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2015-04-17 菊地成孔先生の『セッション』批判について

f:id:TomoMachi:20150204120304j:image:w360:left

その後、俳優名を役名に統一するなど細かい部分をいじったため、4月17日に上げた文章とは細かい部分で違っていますが、論旨は同じです。

初期バージョンはこちらにありますので比較できます。



日本では今日(4月17日)から公開される映画『セッション』を、ジャズ専門家である菊地成孔先生がジャズ音楽家の立場から酷評しています。

http://goo.gl/Jt1sc3

それを公開前に読んだ人々の間で「素晴らしい批評」などと評判を呼んでいます。

「自分はジャズがわからないが、ジャズ専門家が観れば駄作なんだろうな」とか

「映画はまだ観てないが、ジャズを知らない100人の評価よりも菊地さん一人を信じる」とか

 とにかく、いちばん問題だと思うのは「菊地さんの酷評を読んで『セッション』を観るのをやめた」という人が決して少なくはないことです。

 また、『セッション』ではスパルタでハラスメントなフレッチャー先生(JKシモンズ)が悪役なのですが、菊地先生の文だけを読んで、この映画がその教育を肯定していると勘違いして「観ないことに決めた」とツイッターなどに書いている人たちもいます。


菊地先生のマネをして『セッション』をけなすことで音楽通ぶってる人も出てきています。

(そもそも菊地先生の読みにくい文章をわかったふりすること自体がスノビズムだったりもしますが)

また、『セッション』に素直に感動した人も、後で菊地先生の評を読んで、感動した自分が恥ずかしい気持ちにさせられるという問題もあります。


ジャズ・ドラマーを目指していた若者デミアン・チャゼル監督の映画『セッション』を潰そうとする菊地先生は

『セッション』で、ジャズ・ドラマーを目指す若者を潰そうとするフレッチャー先生にダブります。

菊地先生が文中で主人公アンドリューを「リズム音痴のガキ」と罵倒し続けるのも、まさに劇中のフレッチャー先生そのものです。


私は菊地先生が文中で罵倒し続けている「ジャズ素人」ですが、『セッション』の監督デミアン・チャゼル(30歳)は違います。

彼自身がドラマーを目指してひどいシゴキで挫折した経験を基にして『セッション』を作ったそうです。

チャゼル監督デビュー作のインデペンデント映画『ガイ&マデリン・オン・ア・パーク・ベンチ』(2009年)は、ゴダールの『はなればなれに』を思わせる、ヌーヴェル・ヴァーグ・タッチのジャズ・ミュージカルでした。

D

脚本を書いた『グランドピアノ 狙われた黒鍵』も、コンサートでミスをしたら殺すと脅迫された若手ピアニストの話で『セッション』のスリラー版ともいえます。


「ジャズ素人」の私には、菊地先生の1万6千字も費やした読みにくい文章の論旨がちゃんとつかめていないかもしれませんが、

先生の『セッション』批判のポイントを文中から抽出すると、以下のようになるかと思います。

1 主人公のアンドリューは「ジャガジャガうるさいばかりの不快なドラミング」で「グルーヴがない」

2 アンドリューはドラマーとしてバディ・リッチに憧れるが、引用されるのはチャーリー・パーカーで、原題の「ウィップラッシュ」が8ビートのジャズ・ロックなので、ジャンルが「ぐちゃぐちゃ」である。

3 アンドリューの出血シーンが「愛を欠いた」「痛々しいだけ」である。

4 フレッチャー先生の「作曲も選曲も編曲も、肝心金目の指揮ぶり」も「中の下」で、「この点が本作の最大の弱点」。

5 フレッチャー先生のシゴキ描写はまるで「巨人の星」、「スポーツ根性マンガ」のようだし、「スポ根としても出来が悪い」。

6 このような教師がいたら「訴えられる」か「生徒にリコール」される。(劇中で実際に訴えられ、クビになっているが)

7 「この程度の鬼バンマスは、実際の所、さほど珍しくない」。

8 この映画は「恐怖と憎悪を刺激する、マーケットリサーチばっちりの現代駄菓子」である。

9 白人が黒人音楽であるジャズを、音楽大学でスパルタ式に教えるのは、ジャズを「二流のクラシック」として衰退させる行為だ。

ただ、9は大学でジャズを教えているアジア人である菊地先生にも返ってくることでしょう。

菊地先生は黒人音楽映画について、非常に非常に特殊な視点というか視力をお持ちです。

http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20071122

↑菊地先生が『ハッスル&フロウ』を「死ぬほどよくできている」と絶賛し、その年のベストに選んだ言葉。


では、「ジャズ素人」の私が僭越ながら、自分の素人考えを書かせていただきます(菊地先生の4分の1くらいの文字量で)

★ここから先はネタバレを含みますので、映画をご覧になった後でお読みください。





菊地先生のおっしゃる通り、主人公アンドリューは「ただ叩くのが早ければいい」と思い込んでいるだけの少年で、グルーヴもつかめていない、

ジャズを人生の成功のための武器としか考えていない、つまりジャズがわかってない、というか、音楽がわかってないと思います。

音楽のために、やさしい彼女を捨ててしまうような愚か者でもあります。

彼にとって音楽は貧しい自分と父をバカにしてきた世間を見返すための武器でしかないのです。

だから、フレッチャー先生は彼にダメ出しを続けたし、がむしゃらに叩くだけだから出血したんでしょう。

繰り返しますが、主人公アンドリューは監督自身の経験に基づいていると監督が語っています。

菊地先生のおっしゃるような「マーケティングばっちり」ではなく、監督個人の思いから作られた映画です。

このような製作費4億円以下の超低予算インデペンデント映画は、マーケティングによってから作られることは普通ありません。

でも、菊地先生の言葉を信じて「あの映画はマーケティングばっちりで」とか言い出す人が出てきそうで嫌だなあ。


アンドリューをシゴく、フレッチャー先生は悪役ですから、もちろん間違った教師として描かれています。

速さを求める指導法はおかしいし、

意味もなく若い才能を潰すことしか考えてません。

彼をクビにした大学は結局正しい判断をしたわけです。

そういう時は「意味もなく」ではなく、「いったいなぜだろう?」と考えてみましょう。

たいていの映画では、描かれなくても、重要な人物の行動の理由が作者の中にはあるものです(ない場合もあるが)。

おそらくフレッチャー先生は、自分も演奏家になりたかったのでしょう。

それが何かの理由で挫折したんでしょう。

それこそ、菊地先生がおっしゃるように、フレッチャー先生はアーティストとしては「中の上」程度でしかなかったからではないでしょうか?

だから、若い才能を、おそらくは無意識の嫉妬で潰そうとしてしまう。

フレッチャー先生が挫折した音楽家だとすると、そこにも挫折した音楽家である監督が重ねられているかもしれません。


 二人とも、ジャズを、音楽を、人を潰すための武器として使っているわけで、音楽家として、いや、アーティストとして明らかに間違っているのです。

明らかにそのように描かれています。

 その意味で菊地先生の指摘の通りです。まさにそれが監督の意図ではないでしょうか?

 先生のお好きなプロレスに例えれば、金と名声のためにレスラーを目指す青年と、トップ・レスラーになる夢が挫折して若手潰しで鬱憤を晴らそうとするコーチの物語にでもできるでしょう。


 菊地先生が『セッション』を批判する個々のポイントはすべて仰る通りだと思います。

 ただそれは物語の欠陥ではなくて、キャラクターの欠陥として作者が意図して仕掛けたものであって、フィニッシュで昇華されるように機能しています。

 菊地先生が批判している「恐怖と憎悪」もこのラストで昇華させるために蓄積されていきます。構造上。

 また、このラストで、アンドリューとフレッチャー先生がジャズ本来の楽しさを思い出すことは、名門大学でジャズの技術を特訓すること自体への批判にもなっています。

 音楽もプロレスも、グルーヴとスイングのアートです。

菊地先生は『セッション』批判文のなかで、ご自分の「鬼バンマス」体験についてこう書いています。

素晴らしい文章なので引用させていただきます。

 菊地雅章氏という(中略)作曲者のバンドにワタシが参加した時は、この映画のような激しい物ではなく、陰湿で粘着的な物でしたが、目を覆うようなハラスメントが行われた事がありました。(中略)

 ワタシは、そのターゲットとなった先輩プレイヤーが半べそをかかされるのを見て、菊地氏を音楽家として心から尊敬していなかったら、本番が出来ないように、一本残らず指を折ってやろう、いや、一本だけで良い。切断するのであれば。と、心中で何度も何度もシュミュレーションを重ね、いつでも実行出来る様に待機していました。

 しかし結果としてステージは素晴らしく、病的な鬼バンマスである菊地氏も、ハラスメントを受けた先輩も、殺意を抱いていた若き菊地成孔氏も、全員グルーヴィーでハッピーになったのです。

 これこそが音楽の、正常な力なのです。

 まさにその通りのことが起こるのが『セッション』のラストではないでしょうか。

 ラストの「キャラバン」(バディ・リッチの演奏の再現)は、アンドリューのフレッチャー先生への逆襲として始まりますが、そこに先生が参加した時、二人はそれまでどうしてもつかめなかったグルーヴをつかんでスイングします(少なくともそのように描かれています)。菊地先生のおっしゃる「グルーヴの神」が降りてきたのです。物語においては。

 最初、アンドリューは鬼先生へのパンチのような気持ちでドラムを叩きはじめます。

 退学させられた口惜しさも、鬼先生への憎しみも、愛する女性を失った悲しみも、挫けた立身出世の夢も、何もかもこの演奏に叩きつけます。

 プロレスに例えると、それまで悪役に汚い手でさんざんなぶりものにされてきたベビーフェイスが、耐えて耐えて耐え忍んだ果てに堪忍袋の緒を切らして怒りの反撃ラッシュを炸裂させる瞬間です。

 観客は、ついに出た! やったれー!と拳を突き上げます。

 監督自身にとっても自分の夢をつぶしたコーチへの復讐の瞬間でしょう。


 しかし、『セッション』は悪役を叩きのめしたところで終わりません。

 叩き続けるうちに、アンドリューからは何もかも吹き飛んでいきます。彼の周りからすべての世界が消えて行き、音楽と一つになっていきます。

 観客は映りません。

 フレッチャー先生はアンドリューがドラムに叩きつけるすべての感情を受け止めて行きます。

 言葉の代わりに、アンドリューはドラムで、先生に言いたかったことすべてを語ります。

 それを言葉を聴くように先生は何度もうなずきながら聴いています。

 そのうちに先生は「わかった。わかったよ」とでも言うようにアンドリューの怒りのブローを手でなだめていきます。

 アンドリューの激しいビートがだんだん静まって行きます。

 先生はまたうなずきます。わかった。お前の怒りはわかった。悪かった。悔しいが認めよう。お前の勝ちだ。

 二人は思わず微笑んで見つめ合います。

 格闘家たちがパンチを交わし合い、技をかけあった戦いの果てに世界のすべてを忘れてしまうように。

 楽しい。

 音楽は楽しいんだ。忘れてた。

 学校なんかどうでもいい。もう、憎悪も恋の悲しみも敗れた夢もふっとんだ。いま、演奏しているのが楽しい。

 二人の間にあるのは音楽の楽しさだけです。

 先生もまた地獄に陥っていました。

 音楽を愛する若者を音楽の名のもとに潰していたのです。

 その地獄から先生は最後にアンドリューによって救われます。

 いや、救ったのはアンドリューではなく、音楽でした。

 

 微笑みを交わし合った二人はもはや勝ち負けなんかどうでもよくなっていました。

 だからエンディングはもはや「ロッキー」一作目のそれ。

 先生が笑顔で指揮したフィニッシュがビシっと決まった瞬間、僕は思わずガッツポーズをした。

 他の席からは「イエス(やった!みたいな意味)!」という声も上がりました。

 まったくプロレスの3カウントの瞬間でしたよ。

 この後味、このカタルシスのために、今までの苦しみがあったのです。


 このラストの演奏に感動した人は、菊地先生のようなジャズに詳しい人から何を言われても、別に反省する必要なんかありません。

 せっかくの感動をそんなことで否定するることはありません。

 ジャズの素人には充分に感動的な演奏でした。

 菊地先生とジャズに詳しい人々は「あの演奏にはグルーヴがない」と批判していますが、それがわからない素人にとってはまさにフレッチャー先生に「走りすぎか遅すぎか」と問い詰められて「わかりません」と言わされるアンドリュー君の気分です。

 自分ではわかってないのに菊地先生に追従して『セッション』の演奏をけなすことで自分が偉くなった気分になる人もいるようですが。

 もし、本当に菊地先生並のジャズ耳があって、『セッション』の演奏がよくないと感じたなら仕方ありませんが、自分ではいい演奏だと感じたなら、ジャズに詳しい人たちの批判に引きずられる必要はないでしょう。

『ロッキー』観て感動した後、ボクシングに詳しい人から「スタローンはボクシング下手だねえ」などと言われると嫌な気分になりますよね。

昔、スピルバーグの『未知との遭遇』が公開された当時も何人かの高名なSF作家(特に光瀬龍先生)や大物のハード系のSFファンたちは「こんなのSFじゃない」ってものすごい勢いで叩いたんですが、「SFだろうとSFじゃなかろうと、いい映画はいい映画だよ」と思ったですよ。

この後、菊地さんからアンサーがあって、それに対する筆者の返信がクリック先に続きます。