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映画評論家町山智浩アメリカ日記

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2015-08-02 『ルック・オブ・サイレンス』の豆が意味するもの

オッペンハイマー監督が『アクト・オブ・キリング』に続き、インドネシアにおける虐殺を追ったドキュメンタリー映画『ルック・オブ・サイレンス』のパンフレットに原稿を書きました。

何度も繰り返し出てくるジャンピング・ビーン(トビマメ)についての考察です。

トビマメたちの沈黙   町山智浩(映画評論家)

『ルック・オブ・サイレンス』には何度も、飛び跳ねる豆の映像がインサートされる。あれがもしメキシコ原産のいわゆる「トビマメ」だとすると、豆の中には蛾の卵が産みつけられているはずだ。孵化した幼虫は豆の中身を食べて成長する。これを手のひらなどで温めると、幼虫が痙攣して豆が飛び跳ねる。

 オッペンハイマー監督は、これを本編の主人公アディに重ね合わせる。アディは、自分の兄を殺した男たちに検眼をしながら、兄を殺した状況を「尋問」する。残虐行為を聞いてもアディの表情は固く変わらない。幼虫を閉じ込めたトビマメの殻のように。

 その固い殻は、アディが40数年、「悪魔のような共産主義者」の弟としてインドネシアを生きていくなかで作られたのだろう。アディの息子が通う小学校では教師が、共産主義者を皆殺しにした事実、その遺族も50年経った今でもまともな職につけずに貧困にあえいでいる事実を素晴らしいことして誇らしげに語る。そこでアディが生きぬいていくには、固い殻で心を覆い、沈黙し続ける以外になかったはずだ。

 冷静に着実に、虐殺者たちの調査を始めたアディはどんどん孤立していく。妻は家族のために追及をやめてと嘆願する。あれほど兄を殺した者たちへの恨みを語ってきた母も、虐殺の標的となった生存者すら、アディに沈黙を求める。今さら蒸し返してどうなる、と。マメは飛び跳ねないで静かにしていろと。

 虐殺者たちはどうか。彼らは、アディの兄の性器を切断し、女性を刺し殺し、被害者の血を飲んだ経験を自慢げに、笑顔で、冗談混じりに語る。インドネシアの歴史で彼らは勝者であり、勝者こそ正義だから。

ところが「私は、あなたが殺した青年の弟です」アディが明かした時、あれだけ饒舌だった虐殺者たちは急に言葉に詰まる。突然、目の前に置かれた自分の罪を直視できない。明るく楽しく自慢していたのは、自分を正当化して罪悪感から救われたかったからだ。血を飲んだのも残虐行為とばかり言いきれない。古来、人の血や肉を自分の体に取り入れる行為は、その人の命を自分の中で生かすことだった。血を飲むことで殺人を否定しようとしたのかもしれない。自慢話も笑いも、罪悪感という虫を閉じ込める殻なのではないか。

 オッペンハイマー監督は、虐殺が正当化されているインドネシアを「第二次世界大戦でナチス・ドイツが勝利して、ユダヤ人虐殺が正義とされている世界のようだ」と表現したが、たとえ法律や歴史でどれほど正当化されようと、人の心の罪は決して消えることはない。アメリカは日本に戦争で勝ち、広島や長崎に原爆を投下した米兵たちは決して謝罪せず「正しいことをした」と言い続けたが、死ぬまで被害者と会おうとしなかった。

ところがアディは、彼らの前に立った。真っ直ぐに見つめられた虐殺者たちは「正しいことをした」「後悔してない」と虚勢を張り続けられない。思わず目をそらし、「軍が背後にいた」「仕方がなかった」と、政府や時代のせいにし始める。誰も個人として罪を引き受けようとしない。あれほど英雄気取りだった虐殺者たちが突然、庶民の殻をかぶってわが身を守ろうとする。特にアディの兄の処刑に加担した実の叔父の無責任な小役人ぶりは、ナチスの幹部としてアウシュビッツ収容所で100万人以上のユダヤ人を虐殺したアイヒマンが、実はしょぼくれた小役人でしかなかった事実を思い起こさせる。

 虐殺者たちの動揺を見て「血に飢えた悪魔ではなく普通の人間なんだ」と一瞬ホッとするが、それは間違っている。虐殺者たちが、我々とまったく変わらない、良心や常識や他人への共感力を持つ小市民であることこそがいちばん恐ろしい。ナチを選挙で選び、ユダヤ人虐殺に協力し、広島に原爆を落とし、戦争で人を殺すのはみんな普通の人たちだ。

「何が望みなんだ?」虐殺者はアディに尋ねる。「復讐か? 謝罪か?」

「わからない」としかアディには答えられない。欲しいのは復讐でも謝罪でもない。「赦したいんだ」とアディは言う。何もかも忘れて幸福な父のように、忘れて救われたいのだ。でも、人々は過去に殻をかぶせて逃げ続け、赦させてくれない。

ここに見えてくるのは、インドネシアだけなく、歴史における加害者と被害者の間に横たわる断絶だ。

ユダヤ人虐殺、アメリカにおける先住民征服と黒人の奴隷化、日本のアジア侵略と在日韓国・朝鮮人、それに沖縄問題。加害者は「既に何度も謝罪した」「永遠に恨み続けるのか」とぼやき、過去を殻で封じ込めようとする。それを見て被害者側は反省が足りないと嘆き……。この循環が続き、断絶は深まっていく。

 アディの兄を直接殺した男は既に他界しており、その息子とアディは対峙する。息子は虐殺時、幼すぎて記憶にないし、アディも生まれていなかった。二人は虐殺の過去をどう清算し、どんな未来を築けばいいのか。同じことは、戦争の記憶を持つ世代が消えつつある日本やアジア、その他の国にもいえる。

 トビマメはいつまでも沈黙しているわけではない。闇の中で成虫に育ち、殻を破って光に向かって羽ばたく。だが、殻を破れずに、そのまま死んでしまうマメもある。インドネシアは、我々は、どちらになるのか。