『DEARDROPS』那倉怜司 : 大人みたいな子供、子供みたいな大人

 音楽を、「神との戦い」の道具には堕さないこと。つまりは、そう位置付けてもいいのだろう。

DEARDROPS

DEARDROPS

 本作はおそらく、”そこまででもない”作品の一つだ。あるいは『けいおん!』ブームで市場に音楽モノを受け入れる土壌が形成され*1瀬戸口廉也という図抜けた才能が音楽に纏わるいくつかの傑作を書いた。そんないくつかの符号が組み合わさり、ロック中年な業界人に一作の「音楽モノエロゲー」を企画する機会が訪れた、その産物、というような。最も冷たく、忌憚の無い物言いをすれば、きっと本作は”それ以上の何か”ではない凡百に過ぎないのかもしれない。
 それでも、プレイして本当に良かった、と心から思える。だから、そのことについて書く。

「どんな人の心からでも、音楽は生まれる。そしてそれは、きっとその人の心を慰める。そういうものを人は生み出すんだから」

 ストーリラインをざっとなぞれば、それはきっと音楽モノの、とりわけ「ロック音楽モノ」としてのテンプレートの範囲内に収まる*2
 クラシックの世界でバイオリニストとして成功を収めた青年、菅沼翔一が、暴力事件を起こして業界から転落、幼馴染の父親の経営するライブハウスでアルバイトをしながら、仲間と出会い、ロックバンドとしての再起を始める。バンドはずっと続くかもしれないし、己の過去ともう一度向き合い、クラシックの世界に戻るのかもしれない。メンバーとなるヒロイン毎にルートはそのように分岐するし、ヒロインが事故死して主人公の下に灰色の世界が広がったりはしない。
それでは、特筆すべきは何か。それが、本作における「音楽」の取り扱い、それも『キラ☆キラ』との比較において、になると思う。少なくとも、ぼくはそう感じた。
 瀬戸口作品において、「音楽」は何度も重要なモチーフとなる。あるいは『CARNIVAL』における篭もった体育倉庫で外界をシャットアウトする支え、あるいは『SWAN SONG』における神や世界の不条理を巡る戦いの象徴めいたもの、またあるいは『キラ☆キラ』における、そんな全てをひっくるめて託すことの出来るもの、であるのかもしれない。
 そこでは「音楽」は何かの象徴や物語のモチーフであり、「それを託すのが、なぜ”音楽”なのか?」はあまり厳密には問われない。結集と解散を繰り返す人間集団はオーケストラになぞらえられ、その成否が世界や神と自己との関係を体現するものとしてピアノが弾かれ、「モテるかも」との動機を交えつつ魅力に惹かれ漠然と始まり。
 それが、何故、「音楽」なのか? この意味において、厳密には「音楽は芸術の象徴」辺りに止まる。『キラ☆キラ』千絵ルートを思い出して欲しい。夢うつつの鹿之助が視た「人の中にあるキラキラした何かと繋がるもの」には、絵筆もサッカーボールも並んでいた。目が視えなくなった画家でも良かったのかもしれない、人間集団ならサッカーチームでも良かったのかもしれない、対戦競技では違うとするなら、あるいは集団ダンスでも*3
DEARDROPS』では、何故、「音楽」なのか? 答えはどうしようもなく簡潔で、明快だ。

 あのとき、1人ホールで歌っていたお母さんの姿を思い出す。
 すごく幸せそうに歌っていた姿を。
 そうだよね。
 歌うことは幸せなこと。
 それを忘れそうになってたよ。

 それは「音楽が好きだから」。
 それ以上でも以下でもなく、それ以外の何ものでもない。好きだから、音楽。ただそれだけであった。
 進路の問題が問われる。大場弥生ルートのことだ。「音楽が好きだから」どうやってそれと関わっていけばいいのかを悩み、充分な技量を持ちつつも、それだけで全てを覆してしまえる「天才」ではない弥生は、自分の身の振り方を悩まずにはいられない*4
 競争の問題が問われる。これは桜井かなでルート。「音楽が好きだから」歌うのだとしても、それを商品として売り出すためには、違う問題が生じる。それは「好きだから」やっているはずのものに、その行為そのものではない「目的」を差し挟んで「手段」とすることについての問題でもあり、「好きだから」こそ、人よりも抜きん出てそれに関わりたいという愛執の問題でもある*5
 そこでは「音楽そのものが何処かに辿り着いているか否か」という一種抽象的な問題は重要視されず、「音楽そのものに対してどのように振舞うか」という周縁の事項こそが焦点となる認識がある。喉が潰れたら潰れたなりに歌うのだろう、腕が折れたら折れたなりに弾くのだろう。目指す場所に辿り着けない不満は生じるかもしれないが、そこに絶望の予感はない。音楽は、その成否をもって「神と戦う」ための道具とはなっていない*6

「音楽は苦行じゃない。人の心を救うものだ」

 かなでルート以上の本命であろう芳谷律穂ルートにおいて、そのスタンスは目立たない形で確固たるものとなる。
 翔一の父は「金」に価値を見出して音楽を信じないが「借金してバイオリンを買い取る」という二人の言葉にはその覚悟を認める。ロック界の大御所レオは「オレの顔が立たない」というだけの理由で音楽的に高く評価したDEARDROPSを「政治的妨害」の対象として方向転換する*7。TV局のオカケンは関係各所との兼ね合いからDEARDROPSへの表立った援助を諦めるし、それを再開するのは「賭け」に出るだけの勝算が見出せた段階だ。
「音楽」は、あくまでも「それだけで世界を引っくり返す異能力*8」としては扱われない。そこにある「音楽」という行為を取り巻いて、あくまでも「人間の戦い」が行われる。「音楽」は「自分」を守るための*9武器や防具ではなく、「音楽」を守るために「自分」がそれら外界と上手く付き合って戦わねばならない*10。堅実な、ともすれば物語的刺激に欠ける「大人」のリアリティである。

 本作はアンチ『キラ☆キラ』だ。それも”あの傑作と肩を並べられるから”ではなく、”あの傑作と肩を並べられないことを含めて”である。
 キャラはそんなに立ってないし、文章はやや冗長で、物語も劇的な展開やエネルギーを処理し切ることで生まれる熱を帯びてなどいない。「一言コメント」みたいに一人ひとり順繰りにセリフを言わせるやや間延びした掛け合い*11に、大事なシーンも平板かつ均質に書いたり、セリフで全部喋ったりする。極めつけ、ヒロインの歌で台風からは晴れ間まで覗く*12
『キラ☆キラ』と比較すれば、子供みたいなお話。さて、それでも、「子供」は一体どちらだろうか?
 瀬戸口廉也の筆力を思い出すとき、この作品は一見すると子供だましのように薄っぺらに映る。ぼくも初めはそう感じ、長らくプレイを中断していた。けれど終わってみれば、本作の語る「音楽」への愛敬と距離感に比して、『キラ☆キラ』の語ることの、子供が虚空へ向かって駄々を捏ねているだけに思える一瞬があった*13。たぶん、どちらも、嘘ではない。
 何を求めて、音楽へと向き合うのか。「何のために」が欠けているこの物語を、「動機が薄っぺら」「葛藤が存在しない」と切り捨ててもいい。けれど同時に、「何かのために、”音楽が上手くいっている状態”を求めて演奏すること」は、音楽そのものを、”自分の外部”として志向するものではないのかもしれない。

 小さく言い、律穂が戻っていく。
 俺は、ケースを開けてその楽器と対面する。
 宝箱を開いたみたいに、キラキラとした光がこぼれ出す。
 このバイオリンは、こんなに美しい楽器だったろうか?
 過去の暗い記憶を引きずって、いつのまにかこの楽器まで、なにか恐ろしいもののように感じてしまっていた。
 だけどそんなことはまったくなかった。
 恐ろしいと感じていたのは、ただ自分の中にあったおどろおどろしい気持ちをバイオリンに映じていただけだ。
 この楽器は、はじめて手にしたときと一寸違わず美しい。
 はじめてこのバイオリンと対面したときのことを思い出す。
 あのときも、宝箱を開けたときのようにキラキラした光がこぼれ出し、こんなきれいなものが俺のものになるなんてと、うれしくてたまらなかった。
 うれしくて、時間があれば1日中でもずっと弾いていた。
 弾いていないときも、ただ手に取り、触れ、とにかくその存在を感じていたかった。
 そんな、はじめての気持ちを思い出した。
 俺は今、このバイオリンと、再び出会ったのかもしれない。

 “自分”を侵し捻じ曲げようとしてくる”外界”の不条理に立ち向かうための「音楽」とは異なる、”自分”を捻じ曲げ”外界”の不条理と渡り合いながらでも求める「音楽」。
 この”そこまででもない”作品には、そんな、彼の描けなかったものが確かに込められている。*14 *15

*1:企画の決定権を握る人たちが「そう認識する」ことが”土壌の形成”かもしれないですけれど。

*2:食パン咥えてぶつかって、転校生と「あー! お前は朝の!」じゃないですが、”そこから捻って”各作品となるように、テンプレそのものはイメージの産物です。

*3:当然、変えてしまえば違うものになるので、これらは例示のための暴論に過ぎませんが。

*4:結論も、「やっぱり好き!」であって、自分なりの関わり方にたいする”覚悟を決める”話だったと思います。シャープに纏まっていて面白かったです。

*5:だから、ヨハンと翔一の問題が最もクローズアップされるルートとなっている、はず。

*6:瀬戸口さんは本質主義的だなぁ、とこの辺りでいつも思います。また、”天”に手が届いているか否かを問題にする彼自身の作品が、傍からは”何かに届いている一線を越えた傑作”に映ることで、「そもそも問題にしている”天”など実在しているのか?」には後退させない力を宿していること、も面白いと考えます。

*7:また、「ロック界の大御所」なんて神話的存在を持ち出してこられる所に、この作品の”微妙さ”と”強さ”があるようにも思います。

*8:SWAN SONG』終盤「ぼくのピアノは凄いんだ」ってやつです。

*9:あるいは世界や神、”天”に手を届かせるための。

*10:作中、ハッピーエンドに辿り着くには「神」や「運命」さえも味方につけなければならない、とかなり明示的に語られる。

*11:各キャラに均等に出番を割り振る、なのかはともかく、特に序中盤、これが結構テンポの問題を生んでいたような……。

*12:この実にあっけらかんとした予定調和ぶりが、『キラ☆キラ』を連想”させない”。

*13:というか『SWAN SONG』の方ですね。勿論、あれが神掛かった傑作だから、それに取り込まれないよう、"外部"へと視線を向けたがっている側面も強いです。

*14:【エントリ末、長文注の法則】あまり触れられなかった同根の問題として「かなで/律穂ルートの差異」があります。それは、”業界内”へと入っていったかなでと対照的に律穂は何をしたのか?という点です。終わりにレオが「完敗」を認めたように、あの産廃場野外フェスは、かなでルートの”業界内”に対し、”業界外”の音楽を実現してみせた、「新しい形」を結実してみせた、というもののはずで。これは音楽に限った話ではないと思うのですが、まず強い衝動や動機があるのに、その実現をフォーマットが「しがらみ」となって抑え付けてしまっている場合があります。律穂にとっては「業界慣習」「市場原理」「序列」等々がこれにあたるものの、しかしこの時、それらの「予め作られた形」は、”既得権益”という悪習であると同時に、それを築き上げてきた人々の努力の結晶でもあります。そうした状況において「それには則らないが利用だけはさせろ」ではタダ乗りにあたります。だからこそ、産廃場という”フロンティア”にゴミ拾いとファンネットワークによって「新しい形」を0から構築するまでに至ったルート終盤、レオも「失敗するところを見に来た」以上の手出しはしないわけです。「ギョーカイでのし上がってくぜ」的な順応型の動機ではなく、「私の音楽がやりたい」的な無形の衝動型の動機が先にあり、それを自己証明した結果/形として、”業界外”の産廃場野外フェスを実現する、と。こうした構図を含めて、音楽がまず先にある、という組み上げにおいて、この作品はとても一貫しています。

*15:「音楽」をアイロニーの道具ではなく神話の題材として再度選択する、そしてその実現として「草の根ネットワーク」の「新しい形」を生成する。コミュニティ対立→フロンティアとしての草の根ネットワークの創出、という構図。になるんでしょうか。「神話」の描きにくい時代にあって、オバマとかエジプトとかの前例? のあるこの解法は、少しばかり流行りそうな気もします、とこれは与太か。