらっしゃるんですか?」それで電話は切れてしまう。電話局に調べてもらうと、その電話は切れて地面に垂れ下がった電話線からかかってきていた。そこは墓場だった……。

 それは夕方のテレビで観た『ミステリー・ゾーン(原題トライライト・ゾーン)』のエピソードと同じだった。実はマシスンは『トワイライト・ゾーン』や『アウター・リミッツ』といったSFファンタジー番組に原作や脚本を多数提供していた。それらの番組にはマシスンと同じようにチャールズ・ボーモントやロバート・ブロック、ハーラン・エリスン等、短編小説の名手たちが参加しており、彼らを作家ピーター・ストラウブは「マシスン・マフィア」と呼んでいる。日本でもテレビ黎明期に星新一小松左京筒井康隆などのSF作家がアニメや特撮番組の企画や脚本に参加していたのと似ている。

『地球最後の男』が77年に文庫になったのを読んで、その翌年に藤子不二雄が発表した短編『流血鬼』を読んで、途中で同じプロットだと気づいたこともある。現在のゾンビ映画の元祖である『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』(68年)も、監督のジョージ・A・ロメロが「発想の原点は『地球最後の男』だ」と言っている。すべては『魔人ドラキュラ』を観ていたマシスンが「もし吸血鬼のほうが普通の人間よりも多くなってしまったら?」と考えたことから始まった。そういう意味でも人は誰でもマシスンの物語を「既に知っている」わけだ。

「マシスンは私が最も影響を受けた作家の一人だ」と言うスティーヴン・キングは自著『ザ・セル』をマシスンに捧げている。マシスンの影響がわかるキング作品を挙げるとキリがない。何の意味もなく人々を互いに憎み合わせる男の話「ミルクマン」はマシスンの短編「種まく男」と同一のプロットだし、人類滅亡を浜辺で回想する「波が砕ける夜の海辺で」は、長さも静謐なタッチもマシスンの「レミング」が原型だろう。マシーンに邪悪な意思がとりついて人を襲う『クリスティーン』や「人間圧搾機」は、教会のパイプオルガンが意思をもって凄まじい轟音で教会を破壊する「ショック・ウェーヴ」にヒントを得たのではないか。そして、骸骨のように痩せていく男の苦難を描く『痩せゆく男』は『縮みゆく男』なしには生まれなかっただろう。

 キングはホラー評論の名著『死の舞踏』で『縮みゆく男』の分析にまるまる一章を割いている。『死の舞踏』でキングは、ホラーにおいて幽霊や怪物は道具にすぎないという理論を展開する。つまり、それが現実の恐怖を象徴していれば恐ろしく、現実と無関係であれば怖くないと。たとえば『エクソシスト』がヒットしたのはキリスト教とも悪魔とも関係ない。悪魔少女は子供の不良化という世界中の親が最も恐れるものを象徴していたからだ、というように。『縮みゆく男』の、放射能で収縮が始まったという科学的説明をキングは「もっともらしいデタラメにすぎない」から無視していいと切り捨てる。「この小説は昔も今もSFとして売られているが、まったく間違った分類だ」

 SFでないなら何か? 「ファンタジー」「寓話」だとキングはいう。「山ほどの象徴性」に満ちていると彼はいう。

 まず、『縮みゆく男』に象徴される現実の恐怖のひとつは、「生活」である。キングは追悼文でこう書いている。「マシスンは恐怖の背景を、ヨーロッパの古城やH・P・ラブクラフトの宇宙恐怖ではなく、アメリカの風景に置いたことで、私の想像力に火をつけた。私もそれをやりたいと思ったのだ」

 キングが言うアメリカの風景とは具体的には、一戸建ての郊外住宅、自家用車、緑の芝生、テレビ、大きな冷蔵庫、つまり50年代のテレビ番組『アイ・ラブ・ルーシー』などで世界をうらやましがらせた豊かなアメリカン・ライフだが、実は、その生活を維持するのは苦行だった。

『縮みゆく男』の二年前、『灰色の服を着た男』という小説がアメリカでベストセラーになった。主人公トムは高給取りのサラリーマン。郊外に立派な一戸建てを買い、妻と三人の子供と暮らし、外から見ればアメリカン・ドリームの典型に見えたが、実は住宅ローンの返済と家の手入れに追われていた。家は夢ではなく「牢獄」であり、トムは囚人だった。ドブネズミ色のスーツを着て何時間もかけて通勤し、退屈な事務職に耐えなければならなかった。……戦場で彼は英雄だったのに! 

『灰色の服を着た男』は著者スローン・ウィルソンのほとんど自伝だった。『縮みゆく男』もまたそうだった。主人公スコットは第二次世界大戦から復員した後、結婚し、ニューヨーク郊外のロングアイランドに一戸建てを借りている。しかし兄の経営する会社で働いていたが、「家計は火の車」で、家族三人の冬服や暖房費すら賄えない。そこで、地下室で本を書き始める。これはすべて、著者マシスンが『縮みゆく男』を書いている最中に起こっていたことだった。マシスンも第二次世界大戦で勇敢に戦った英雄だった。作家としてデビューはしたが、それで生活できるほどは売れなかったので、兄の世話になりながら、自宅の地下室で『縮みゆく男』を書いたのだ。

キングは自分が貧困の中でデビュー作『キャリー』を書いた時の焦燥感をマシスンに重ねている。不遇な少女が街ひとつを滅ぼす『キャリー』には当時のキングの心情が反映されているが、マシスンの当時の作品にも彼の苛立ちや不安が透けて見える。周囲の人間が全員自分を陥れようとする敵に思えてくる『陰謀者の群れ』、作家志望の男が書けないイライラをタイプライターや鉛筆や家具にぶつけているうちに、それらに逆襲される『狂った部屋』、そして主人公の存在を証明する記録や人が次々に消失していく『蒸発』……。

筆者は高校時代に『縮みゆく男』を読んだが、正直言ってピンと来なかった。でも、会社を辞めて物書きとして自立できるまで妻の収入に頼った時期を経た今では、彼らの心理はよくわかる。つまり、世界に対して自分がちっぽけで無力な、石ころのような存在に思えていくのだ。

『縮みゆく男』も『灰色の服を着た男』も、「偉大なる世代(ルビ:グレーテスト・ジェネレーション)」または「GI世代」と呼ばれた1920年代生まれの男たちの憂鬱を反映している。第二次世界大戦で自由のために戦った彼らは、アメリカに帰り、スーツにネクタイのサラリーマンになった。しかし、高度に発達する資本主義、巨大化する企業のなかで彼ら一人一人はただの小さな歯車になっていった。かつて泥にまみれて農地を開拓し、油にまみれて工場で働き、血にまみれて戦場で戦った男たちは、オフィスで朝から晩まで書類をいじるだけ。社会での存在価値はどんどん小さくなる。大声を出しても世界には届かなくなる。

「これでも俺は男なのか?」

 スコットは何度も自らに問う。男性としての不能感――それこそが『縮みゆく男』が最も強く象徴するものだとキングは書く。主人公スコットの肉体的な不能感、社会的な不能感は、夫としての不能感、男性としての不能感と絡み合う。妻に愛されてはいるが、だんだん子ども扱いされ、性的にも満足させられない。娘のベビーシッターの背の低い少女に欲情する。この部分はいわゆるロリコンの心性を示唆しているようにも思える。

 スコットはサーカスの見世物小屋で小人症の女性と一夜を共にする。165センチという白人としては低身長を悩んでいたハーラン・エリスンは『縮みゆく男』(1990年版)の序文で、この場面を差別との関連で論じている。1950年代、身体障害者に対する差別は当たり前で、『縮みゆく男』のように障害者側の立場を描く小説はまだ珍しかったという。

 キングはスコットを苦しめる黒後家蜘蛛は女性の象徴ではないか、という説を紹介している。黒後家蜘蛛は交尾の後、メスがオスを食ってしまう。マシスン自身の脚本による『縮みゆく男』の映画版では、蜘蛛の口のクローズアップが女性器のように見える。そこにスコットは(スコットからすると)太い針を突き刺して殺す。

 しかし、蜘蛛が意味するのは女性だけではない。スコットは言う。「蜘蛛は自分にとって……憎いもの、許せないものの象徴になった」それは世界のすべてだ。自分を小さくしてしまった社会、どうにもならない運命……。どんなに頑張っても自分はじきに消えてしまうのだ。

「それなのに、なぜ俺は生き続ける?」

 やはりスコットは何度も問う。

ランボー』の原作者デヴィッド・マレルはそれを実存主義の問いであるという。ハーラン・エリスンも『縮みゆく人間』を「近代文学」として考えるべきだという。近代とは、それまで神の意志によると信じられてきた世界が人間の手に握られた時代であり、逆にいえば、世界の意味が失われた時代である。だから近代文学のテーマは突き詰めると「何のために人は生きるのか?」という問いに集約される。

 マレルは『縮みゆく男』の前年に英訳されたカミュの『シーシュポスの神話』が影響しているのでは?と推測する。カミュは、ギリシャ神話のシーシュポスが課せられた、大きな岩を丘の上に押し上げる苦役をすべての人間の人生になぞらえる。頂上に着いた岩はまた坂下まで転がり落ちる。まったく無意味な労働。人生もそんなものだ。どんなに富や名声を得ても必ずいつかは死んで消えてしまう。いや、意味なんかどうでもいい、とカミュは言う。岩を押し上げる苦闘そのものが生きるということなのだ、と。

 スコットは蜘蛛との知恵と体力を尽くした死闘のなかで生きる実感を取り戻していく。それは戦場で感じたもの、戦後の社会で失ったものと似ているかもしれない。映画を観ると、ぼろきれを体に巻き付けて針の槍で蜘蛛に立ち向かうスコットはマンモスを狩った原始人のように見える(それは『ランボー』で全裸に麻袋をかぶったシルヴェスタ・スタローンが石でヘリコプターに挑む姿にも似ている!)。『激突!』の主人公も、怪物トレイラーとの死闘の果てに、「原始人の勝利の雄叫び」を上げる。「彼の遠い祖先が、ついに打ち倒した敵の死体」の上に立って上げた雄叫びを。

蜘蛛との対決を決意したスコットは「まったく怖くない」と言う。蜘蛛に勝っても負けても自分は消滅することはわかっているのに「生きていることが嬉しい」。世間の誰かの評価などどうでもいい。俺は命の限り全力を尽くした。満足だ。自分に勝った。それこそが勝利だ。

「人はたいてい、そうやって生きている」

 筆者は、サルトルの『嘔吐』との類似も感じる。サルトルの分身である『嘔吐』の主人公ロカンタンはある日、吐き気に襲われる。自分の存在が石ころの存在と同じく無意味だと気づいてしまったからだ。その吐き気は彼を孤独に追い詰めていく。小さくなったスコットが地下室に閉じ込められたように。スコットの「思惟する力がある限り自分は唯一無二の存在だ」という言葉はデカルトの「我思う故に我在り」を下敷きにしているが、ロカンタンも「私は存在する。我思う故に我在り」と考え続けながら自分自身と対峙し、この吐き気からの突破口として、人々に向けて自分の考えを本に書く、という行為にたどり着く。それはもちろんサルトル自身が『嘔吐』執筆に至った経過である。スコットも書いた。マシスンも書いた。キングも書いた。筆者も書いた。

サルトルは『実存主義とは何か』でこう書く。「人は世界に身を投じ、そこで苦しみ、そこで闘って、少しずつ自分を定義していく。それは生きている間、絶えず変わっていく。だから、ある人が生きた意味は、死の瞬間まで誰にも評定することはできない。人類の意味も、人類が滅びるまで誰にも語ることはできない」それはまるで『縮みゆく男』の解説のように聞こえる。

「これはB級SFだろ? 実存主義なんて大げさな」と思う人もいるだろう。しかし、マシスン自身が脚本を書いた映画『縮みゆく男』は、実際、原子のレベルまで極小化していくスコットの次のようなセリフで終わるのだ。

「私は突然、無限小と無限大は世界の両極の概念として同じだと気づいた。信じがたいほどの小ささは信じられないほどの大きさと繋がって円環構造を閉じる」

 画面には銀河系が映し出される。宇宙の構造は原子の構造と似ていると言われる。極大でも極小でも自然界における価値は同じなのだ。

「すべてのものには意味がある。どんなに小さくなろうと意味がある。I still exist(私は依然として存在する)!」

 エリスンは『縮みゆく男』は何度でも読み返すべき小説だと書いているが、確かに読み返すたびに新たな発見がある。今回読み返して切なかったのは、スコットが小さくなることで、娘の父親への尊敬心が失われていく描写だ。いや、小さくならなくても、みんなそうですよ。

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