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映画評論家町山智浩アメリカ日記


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2016-01-17 映画ムダ話でゴダールの『気狂いピエロ』

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音声ファイル、町山智浩の映画ムダ話、今回は、ジャン・リュック・ゴダール監督『気狂いピエロ』(65年)について解説します。

https://tomomachi.stores.jp/items/569a4f11be6be3b40e007b6f

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TVディレクターのフェルディナン(ベルモンド)は謎の女マリアンヌ(アンナ・カリーナ)によって犯罪に巻き込まれ、南仏に逃避行するが……。

北野武ソナチネ』、イニャリトゥ『バードマン』がオマージュを捧げた『気狂いピエロ』。

赤白青の鮮やかな色彩の向こうに、オタクな監督が自分を捨てた妻への嫉妬と憎悪と反省と懺悔と愛を込めた情けなくも哀しいコメディ。

冒頭、ベルモンドが本屋から出てくる理由は?

ベラスケスの絵画批評とルノワールの少女画の意味は?

サミュエル・フラーはなぜ「映画とはエモーションだ」と言うのか?

アンナ・カリーナのセリフとブルース・リーの共通点は?

結末のランボーの詩と「バルザックを読め」というセリフの関連は?

歌って踊るアンナ・カリーナを黙って見つめるベルモンドはなぜ寂しそう?

2016-01-09 映画ムダ話で『バードマン』解説

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有料音声ファイル「町山智浩の映画ムダ話」、今回は、アレハンドロ・イニャリトゥ監督『バードマン 無知がもたらす予期せぬ奇跡』の解説です。

https://tomomachi.stores.jp/items/5691244b2b34925ca9007352

あの隕石は何?

海辺に打ち上げられた物体は何?

主人公は死んだの?

主人公は飛べるの?

エマ・ストーンがトイレットペーパーに描いている模様は? 

冒頭の引用の出し方が謎を解くカギだ!

68分200円 映画鑑賞後にお聴きください。

D

2015-04-22 『セッション』菊地成孔さんのアンサーへの返信

これは、町山さんにアンサーさせて頂きます(長文注意)への返信です。

せっかく紳士的に書いたのに「町山さん、昔は仕掛けるときそんな口調じゃなかった癖にさ!(笑)ちょっと見ない間に、すっかりもう!!(笑)」ときやがった。

 

 わかったよ、なら、昔通りの言葉遣いでやったろうじゃねえか。

 オラァ! きくちなるあな!

 読めねえ名前親につけられてんじゃねえよ!

 これでどうだ!


 菊地さんがジャズを愛してるように、オイラも映画を愛してるし、この『セッション』という映画が大好きだから、1万6千字も使って口汚く罵倒されて、「菊地さんの批判を読んで観ないことにした」なんてツイートまであったから頭にきたんだよ! この小さい映画を守りたかったんだよ!


 ああ、たしかにオイラは菊地さんが『ハッスル&フロウ』についてデタラメ書いた原稿読んで、ファースト・インプレッションで「うさんくせえ!」って思ったよ! 

 いや、違うな。正直言うと、謎だった。

 もし映画を観てないとしてもポスターやスチルや予告で人種はわかるはずだし、ゲラを見れば編集者が気づくはずだから、こんなデタラメが掲載された理由がどう考えてもわからなくて、ずっとモヤモヤしてたから、真相を知りたかったんだよ! だけど、今回、やっとわかってスッキリしたぜ!

ワタシは「とにかくこいつ(その女性)に無茶苦茶な解答をして嫌な目に遭わせてやれ」と思ったんです。

 え? 担当者に対する嫌がらせでウソ書いたって? 本人深く反省しているとはいえ、それって、映画観ないで適当に書くよりもずっとヒドくね?

 

 そんな悪い奴のくせに、菊地さんの反論とやらは弱者ぶりっこ、被害者ぶりっこしすぎだよ!

要するにワタシはマイノリティであって、そんな「潰そうとしている」等と、お戯れは御勘弁願いたいですし(笑)、町山さんともあろう方が信者の私兵化、もしくはそれの容認をなさる様な悪漢とはガチで思いませんが、そうではなくとも、弱い者苛めは勘弁して頂きたいです。それとも、アメリカにいる間に、アメリカみたいになられましたか?(笑)

 それどころかオイラを「権威」だの「権力」だの「ナチ」だの「人種差別」だの。どうして菊地さんの映画評に異議示したら人種差別なの? いったい何人種だよ!

 菊地さんは「アメリカン・スナイパー」について書いたらオイラのファンらしき人に突撃されたというけど、そもそもオイラ、菊地さんの『アメ・スパ』論知らないし、それについて何も言ってないよ。

 それでも「まったく関知せぬこととはいえ、ウチの若いもんがご迷惑おかけしました」と詫びようとして、菊地さんのリンク先を読んだら、若干一名がメールしてきたってだけじゃん!

 それっぽちで「信者の私兵化」なの?

 どんだけ大げさなんだよ!

 俺なんかもっと凄い量の嫌がらせをもらってますよ(自業自得)。

 でも、まあ、これから迷惑かかると嫌だから、菊地さんへの反論ブログにリンクするツイートは削除したけどね。

 そもそも、オイラが本当に権威だったら、どうして頭の先から足の先まで着てる洋服代を全部足しても1万円超えないんだよ。どうして10年前のジーンズメイトのスウェット着てるんだよ! どうして映画会社から一度もお中元もお歳暮ももらったことないんだよ! どうして映画会社は一度もお中元もお歳暮も寄越さないんだよ! そもそも人生でお中元やお歳暮もらったことないよ! てか誰か送れよ!


 何が「権力側」だよ。どうして『セッション』をかばったら権力側なの?

 たしかに世界中の映画賞を獲得して、批評家にも絶賛されてますよ。でも、それは権力じゃなくて、いい作品だと評価されただけだよ! 


 それに、オイラのことばかり「権威になった」というけど、菊地さんもすでに権威でしょ。マイノリティだの弱者ぶんなよ!

 菊地さんは自分には映画を潰すような影響力はないと言うけど、『セッション』は菊地さんに比べると本当に小さな映画なんだよ!

 相手が『トランスフォーマー』みたいな大資本が作った大作ならたしかに批評なんか影響ない。製作費100億円以上で日本での目標興行収入40億円、全国600スクリーンで一斉公開、動員目標250万人、宣伝費1億5千万円以上だから。

 けど、『セッション』の規模ははるかに小さいの。そもそも若干28歳の監督が手弁当で作った超低予算4億円のインデペンデント映画ですよ(ちなみに松本仁志の『大日本人』の公称製作費が10億円)。

 しかも日本で配給するのは倒産して木下工務店の社長の酔狂で救われたGAGAだよ。いくら賞を獲ったといっても、日本での興行収入の最終目標はせいぜい2億円ですよ。

 計算いろいろ違ってるかもしれないけど、『セッション』の目標動員数はだいたい12万人ていどだと思いますよ。最初は180席以下の小劇場20スクリーンで公開だから。

 しかも興収の半分は劇場が持っていくから、宣伝費は1200万円以上のはずがない。それでスタッフの給料も払います。東京の民放のTVスポットは深夜でも一本40万円するから、ほとんど買えない。

 動員目標がこのくらいの映画だと批評や口コミ、それこそちょっとしたツイートまでが本当に大きく興行を左右する。特に『セッション』のお客さんのコアになる音楽好きな人たちに対する菊地成孔の影響力は、俺なんかよりもずっと大きいの! 『バードマン』で主人公の芝居を酷評しようとした演劇批評家いたけど、音楽好きにとっては同じような影響力はあるの!

 

「気に入らない映画を批判するのは自由のはずだ」と思うだろうけど、オイラも、菊地さんの酷評が公開日の4月17日以降に発表されたのなら、別に黙ってましたよ。でも、菊地さんは公開の一週間以上前に1万6千字も使って徹底的に叩いたでしょ。試写かDVDで配給会社に見せてもらったから。

 というのは、劇場公開が決まっている映画をメディアで酷評する際、それを発表するのは公開日当日以降、理想的には公開最初の週末以降、という暗黙のルールみたいなものがあるんですよ。映画批評で食ってる人の世界には。

 それは明文化されてもないし、そういう話し合いがあるわけでもない。ましてや破っても処罰があるわけでもない。自分も含めてみんな時々破ってしまうけど、映画批評を生業にしている者たちは、最低の仁義として守ろうとしているの。

 だから宇多丸くんや柳下毅一郎くんや井筒監督は徹底的に映画を批判するけど、公開後に自腹で観て、公開後に発表することにしている。菊地さんは「俺は、そんなルール、関係ないし、知ったこっちゃねえ」と言うだろうけど。

 そのルールにはいくつかの理由があるけど、まず、単純に試写などでタダで見せてもらいながら公開前に酷評して興行に悪影響及ぼすのは仁義にもとるからというのがひとつ。

 それに、映画を批評する人たちは、好きじゃない映画を批判したくても、映画がコケることを望んでいるわけじゃないから。観客の邪魔をするのは望んでないから。映画の内容は配給や宣伝の人たちの責任ではないから、彼らに迷惑かけたくないから。映画観客が減り、映画業界が衰退するのは望んでいないから。

 菊地さんが酷評を発表したのは、まだ一般の人が観れない時期で、口コミもなく、情報も限られているから、ものすごい先入観を与えてしまう。動員への影響も大きいし、観客に色眼鏡をかけてしまう。

「菊地がそんなにヒドイと言うなら観ないという人だけじゃなく、だからこそ観てやろうという人もいるはずだ」と言うけれど、お客さんには、そんなネガティヴな先入観なしで、ワクワクと期待して観に行ってほしかった。この『セッション』という映画が好きだから。

 なにしろ、アートシアターや単館が次々に閉館し、インデペンデントの配給会社が次々に潰れ、このままでは小品はみんなDVDスルーになってしまう事態が迫っているから。

 菊地さんからは「仁義守れとかヤクザかよ! 映画業界守れとか保安官のつもりかよ!」と言われるだろうな。そりゃ、菊地さんは、映画業界の事情なんか関係ないし、試写かDVDで見せてもらったとはいえ、原稿をボツにされて口をふさがれた感じだから宣伝担当者にも義理なんかないぜと思ってるだろうけど。


ていうか、菊地さんに原稿を依頼した配給会社か宣伝会社は、たとえ原稿をボツにしても、「すみません。素晴らしい原稿ですが、残念ながら掲載できません。でも、それはあくまでこちらの都合ですので、お忙しいところ、映画をご覧いただき、原稿を書いていただいたのですから、原稿料はお支払いさせていただきます」と言って、たとえ彼が「ボツにするなら稿料はいらない」と固辞したとしても、お詫び代としても黙って払っておいたらよかったね。せっかく書いた原稿がボツにされて、相手は頭にきてるんだから。 

で、念のために「申し訳ありませんが、この批判文の発表は、せめて公開日までお待ちいただけませんか」と深くお願いして約束してもらっておくとよかった。そのルールを知らない人も多いから。


 さて、ここからが本題。

 要するにオイラは映画を守ろうとして、菊地さんはジャズを守ろうとした。これは永遠に平行線でしかないのか。

 菊地さんが「妄執のエイハブ船長みたいな1万6千字」で、『セッション』に寄せられた膨大な讃辞と戦って守ろうとしたものは何か。

 こちらからできるだけ菊地さんの立場に歩み寄って考えてみた。

 

 4月19日付の「町山さんにアンサーさせて頂きます(長文注意)」を読んだとき、ハッと気づいた。菊地さんの気持ちに。



 自分は菊地さんの最初の『セッション』酷評の要点を箇条書きにしたが、そこに「核心に迫る」ポイントが抜けている、と菊地さんは憤慨している。

「この映画は最初に一発キツいのを入れるだけのワンパン映画である」を入れて下さると有り難いです。あれは単なる趣向を超えた、あの文章の核心に迫る重要な事ですし、そもそもタイトルにした「パンチ・ドランキング・ラヴ(レス)」の元になっています。

 そうか。「ワンパン映画」「パンチ・ドランキング・ラヴ(レス)」つまり菊地さんは『セッション』をパンチに例えている。オイラも推薦文で「ジャズの皮をかぶった格闘技映画! 10分間のファイナル・バウトに観客総シャドウボクシング」と書いた。その点では実は一致していたのだ。だが、オイラがクライマックスを『ロッキー』でのロッキーとアポロの殴り合いの果ての友情に例えると、菊地さんは「同一化リーディング」すべきでないと否定した。つまり、オイラは音楽をパンチの代わりに使ってもいいと思っているが、菊地さんはそう思ってないのだ。


ここから以降は絶対に『セッション』をご覧になった後でお読みください 


 オイラは、クライマックスを、アンドリューとフレッチャー先生という音楽に傷ついた者同士が、音楽で殴り合った末に和解し、音楽で救われると捉えた.

菊地さんは「ミュージック・マジックによって過去の傷を癒し、力強く再生し、音楽に感謝する、なんて物語は大大大好物なんですよ」と言いながら、『セッション』は画面上、ストーリー上ではそうだろうが、心がそう感じられなかった、と否定する。

 エンディングへの流れは、「ただ単に、<感動的な物語>の形式を踏んでいるだけで、こちらに移入させ、泣かせる感じがまったくしなかった」です。

 つまり、記号やベクトルに、上手く誘導してもらえなかった。物語は万能ではない。

 では、何が足りなかったのか。


 菊地さんは最初の酷評ではアンドリューを「手が早ければいいと思ってる」「リズム音痴のガキ」と罵倒し、フレッチャー先生を「中の上」ていどとこき下ろし、監督を「ジャズ素人」と書き、考証の間違いをあげつらって嘲っているので、「ジャズ素人」の自分は最初、それに反発し、「ジャズ・リテラシーがないとわからないってのかよ。そんなの関係ねえ」と思った。菊地さんが演奏テクやディテールの間違いを批判するのは、自分が批判している「二流のクラシック」としてのジャズ教育と同じじゃないかと。

 しかし、菊地さんがジャズに求めるものはそれではなかった。彼の本当の主張はやはりタイトルに堂々と表明されていたのだ。

「パンチドランク・ラヴ(レス)」と。

 つまり、「『セッション』は強烈なパンチだけで、ラヴ(愛)がない」と言っている。そこが本当のポイントだったのだ。

それなのに、自分はジャズ・リテラシーへの反発と好きな映画をけなされたムカつきと、菊地さんのフリー・ジャズ的な文体のせいで、それが見えなくなっていたのだ。

 菊地さんの酷評は、「愛」がキーワードになっていて、あちこちに出てくる。たとえば高校のビッグバンド部を描く『スイング・ガールズ』についてこう書いている。

「へたっぴでも、コンテストの結果がどうであろうとも、音楽は素晴らしいんだ。合奏という行為は、音楽愛、友愛、恋愛、性愛をも悠々と含んだ、愛の行為なのだ。<みんなで頑張る>という行為は、愛によってのみ駆動するのだ」という、音楽を扱う上での最低限の要所をしっかりおさえています。

 大事なことなので二度引用すると、「合奏という行為は(中略)愛の行為なんだ。〈みんなで頑張る〉という行為は、愛によってのみ駆動するのだ」それが「音楽を扱う上での最低限の要所」だということ。

 これでやっと雲が晴れたようにわかった。『セッション』のクライマックスが、なぜ、物語上は音楽による和解なのに、そう感じられないのか。

 菊地さんの酷評に影響された人がけっこうツイッターなどで得意気に「ジャズとしてはダメ」とか書いているが、それは大変な勘違いだ。

 『スイング・ガールズ』評で「へたっぴでもいい」と言っている菊地さんは巧拙やクオリティを問題にしていないのだ。

 では、菊地さんが『セッション』に足りないと言いたかったのは何か。

 音楽への愛とアンサンブルなのだ(バンドだからね)。


 菊地さんは、ビッグバンド指揮者によるすさまじいハラスメント経験と、本番での素晴らしいアンサンブルによるグルーヴの至福の体験を語り、「それが音楽の、正常な力なのです」と書いている。オイラが「それと同じことが『セッション』のラストでも起こるのでは?」と書いたら、菊地さんは「違います」と否定した。

 そう、まったく違う(自爆)。

『セッション』では、アンドリューとプレイヤーたちの心はまったく結びつかない。演奏家たちの相互作用によるグルーヴも作られない。しかもそのソロも怒りをぶつけただけ。大事な聴衆は見えていない(映らない)。彼にとって音楽は人をつなぐものではなく、依然として人を傷つける武器のまま。真剣勝負の格闘技なら勝ち負けだからそれでもいい。でも、音楽はパンチじゃない。

 これは『クロスロード』のクライマックスの問題点とも同じだ。

 ブルース・ギタリストを目指す主人公がギター・バトルをするのだが、最後はパガニーニの速弾きで勝つ。最初観た時は「ロックよりクラシックが偉いって結論かよ!」と憤慨したが、もうひとつの問題は、音楽には勝ちも負けもないし、本当に大事なのはテクニックよりも、客をも含めたグルーヴとかノリとかソウルとかスピリットということ。

 ところがフレッチャー先生は速く叩くことを教え、アンドリューも速く叩いて、ねじ伏せられたフレッチャーは負けたよ、と微笑んでフィニッシュ。アンドリューも微笑む。それは怒りを昇華した笑顔ではなく復讐を達成した笑顔だ。だから菊地さんはこの音楽はパンチにすぎないと感じた。

 プロレスは格闘技ではないから勝負は重要ではない。一人だけが一方的に相手を潰してもプロレスにはならない。相手を輝かせて自分も輝くことではじめてスイングする。音楽もそう。

『セッション』が最後にソロではなく、アンサンブルでバンドの一体感を出せたなら、たとえソロでも、殺気ではなく、菊地さんのいう音楽の「祝福」感がそのプレイにあれば、演奏の巧拙や質にたとえ問題あっても、菊地さん言う「音楽を扱う上での最低限の要素」を押さえられたかもしれない。

 ただ、そうするためには、主人公が音楽が楽しみ、楽しませるものだと気づく展開が必要になる。そのためには、後半の脚本の構造を根本的に変えないとならない。それが菊地さんの言う「どんでん返し」で「構造的に愛が混入している」ジャズ映画ということだろうか。

 でも、監督が主人公が変わらない結末を選んだのは、ジャズ・ドラマーの夢に挫けて、菊地さんが推測するように「まだ本当に音楽に救われてないから」かもしれない。でも、演奏家になりたくてなれなかった監督を、演奏家になれた菊地さんが、そう評するのはちょっと残酷だとは思う。音楽で傷ついた監督が音楽で救われてない映画を作ったなら、それを叩くよりも救ってあげて欲しかった。


 でも、それでもやっぱり『セッション』は大好きだ。

 もし音楽で主人公の怒りが本当に浄化される映画になっていたら、もっと感動的でカタルシスのある一般的な映画になっていただろうが、こんな暗く凶暴なインパクトは残らなかっただろう。実際、『セッション』を観終わった後、ヤクザ映画を観た後みたいな暴力的な興奮に震えた。『マッドマックス』一作目でずっと憎悪を貯めこまされた最後に皆殺しで復讐した後のような。だから菊地さんは『セッション』を「危険ドラッグ」と呼んだのだろう。

 でも、この抜身の刃みたいな凶暴さは映画作家としては、買いだ。

 それは「マーケティング」や「現代」からではなく、監督個人の心の傷から出たもので、立派な作家性だ。

 監督がいくら狂っていてもいい。だからこそ偏愛してしまう。たとえばマーティン・スコセッシは自分で愛を壊していく男の物語ばかり作っている。いつまで経っても救われる気配がない。オイラはそういう歪んだ男たちにより親近感を覚える。映画のなかだけは。

 でも、菊地さんは、愛するジャズを暴力と一緒にしてもらっては困るから、エイハブ船長のように戦ったのだ。


 そんな菊地さんの音楽愛がわからなくて失礼しました。私自身はやりとりのなかで、理解を深められましたが、菊地先生にとっては「だから最初から愛って書いたじゃねえか」と呆れるだけで、何も得るものもなく、ただ迷惑なだけでしたね。貴重なお時間を無駄にさせてすみませんでした。

2015-04-18 バードマン 無知がもたらす予期せぬ奇跡』

「どうしてこんなドツボにはまっちまったんだ?」

 主人公リーガン・トムソンが白いブリーフ一丁で座禅を組んで宙に浮いている。……あ、宙に浮いてる理由は後で。

 場所はどこかの楽屋。トムソンはかつてハリウッド超大作『バードマン』の主演スターだったが、その後は鳴かず飛ばず。妻子にも逃げられた。それが60歳をすぎた今、自ら製作・演出・主演するブロードウェイの舞台劇に再起を賭けている。

トムソンを演じるは、かつてアメコミのスーパーヒーロー、バードマンを映画で演じたスターだったが、その後、鳴かず飛ばずのまま60歳を越えた。演じるのはマイケル・キートン。彼自身も、ティム・バートン監督の『バットマン』(89年)で主人公ブルース・ウェインを演じた。

バードマン』の監督はアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ。彼の映画はいつも暗い。『アモーレス・ペロス』では都市の最下層で貧しさにあえぐ若者が金のために愛犬を闘犬に出す。『21グラム』では交通事故で娘と夫を失った未亡人と、彼女の夫の心臓を移植されて生き延びた大学教授と、その夫をひき逃げした前科者の三つ巴の愛憎。『バベル』ではモロッコ旅行中の夫婦が子どものいたずらで銃撃され、妻は砂漠の真ん中で死に近づいていく。『BIUTIFULビューティフル』では、バルセロナで貧しい移民を助けて暮らす男が末期ガンを宣告される。重くて暗くて真面目で救いようのない話ばかりだ。ところが、この『バードマン』はイニャリトゥ初のコメディなのだ。

公演までの数日間はドタバタの連続。共演者のエドワード・ノートンはナルシストで自分が目立つことしか考えてない。ベッド・シーンで相手役のナオミ・ワッツと本番に及ぼうとする。しかもナルシストで楽屋を全裸でウロウロする。その股間が見えそうになると何かの障害物で見えないという『オースティン・パワーズ』一作目でおなじみのギャグだが、ワンシーン・ワンカットの長回しでカメラがスティディカムで常に動き回っているので、この股間隠しは徹底した計算とリハーサルで実現している。バカバカしいことほど真剣にやるのギャグの神髄。これでアカデミー撮影賞だ。

 また、ナオミ・ワッツが売れない女優役というのはもうそれだけでギャグ。この人はニコル・キッドマンと同期なのに、自分だけ売れなくて、「マルホランド・ドライブ」の売れない女優役でやっと売れたけど、その後も『キングコング』などで売れない女優役ばかり。しかも、この『バードマン』では意味なく突然のレズ・シーンで、『マルホランド・ドライブ』のパロディまでやっている。

 そんなバカな役者たちとトムソンは取っ組み合いしたり、パンツ一丁でタイムズスクウェアの人混みを駆け抜けたり……。

 この舞台はダメだ、と落ち込むトムソンを励ますのがバードマンだ。

「お前はヒーローだ。お前は飛べるんだ」

 トムソンは宙を飛び、手に触れずに物を動かす。俺は無敵だ。ただし心の中だけで。バードマンも彼にしか見えない、オルター・エゴ(もう一人の自分だ)。

「何かを作っている時は、『俺は天才だ! 無敵だ!』という自信と、『俺には才能ない! ダメだ!』という自己不信が交互に襲ってくるものさ。それを表現したんだ」イニャリトゥは言う。

 舞台の演目は、レイモンド・カーヴァーの短編『愛について語るときに我々の語ること』をトムソン自ら戯曲化したもの。カーヴァーは日本では村上春樹によって紹介された純文学作家で、その作風はよくミニマリズムと評される。日常のほんの些細な出来事や心の微妙な揺れを、決してドラマチックに盛り上げることなくリアルに描いていく。

この『愛について〜』も、二組の夫婦がキッチンテーブルでジンを飲みながら、二つの愛の形について会話しているだけ。愛する女性を虐待することが自分の愛の証だと思っていたDV男エドと、交通事故で瀕死の重傷を負った老夫婦。夫は全身をギプスで固められて首が動かせず、横に寝ているはずの愛妻の姿が見えないことを嘆く。それで小説は何事もなく終わる。クライマックスやオチはない。

「カーヴァーを舞台劇にするなんて芝居について無知な者の選択だ」イニャリトゥ監督は説明している。「バカげてるよ」

 トムソンにとって、役者を目指したきっかけはカーヴァーだった。高校の演劇部の公演をたまたまカーヴァーが観て、トムソンに「誠実な演技だった」と書いた紙ナプキンをくれたからだ。トムソンはそれを50年近く経った今でも持ち歩いている。紙ナプキン? バーで酒を頼んだ時についてくるやつだ。カーヴァーは父親譲りのアル中だった。

バードマン』にも、イニャリトゥが追求してきたテーマが共通している。父と子の葛藤だ。『アモーレス・ペロス』ではホームレスの殺し屋が生き別れた娘を密かに見守る。『バベル』では母を亡くした聾唖の娘(菊地凛子)と父(役所広司)がコミュニケーションできない。『BIUTIFULビューティフル』で末期ガンを宣告された主人公は二人の子どもを抱えて煩悶する。

 トムソンには別れた妻との間に一人娘サム(エマ・ストーン)がいるが、麻薬に溺れてリハビリ中。トムソンは責任を感じ、娘との絆を取り戻そうとするが、厳しく断罪される。

「パパがこの芝居をやるのは、世間にとって重要な存在になりたいからでしょ。何様のつもり? ブログを嫌って、ツイッターをバカにして、フェイスブックも持ってない。それじゃ存在しないも同じよ。死ぬときに私たちに覚えてもらいたいんでしょ。でもね、あんたなんかどうでもいいわ」

 娘にとってトムソンはスーパー・ヒーローどころか、存在すらしない!

 トムソンは舞台でDV男エドを演じ、自分を拒絶した女性が他の男とベッドにいる現場に乗り込み、愛を求めて叫ぶ。それは娘に拒絶されたトムソンの叫びでもある。

「俺にだってなりたいものがあった。俺のような人間にはなりたくなかった。君はもう……俺を愛してないのか? 愛することもないのか……。なら、俺は存在しないも同じだ。どうもいいんだ」

バードマン』では、このセリフがリハーサル、プレビュー、本番の3回繰り返される。『愛について〜』にはないセリフだが、実はカーヴァーが死の直前に書いた詩「最後の断章」が元になっている。

 そして、君は得られたのか?

 この人生で求めたものを

 私は手に入れたよ

 君は何が欲しかった?

 愛された者と呼ばれること

 愛されたと感じること

 この地上に生きて

 この詩は妻テス・ギャラガーによってカーヴァーの墓に刻まれた。カーヴァーは「愛された者」になれた。トムソンは……。

★以下、結末に触れています。






 エドの絶望はトムソンの絶望に重なり、彼は本当に自分の頭に向けて実銃をぶっ放す。

 落ちて行く隕石。

 トムソンは舞台で一度死んだ。しかし、その役と一体化した演技は絶賛される。

 いや、実際は銃弾は鼻を吹き飛ばしただけだった。バードマンという余計なプライドの鼻を。

 自分を撃つことでオルターエゴであるバードマンを殺すのは『ファイトクラブ』で主人公が自分を撃ってタイラー・ダーデンを殺すのに似ている。

 トムソンは一度死ぬことで蘇った。もう、バードマン無しでも飛べる。

 娘は空を見上げる。

 パパは本当にヒーローだったのね。

 誰だって心の翼を広げれば、きっと飛べるんだ。


バードマン』には「無知がもたらす予期せぬ奇跡」という副題がついている。イニャリトゥは「無知だからこそ、無茶なことに挑戦できる」と言う。だから、カーヴァーの短編を絡めたスーパー・ヒーロー・コメディなんてバカげた企画がアカデミー賞を獲る奇跡だって起こるのだ。

 ただ、メグ・ライアンをネタにしたジョークは笑ったけどキツすぎるなあ。

2014-10-14 たまむすびで『バードマン

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本日午後3時、TBSラジオ「たまむすび」ではアレハンドロ・イニャリトゥ監督の『バードマン』を紹介します。

1990年のティム・バートン版『バットマン』の主役だったマイケル・キートン(62歳)がかつてスーパーヒーロー映画『バードマン』で一世を風靡した俳優を演じ、彼がブロードウェイでレイモンド・カーヴァーの短編『愛について語る時に語ること』を舞台劇にしようとするドタバタを描くコメディです。

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