1

咢が王様なパラレル小説です。 



====

「インスタントだけど」
「恐縮です」
 買ったばかりのマグカップに、封を切ったばかりのコーヒーを煎れて、お湯を注ぐ。彼が普段口にしている高級品とは比べ物にならないほどチープな味だろうに、客人はそれを優雅な手付きで美味しそうに飲んでくれた。
 まだ、家具もほとんど揃っていない、カーテンすらもかかっていない狭い部屋。蒸し暑い空気がこもる中、扇風機だけがゆっくりと首を回している。窓の外では、子供達の笑い声が響いている。小学校が近いのだ。
「こんな住まいで良かったのですか」
「最高だよ?スーパーにも近いし、治安だって悪くないって…ホント、良いお部屋を探してくれたよ」
「私には、理解しかねますが…まぁいいでしょう。さて、」
 眼鏡をかけた長身の青年は、この殺風景な部屋の家主である学生服姿の少年に向き合うと、深々と頭を下げた。
「改めて、お疲れ様でした。十五年間、よくぞお役目を全うして下さいました」
「僕、何もしてないけどね」
 そう、苦笑いした少年の片目は、眼帯で覆われている。
 数年前、懇談会を終えてホテルを出た所を狙撃された。十五年間の『仕事』で、唯一彼が負った傷だ。
「正直、とうていここまで無事に生き延びられるとは思ってもいませんでした。強靭な神経と悪運の強さに、敬意を表します」
「ひっどーい、なァ」
「では、お約束のものを、」
 銀色のジュラルミンケースから取り出したのは、通帳と印鑑、そして書類の入った封筒。
「これまでの報酬に、退職金と、ささやかではありますがお礼の気持ちをプラスさせていただいております」
 受け取った通帳を開いた少年は、大きな目を見開いた。それなりの贅沢をしても、一生食べて行ける額である。狼狽えずにはいられなかったが、これは正規の報酬なのだ。そう考え、少年は動揺を隠すように軽く咳払いした。
「確かに、頂戴しました、よ」
「そして、こちらがあなたの戸籍です。ご希望通り、日本の国籍を取得させていただきました」
 急いで開いた書類には、彼がこれまで渇望し続けたものが、記されていた。
「鰐島…亜紀人」
「あなたの名前です。お気に召しましたでしょうか?」
 ぎゅっと目を閉じて、書類を胸にかき抱くようにすると、少年は何度も頷いた。
「良うございました…これで、あなたは自由です。今後、私どもがあなたの人生に干渉する事はありませんが、あなたが必要とあらば、どんな事でも全力でサポートさせていただきます、個人として」
 形式張った口調の後、眼鏡の奧の目が、優しげに細められた。少年が、不安と喜び、戸惑いと興奮の入り交じった目で、彼を見上げる。
「…僕、これから、どうしよう?」
「あなたのお好きなように、なされば良いのです。もし、学校に通う事を希望されるのでしたら、手続きは責任を持って、私が」
「学校…行きたい!」
 ああ。
 夢のようだ。



 鰐島亜紀人という名を得たばかりのこの少年が生まれたのは、遠い異国の研究施設だ。
 彼は、莫大な研究資金を費やした試験管の中で生を受けた。選び抜かれた卵、選び抜かれた種、そして遺伝子操作ー少年は、ある目的の為だけに造り出された、生きる人形だった。
 彼を造った国は、閉鎖的な小国だ。絶対王政のもと、労働階級は度重なる増税により貧困に喘がされていた。彼らの怒りが頂点に達した昨年、とうとうクーデターが起こった。結果的にそれは失敗に終わり、政権は王朝に取り戻されたが、王族関係の血縁者はほぼ根絶やしにされていた。唯一難を逃れたのが生まれたばかりの第五王子で、王族の権威を保つべく、国はこの赤子を王として祭り上げる他無かった。しかし、混乱を極める政権下、名前だけの王に代わって実権を我がものにしようとする輩が後を絶たない事は容易に想像できた。幼き王が殺され、王家の血が耐える事があればこの国の政は革命軍の手に落ちる。そのため、彼を一日でも生き存えさせる為の作戦の一つとして、影武者を『造り出す』事になったのだ。
『幼い王は学問と精神の安定の為、治安の良い異国で育てられる事になった』という筋書きがでっちあげられ、亜紀人は生まれて直ぐに日本へ送られた。自分が『仮の王』である事は物心ついてすぐに教え込まれたー自らの不幸な生い立ちについても。亜紀人が日本で育てられている間、本物の王は他の国に居たのか、もしくは裏をかいて自国に隠れていたのかも知れない。
 亜紀人は、表向きは本物の王であるアギトの名で呼ばれ続けた。日本にいる間、外交の席などには駆り出されていたが、基本的には自由な振る舞いは許されておらず、ほぼ毎日を東日本のある一角に建てられた屋敷の、広大な敷地の中で過ごしていた。自分の生まれた国に帰った事は一度も無かった。帰りたいとも思わなかったけれど。
 しかし、再び革命は起こったー民衆の歓喜の声の中、歴史ある王朝は遂に倒れた。
 亜紀人が代理を務めてきた十六代国王・アギトは、政権を引き渡した後には、出家して国の聖地である山に建立された寺院に幽閉される事になった。それが、まだ年若い彼を処刑から逃す唯一の方法であったからだ。既に、国内外では『王は日本より帰国し、出家に備えている』と報道されている。
 こうして、亜紀人はお役御免になった。多大な報酬と、人として生きるための権利を得て。
 好きな国籍を取得してやると言われた時、亜紀人は迷い無く日本を選んだ。日本語は一番得意な言語だし、屋敷の使用人も大半が日本人だった。食事にも慣れている。学校には通えなかったが、一般教養は学んでいるし、SPのものものしい警護付きではあるが、交通機関を利用した事も何度かある。きっと、すぐ一般人としての生活にも慣れるだろう。
 この国で、新しい人生をスタートさせたいと、亜紀人は考えていた。