10

咢が王様なパラレル小説です。 1 2 3 4 5 6 7 8 9


 若い王は、雑居ビルの屋根に腰かけて足をぶらぶらさせていた。片方の頬が軽く膨らんで、長い髪の隙間から覗く目は金色に輝いている。小さな足にぴったり合うように設計された特注のA・Tのホイールは、久々に本気で走った名残でまだうっすらと熱を持っていた。懐かしそうに仰いだ天には、星の一つも見えはしない。夜明け前の東京の空は、彼にとって馴染みのフィールドだった。


 この魔法の靴を手に入れたのは、日本に来て数ヶ月が過ぎた頃だった。
 最初の一ヶ月は大使館に、次の一ヶ月は警視庁に、保護という名目で軟禁されていた。その後新宿警察署に移されて、アギトは変人の刑事の監視下に置かれる事になった。そのおかしな男と共に過ごしたおかげで、アギトの中での日本の公務員のイメージはすっかり覆されてしまう事になった。
 新宿警察署には、警視庁特殊飛行靴暴走対策室という課があり、男はそこの室長を務めていた。特殊飛行靴とはアギトも履いているA・Tの警察業界隠語である。高速で走り、腕の立つ走り手なら文字通り空を“飛ぶ”こと、果ては暴力行為に及ぶ事さえ可能なこのアイテム。特に、未成年の危険な使用が深刻な社会問題になっていた。特殊飛行靴暴走対策室のメンバーは、彼らを取り締まるために自分たちもA・Tを利用していた。ベテランを中心とした精鋭揃いだが、警視庁からは異端扱いされていたようだ。故に貧乏くじを引く形でアギトのお守りを押し付けられる事になったのだ。
 特殊飛行靴暴走対策室のメンバーの中には年若い少年もいて、彼が同期の総務に掛け合い、護身具としてアギト用のA・Tを手配してくれた。月が沈み、日が昇るまでの数時間、彼らのうち誰かと一緒であれば、アギトは魔法の靴で自由に走る事を許されていた。アギトは、身の安全の為に基本的に昼夜逆転の生活を送っていた。正午から就寝し、夕方に起床して、次の昼までを息を殺すようにして過ごす毎日、無論、厳しい監視の元で。A・Tがなければ、とうにどうにかなっていたかもしれない。元々、様々な訓練を受けて育ったために、アギトの身体能力は水準以上に高かった。限られた時間の中で、アギトはどんどん上達していった。
 A・Tが好きだとか、楽しいとか、そんな事を考えた事はなかった。
 魔法の靴はアギトにとってたった一つの、人としての尊厳の象徴のようなものであった。


 ころんと口の中でブドウ味の飴を転がして、ネコのように伸びをする。ポケットの中には、まだ幾つか飴の包みが入っていた。冷蔵庫の上のビンに詰められた小さな菓子類を、自分の影武者が『好きなときに食べてね』と言っていたので、失敬したのだ。甘くて、程よい酸味が、旨い。生きている間に自由に甘味を摂取できるようになるとは、思わなかった。
「…そういや、アイツ…」
 へらへらしたしまりのない笑顔を、思い浮かべる。
「…名前、なんつぅんだ?」