『DEARDROPS』那倉怜司 : 大人みたいな子供、子供みたいな大人

 音楽を、「神との戦い」の道具には堕さないこと。つまりは、そう位置付けてもいいのだろう。

DEARDROPS

DEARDROPS

 本作はおそらく、”そこまででもない”作品の一つだ。あるいは『けいおん!』ブームで市場に音楽モノを受け入れる土壌が形成され*1瀬戸口廉也という図抜けた才能が音楽に纏わるいくつかの傑作を書いた。そんないくつかの符号が組み合わさり、ロック中年な業界人に一作の「音楽モノエロゲー」を企画する機会が訪れた、その産物、というような。最も冷たく、忌憚の無い物言いをすれば、きっと本作は”それ以上の何か”ではない凡百に過ぎないのかもしれない。
 それでも、プレイして本当に良かった、と心から思える。だから、そのことについて書く。

「どんな人の心からでも、音楽は生まれる。そしてそれは、きっとその人の心を慰める。そういうものを人は生み出すんだから」

 ストーリラインをざっとなぞれば、それはきっと音楽モノの、とりわけ「ロック音楽モノ」としてのテンプレートの範囲内に収まる*2
 クラシックの世界でバイオリニストとして成功を収めた青年、菅沼翔一が、暴力事件を起こして業界から転落、幼馴染の父親の経営するライブハウスでアルバイトをしながら、仲間と出会い、ロックバンドとしての再起を始める。バンドはずっと続くかもしれないし、己の過去ともう一度向き合い、クラシックの世界に戻るのかもしれない。メンバーとなるヒロイン毎にルートはそのように分岐するし、ヒロインが事故死して主人公の下に灰色の世界が広がったりはしない。
それでは、特筆すべきは何か。それが、本作における「音楽」の取り扱い、それも『キラ☆キラ』との比較において、になると思う。少なくとも、ぼくはそう感じた。
 瀬戸口作品において、「音楽」は何度も重要なモチーフとなる。あるいは『CARNIVAL』における篭もった体育倉庫で外界をシャットアウトする支え、あるいは『SWAN SONG』における神や世界の不条理を巡る戦いの象徴めいたもの、またあるいは『キラ☆キラ』における、そんな全てをひっくるめて託すことの出来るもの、であるのかもしれない。
 そこでは「音楽」は何かの象徴や物語のモチーフであり、「それを託すのが、なぜ”音楽”なのか?」はあまり厳密には問われない。結集と解散を繰り返す人間集団はオーケストラになぞらえられ、その成否が世界や神と自己との関係を体現するものとしてピアノが弾かれ、「モテるかも」との動機を交えつつ魅力に惹かれ漠然と始まり。
 それが、何故、「音楽」なのか? この意味において、厳密には「音楽は芸術の象徴」辺りに止まる。『キラ☆キラ』千絵ルートを思い出して欲しい。夢うつつの鹿之助が視た「人の中にあるキラキラした何かと繋がるもの」には、絵筆もサッカーボールも並んでいた。目が視えなくなった画家でも良かったのかもしれない、人間集団ならサッカーチームでも良かったのかもしれない、対戦競技では違うとするなら、あるいは集団ダンスでも*3
DEARDROPS』では、何故、「音楽」なのか? 答えはどうしようもなく簡潔で、明快だ。

 あのとき、1人ホールで歌っていたお母さんの姿を思い出す。
 すごく幸せそうに歌っていた姿を。
 そうだよね。
 歌うことは幸せなこと。
 それを忘れそうになってたよ。

 それは「音楽が好きだから」。
 それ以上でも以下でもなく、それ以外の何ものでもない。好きだから、音楽。ただそれだけであった。
 進路の問題が問われる。大場弥生ルートのことだ。「音楽が好きだから」どうやってそれと関わっていけばいいのかを悩み、充分な技量を持ちつつも、それだけで全てを覆してしまえる「天才」ではない弥生は、自分の身の振り方を悩まずにはいられない*4
 競争の問題が問われる。これは桜井かなでルート。「音楽が好きだから」歌うのだとしても、それを商品として売り出すためには、違う問題が生じる。それは「好きだから」やっているはずのものに、その行為そのものではない「目的」を差し挟んで「手段」とすることについての問題でもあり、「好きだから」こそ、人よりも抜きん出てそれに関わりたいという愛執の問題でもある*5
 そこでは「音楽そのものが何処かに辿り着いているか否か」という一種抽象的な問題は重要視されず、「音楽そのものに対してどのように振舞うか」という周縁の事項こそが焦点となる認識がある。喉が潰れたら潰れたなりに歌うのだろう、腕が折れたら折れたなりに弾くのだろう。目指す場所に辿り着けない不満は生じるかもしれないが、そこに絶望の予感はない。音楽は、その成否をもって「神と戦う」ための道具とはなっていない*6

「音楽は苦行じゃない。人の心を救うものだ」

 かなでルート以上の本命であろう芳谷律穂ルートにおいて、そのスタンスは目立たない形で確固たるものとなる。
 翔一の父は「金」に価値を見出して音楽を信じないが「借金してバイオリンを買い取る」という二人の言葉にはその覚悟を認める。ロック界の大御所レオは「オレの顔が立たない」というだけの理由で音楽的に高く評価したDEARDROPSを「政治的妨害」の対象として方向転換する*7。TV局のオカケンは関係各所との兼ね合いからDEARDROPSへの表立った援助を諦めるし、それを再開するのは「賭け」に出るだけの勝算が見出せた段階だ。
「音楽」は、あくまでも「それだけで世界を引っくり返す異能力*8」としては扱われない。そこにある「音楽」という行為を取り巻いて、あくまでも「人間の戦い」が行われる。「音楽」は「自分」を守るための*9武器や防具ではなく、「音楽」を守るために「自分」がそれら外界と上手く付き合って戦わねばならない*10。堅実な、ともすれば物語的刺激に欠ける「大人」のリアリティである。

 本作はアンチ『キラ☆キラ』だ。それも”あの傑作と肩を並べられるから”ではなく、”あの傑作と肩を並べられないことを含めて”である。
 キャラはそんなに立ってないし、文章はやや冗長で、物語も劇的な展開やエネルギーを処理し切ることで生まれる熱を帯びてなどいない。「一言コメント」みたいに一人ひとり順繰りにセリフを言わせるやや間延びした掛け合い*11に、大事なシーンも平板かつ均質に書いたり、セリフで全部喋ったりする。極めつけ、ヒロインの歌で台風からは晴れ間まで覗く*12
『キラ☆キラ』と比較すれば、子供みたいなお話。さて、それでも、「子供」は一体どちらだろうか?
 瀬戸口廉也の筆力を思い出すとき、この作品は一見すると子供だましのように薄っぺらに映る。ぼくも初めはそう感じ、長らくプレイを中断していた。けれど終わってみれば、本作の語る「音楽」への愛敬と距離感に比して、『キラ☆キラ』の語ることの、子供が虚空へ向かって駄々を捏ねているだけに思える一瞬があった*13。たぶん、どちらも、嘘ではない。
 何を求めて、音楽へと向き合うのか。「何のために」が欠けているこの物語を、「動機が薄っぺら」「葛藤が存在しない」と切り捨ててもいい。けれど同時に、「何かのために、”音楽が上手くいっている状態”を求めて演奏すること」は、音楽そのものを、”自分の外部”として志向するものではないのかもしれない。

 小さく言い、律穂が戻っていく。
 俺は、ケースを開けてその楽器と対面する。
 宝箱を開いたみたいに、キラキラとした光がこぼれ出す。
 このバイオリンは、こんなに美しい楽器だったろうか?
 過去の暗い記憶を引きずって、いつのまにかこの楽器まで、なにか恐ろしいもののように感じてしまっていた。
 だけどそんなことはまったくなかった。
 恐ろしいと感じていたのは、ただ自分の中にあったおどろおどろしい気持ちをバイオリンに映じていただけだ。
 この楽器は、はじめて手にしたときと一寸違わず美しい。
 はじめてこのバイオリンと対面したときのことを思い出す。
 あのときも、宝箱を開けたときのようにキラキラした光がこぼれ出し、こんなきれいなものが俺のものになるなんてと、うれしくてたまらなかった。
 うれしくて、時間があれば1日中でもずっと弾いていた。
 弾いていないときも、ただ手に取り、触れ、とにかくその存在を感じていたかった。
 そんな、はじめての気持ちを思い出した。
 俺は今、このバイオリンと、再び出会ったのかもしれない。

 “自分”を侵し捻じ曲げようとしてくる”外界”の不条理に立ち向かうための「音楽」とは異なる、”自分”を捻じ曲げ”外界”の不条理と渡り合いながらでも求める「音楽」。
 この”そこまででもない”作品には、そんな、彼の描けなかったものが確かに込められている。*14 *15

*1:企画の決定権を握る人たちが「そう認識する」ことが”土壌の形成”かもしれないですけれど。

*2:食パン咥えてぶつかって、転校生と「あー! お前は朝の!」じゃないですが、”そこから捻って”各作品となるように、テンプレそのものはイメージの産物です。

*3:当然、変えてしまえば違うものになるので、これらは例示のための暴論に過ぎませんが。

*4:結論も、「やっぱり好き!」であって、自分なりの関わり方にたいする”覚悟を決める”話だったと思います。シャープに纏まっていて面白かったです。

*5:だから、ヨハンと翔一の問題が最もクローズアップされるルートとなっている、はず。

*6:瀬戸口さんは本質主義的だなぁ、とこの辺りでいつも思います。また、”天”に手が届いているか否かを問題にする彼自身の作品が、傍からは”何かに届いている一線を越えた傑作”に映ることで、「そもそも問題にしている”天”など実在しているのか?」には後退させない力を宿していること、も面白いと考えます。

*7:また、「ロック界の大御所」なんて神話的存在を持ち出してこられる所に、この作品の”微妙さ”と”強さ”があるようにも思います。

*8:SWAN SONG』終盤「ぼくのピアノは凄いんだ」ってやつです。

*9:あるいは世界や神、”天”に手を届かせるための。

*10:作中、ハッピーエンドに辿り着くには「神」や「運命」さえも味方につけなければならない、とかなり明示的に語られる。

*11:各キャラに均等に出番を割り振る、なのかはともかく、特に序中盤、これが結構テンポの問題を生んでいたような……。

*12:この実にあっけらかんとした予定調和ぶりが、『キラ☆キラ』を連想”させない”。

*13:というか『SWAN SONG』の方ですね。勿論、あれが神掛かった傑作だから、それに取り込まれないよう、"外部"へと視線を向けたがっている側面も強いです。

*14:【エントリ末、長文注の法則】あまり触れられなかった同根の問題として「かなで/律穂ルートの差異」があります。それは、”業界内”へと入っていったかなでと対照的に律穂は何をしたのか?という点です。終わりにレオが「完敗」を認めたように、あの産廃場野外フェスは、かなでルートの”業界内”に対し、”業界外”の音楽を実現してみせた、「新しい形」を結実してみせた、というもののはずで。これは音楽に限った話ではないと思うのですが、まず強い衝動や動機があるのに、その実現をフォーマットが「しがらみ」となって抑え付けてしまっている場合があります。律穂にとっては「業界慣習」「市場原理」「序列」等々がこれにあたるものの、しかしこの時、それらの「予め作られた形」は、”既得権益”という悪習であると同時に、それを築き上げてきた人々の努力の結晶でもあります。そうした状況において「それには則らないが利用だけはさせろ」ではタダ乗りにあたります。だからこそ、産廃場という”フロンティア”にゴミ拾いとファンネットワークによって「新しい形」を0から構築するまでに至ったルート終盤、レオも「失敗するところを見に来た」以上の手出しはしないわけです。「ギョーカイでのし上がってくぜ」的な順応型の動機ではなく、「私の音楽がやりたい」的な無形の衝動型の動機が先にあり、それを自己証明した結果/形として、”業界外”の産廃場野外フェスを実現する、と。こうした構図を含めて、音楽がまず先にある、という組み上げにおいて、この作品はとても一貫しています。

*15:「音楽」をアイロニーの道具ではなく神話の題材として再度選択する、そしてその実現として「草の根ネットワーク」の「新しい形」を生成する。コミュニティ対立→フロンティアとしての草の根ネットワークの創出、という構図。になるんでしょうか。「神話」の描きにくい時代にあって、オバマとかエジプトとかの前例? のあるこの解法は、少しばかり流行りそうな気もします、とこれは与太か。

『うみねこのなく頃に 散 Episode8 Twilight of the golden witch』竜騎士07 : 「手品エンド」補遺

 手品エンドで描かれたのは、「幻想ではなく真実を直視すること」ではないという一点について。


 小此木社長と天草の真意を巡るやりとりが分かりやすい。
 あの推理の中身が"尤もらしいかどうか""筋が通っているかどうか"は問題ではないので、具体的には引かない。重要なのは、天草が返答に詰まったとき、それだけで、自分の"推理"が"真実"であると"信じ込み"、縁寿が引き金を引いた、ということである*1

「……ただ、この拳銃があるだけで。右代宮縁寿にはこの程度の推理が可能よ。如何かしら、皆様方…?」


「…………安全装置、外れてませんぜ。」*2
「知ってるわよ。……トカレフに安全装置がないことくらい。」


 彼女は、……生き残る。
 彼女を殺そうとする、巧妙に編み上げられた陰謀の渦から、……きっと生き残ったのだ。
 ……縁寿は舳先へ戻ると、その強い風に正面から向かい合い、さらにその先の未来を凝視する。
 主を失った船は、無限の水平線へ向けて、真っ直ぐに真っ直ぐに、どこまでも進む。
 その先に、彼女が本当に辿り着きたい願う真実があると、祈りながら

 ここで縁寿が展開した"推理"は、当っているのか("真実"なのか)分からないのである。縁寿の認識する限りの状況と、小此木社長の思惑への"推理"と、天草の持つ銃への"推理"が一貫しているだけであって、その一貫性が、事実と一致するか否かを保証するわけではない。同じく一貫性のある小此木社長の思惑が成り立つかも知れないし、同じく一貫性のある天草の銃への考察が成り立つかも知れない。ちょうど、ゲーム盤のルールで、筋が通りさえすれば複数の回答が成り立つかもしれないように。
 これはあくまで文字通り「推理」であって、真実であるかどうかについては、"推理"は何の保証もしないのである*3


 それでは、「手品エンド」が語ったものは何か、示したものは何か。
 ラストシーンのヱリカのセリフを見れば、それは容易に知ることが出来る。

 六軒島の島影も、今は遥か彼方。
 船は無限の水平線を目指し、……どこまでも、無限の旅を続ける。
 その無限の旅の始まりに、新しき真実の魔女は、同志の魔女に告げるのだ。


「………私は私なりの方法で、未来を切り拓くわ。」
「素晴らしいことです。」
「その果てに、……私が掴める真実は、あるのかしら?」
あなたが求める真実って、今さら何だって言うんです?
「…………………………………。」
「……………………………。」
「………ふっ。……その通りだわ。真実なんて、何の価値もないって、私は知ったわ。そして、もう一つわかったことがある。」
「何でしょう。」


天草の、看破されて戸惑った時のあの表情。悪くなかったわ。」

 真実など、分かりようもない。何故なら、この事件に限っては、当事者が生き残っていない以上、真実を真実と保証できるものが、何も残っていないからだ*4
 沢山の推理が成り立つ。右代宮絵羽が犯人かもしれない、そうじゃないかもしれない。右代宮戦人が犯人かもしれない、そうじゃないかもしれない。小此木社長は縁寿を狙っていたのかもしれない、いないのかもしれない。天草は縁寿殺害の命令を受けていたのかもしれない、いないのかもしれない*5
 けれど、それが一体、何だって言うんだ? と。
 看破に価値があるのなら、自分が「看破したと信じられるだけの条件が揃っている」ことが「真実である」ことの条件である。そう、すり替わっている。


 手品エンドが描いたものは真実か否かではない。自分で真実らしいと信じられるかどうか、喜んで受け入れられるかどうか。真実、ではなく、真実だと錯覚できる暴露の感触、である。
 さも、尤もらしい小此木社長への推理が成り立つ、天草への推理が成り立つ。それを、保証のないそれを、自分がそうであると信じるから真実である、と考えるのは、魔法エンドと、完全に同じ思考回路*6である。


 魔法エンドはともかくとして、「手品エンドの縁寿は純粋に真実を追っている」と見るのは、"魔法"である。
 望むのは、真実ですか、それとも、真実を暴く感触、ですか?

「「グッド!」」

*7 *8

*1:「そんな、あそこで撃たなければやられていた」と思うだろうか。それは、"分からない"のだ。何故なら、それが分かる前に、縁寿が撃ってしまったのだから。

*2:この箇所を、騙そうとしたから害意があったのだ/推理は当っていたのだ、と読むこと"も"出来る。しかし、何にせよ頭に血が上った縁寿を止めねばならないと、咄嗟に嘘を吐いたのだ"とも"読める。そしてこの状況に於ける真実とは、"どちらか分からない"である。

*3:前提が真でなければ、それに基づくあらゆる推論も、途端に意味を為さなくなる。そして真実とは、"前提が真である"と保証されることである。推理によって断定された犯人は「証拠を出せ」と謂う、しかし、証拠まで出した推理小説に読者は「それが証拠であると保証するのは探偵≒作者の恣意だ」と謂う。「分からない」に向かって、数多の"推理"を立てても、"推理が尤もらしいこと"だけを根拠にしては、「分からない」を「分かった」に変えることは出来ないのである。

*4:「いや、戦人が……」と言うだろうか? しかし縁寿はあの時点でそれを知らず、全員死亡の認識に基づいている。ならば、"誰かの生存を当て込むこと"はそのまま、想定外の恩恵が降ってくる"奇跡=魔法、を願うこと"に他ならない。

*5:あの事件への対応と手品エンドでの判断は違う、と思うのであれば、このエントリの頭に戻ることを推奨しつつ。

*6:「あそこで撃たなければやられていた」と"信じ込む"こと、を含んで。繰り返すが、真実は、あの段階では、"まだ分からない"のだ。

*7:仮にこれを、「いつか真実に辿り着いてみせる、という絶対の意思だ」と読む(ここまで見れば、そもそもの前提として、これはまずもって"誤読"となるけれど。)としても、それならばそれは「根拠が無くとも選んで信じる幻想」として等価であり、先に書いたように、その果てで生き残った戦人と出逢えたなら、それは"奇跡を得た"に過ぎない。そして、これを「絶対の意思は奇跡を引き寄せる」と昇華するならば、それはベルンとラムダに対する「両取り」であって、完全なものは完全である、という自家撞着に過ぎない。

*8:ただ、何でもかんでも「保証がないから分からない」と繰り返すのは「99%であっても100%ではない」と、当たり前の事を繰り言のように語っている/何も語っていない行い、に他ならないとも思うので。あくまで『うみねこのなく頃に』の手品エンドに何が描かれていたか、というお話として聞いていただければ。「分からない」はずのことを「分かる」と言い張るのは、他人に対する干渉としては望ましくないかもしれませんが、「何かをそうであると信じて行動する」という意味においては、結構、自分を促すために限れば、実践的だったりするとも思います。実際、彼女のように「陰謀だ!」と思い込めば、人だって殺せる決断力が(ry とは悪趣味が過ぎますね、申し訳。

『うみねこのなく頃に 散 Episode8 Twilight of the golden witch』竜騎士07 : わたしが信じた魔法、あなたが残した手品

 橋を両側から架けねば成り立たないもの、あるいは、手を互いに繋がなければ成り立たないもの、そうしたものは、確かに実在する。
 それでは、”手を差し出さなかったのは”、果たして誰であったのだろうか?

 以下は『うみねこのなく頃に 散 EP8』のぼくのプレイメモの抄録とそれへのコメントである。
 文頭に「・」が非引用部であり、ぼく自身のプレイメモである。引用枠内のその他は作品の引用となっている。

 ゲームマスターである戦人には、赤き真実を使うことも出来る。
 しかし、赤き真実というルールは、魔女のゲーム盤にだけ出てくるものだ。


 ニンゲンの世界に、赤き真実など、存在しない。


 自らが見て、聞いて。……信じるに足ると、自らが信じたものを、赤き真実として受け入れるのだ。


 縁寿が認めない限り、どんな真実も、真実たりえない。


 それに、気付いて欲しいと戦人は願っている。
 赤き真実という、ゲームのルールで真実を押し付けても、何の意味もないのだ。

 縁寿は、自分の力で、自分の心で。
 真実を真実として、受け入れなければならないのだ。

 ぼくは話の結末自体には不満を持たない。「それがどのように物語られたのか」にのみ、不満を持つ。
 物語は戦人が事件の真相に至ろうと試みることから始まり、「魔法による殺人だ」と煙に巻く魔女ベアトリーチェとの推理合戦に繋がる。提示される魔法の描写と、それを暴くためのルール。物語の枠組み認識が転換されてゆく過程には、確かなセンスオブワンダーの興奮があった。物語は「現在の時間」としての縁寿の視点へと展開し、戦人が「真相に至り、魔女の真意を悟る」ことから降りた「事件の真相究明者」としての地位を縁寿へとバトンタッチする。
「魔女の赤字」とは「事件の真相≒事実に反することは云えない」ものとしての互いを縛るルールであり、それは「信頼し合わない者達」が、それでも対話を続けるために、対話を続けようとして、提示・構築した一種の「契約」である。契約によって互いを縛ることは、この意味において、逆説的に「互いの不信」を保証した。相手の言うことを信じられないから、嘘を吐かないことを約定する必要が生じるわけである。
 作中何度も触れられるように、「それでも赤字さえも信じない」ことは、確かに可能である。赤で言ったことは真実だ、と、信じられない相手と信じられないがゆえに約束する。これは明白な矛盾である。赤字は「より高い信頼」のための前段階に過ぎず、本当は、こんなことなどせずとも、相手の言うことに耳を傾け、その向こうにある「相手の思い、伝えたいこと、思い出して欲しいこと」へと辿り着くように考えるのが理想であった。
 厳密にはこのような関係性と矛盾を内包していた「赤字システム」は、それそのものは「通過点」に過ぎない。けれど、その圧倒的なメタレベルでの契約保証に「本当の信頼関係*1」を代替させてしまわないこと、を主眼とする狙いにとって、それは同時に「主敵」でもあった。
 赤字があれば、相手など信じなくともいい。相手が信じられるのならば、赤字などなくともいい。総ては、信頼と信用と安心と、つまりは「絆」を巡る問題になる。

・ケーキの観測問題
・ケーキのシーン。こういうののリアクションでキャラクターの描き分けが活きるし、また切実に問われたりするんだろうなあ、などと若干の横道。
・解くこと、の楽しさ。なぞなぞ遊びになぞらえて。
・真里亞の問題が……。
・確率は、「事実」は、事後的に与えられる情報で変化する。論理は「不変の不可能」を証明する。ならば、その「論理」に逆らうものは何か。守りたい「真実」があるのならば、自分自身の手で守らなければならない。「論理」は「不変の不可能」をこそ証明した。それならば、あなたが己の「真実」を預けるべきは”論理ではない”。

 EP8は、端的にやり過ぎ、ないしは”くどい”部分もある。譲治の語る、「論理」に「己の真実」を託そうとすると「論理」は「己の真実」を変遷させてしまうよ、自分で守らなければならないよ、については、赤字を信じるのは不十分であることを、外部の学問的な知識からも保証しようとする場面だとは思うけれど。この辺りも、
「じゃあ、その学問的な知識に傍証してもらおうとする態度は、”外部”に”己の真実”を預けている行為に類するんじゃないの?」と云いたくなるような違和感はある。「確率論が何を言おうと、”己の真実”は不変である」が一貫した論旨のはずである。

 ひとりひとりが歩み出ては、縁寿に別れの言葉をかける。
 そして最後に、戦人とベアトが歩み出る……。
「縁寿。………少しはみんなのこと、思い出してくれたか?」
 もちろん、すやすやと眠る縁寿が答えるはずもない。
 しかし戦人は、続ける。
「確かに右代宮家は、ちょいと変わった一族だ。大金持ちだし、それを巡っておかしな噂話も飛び交っただろう。……しかしそんなのは全て、島の外の連中の勝手な憶測だ。」
「……幼さゆえに、やさしき思い出を記憶に留められなかったそなたを、誰も責めはせぬ。しかしそれでも、思い出してやれ。……忘れることが罪ではない。……思い出さぬことが、罪なのだ。」
「俺たち全員。………縁寿をパーティーに呼べて、本当に楽しかったぜ。……なぁ、みんな。」
 戦人の言葉に、一同は皆、頷く。
 皆、彼女の未来にあまりにも無慈悲な孤独が待ち構えていることを知っている。
 それを癒すことは、もう彼らには出来ない。
 ひとつだけ出来るとしたら。
 …………自分にはかつて、どれだけやさしくて楽しい親族たちがいて、………そして今も未来も、ずっと彼女の身を案じて、見守っていることを、思い出してもらうことだけだ。
「言うまでもなく。……これは幻想だ。そなたは1986年10月4日の六軒島には、辿り着けぬ。これは全て、ゲームマスターの戦人が描いた、そなたと妾たちが一夜のパーティーをともにするという、魔法幻想。」
「でも、思い出せただろ…? みんながどれだけやさしくて、………楽しく親族会議で団欒していたか、……本当のことを、思い出してくれただろう?」


・「物語」の解体と再構築。記憶は塗り変えられる、多様な側面は一意の抽象概念へと固形化する。しかし、それならば。悪意に染まった多様なはずのそれそのものを、振り返り、無慈悲で愚かなものが全てではなかったのだと、“もう一度思い出す”必要がある。その手助けだけならば、死者であっても許されるはず。

 思い出さねばならないこと、自分の手で守らなければならない”己の真実”とは、特にこの、「一意の悪意の物語に塗り潰されずに思い出す、善い面も悪い面もあった割り切れない本当の親族の姿」のことにあたるのだろう。続くメモが半ば意味不明寸前になりつつも詳しい。

・死者がもたらす、赦しの物語。
・封鎖された可能性とそれを覆す奇跡の二者択一を、対象への認識の転換によって超克する。可能性の中に救いがなかった、物事の事実は悲劇と失敗と敗北に終わった。それならば、奇跡による祝福しか、それを救う手だてはないのか? 違う、のではないか。悲劇に終わればそれが全てか、奇跡で覆せばそれが救いか。それは、あまりにもその存在を小馬鹿にしてはいないだろうか? 失敗したものに尊厳はないのか? 奇跡による事実の救いなど無惨を裏返しにしてそうであると認めているに過ぎないのではないか。奇跡は、いらない。奇跡など起こらなくとも、彼らは善人でも悪人でもなく、あれは悲劇でもハッピーエンドでもなく、けれどそれが現実で、私の胸の中には「彼らを愛している」というたった一つの真実があるのだ。
・起こりえた悲劇は、起こりえずともあり得た悲劇は、少なくともボタンの掛け違えを掛け合わせた、物事の一側面に過ぎない。確かに悲劇は起こった。起こりえた事象の数ある一が揺るがし難く発現した。けれど、それならば、そのたった一つの起こり得た一が、本当にその全てであったのだろうか? 悲劇は起こり得た、けれどまた確かに、”起こらなかった場合”だって、あり得たのではないだろうか? さてそれならば。それならば「真実」とは何だろう? 起こり得た一か? それが本当に全てなのか? そうではない。確かに起こった悲劇と、確かに起こらなかった幸せな結末、その全てを内包した、可能性の束、それ全体こそが、たった一つの、けれど無数の、「たった一つの真実」なのでないだろうか?

 この辺りでは、ぼくも、そしておそらく竜騎士07さん自身も、明確に一連のKEY作品を意識した上での文脈を背負っている。その答えとして、「事実がどのような結末に終わったかは問題ではない」と「多様さを内包した対象が、一つに限定される事象によってそれが全てであるかのように受け止められるのはおかしい」と展開したことは、その是非はまたあるとしても、ある一方向への一歩の前進だとは思う。

ベルンカステルは仕掛ける。登場人物がいくら、どれだけ納得しようとも、勝負の趨勢を定めるのは縁寿=聞き手=プレイヤーなのだから。戦いは続く。役者がどれだけ騒いでも、劇の正否を定められるのは観客だけなのだから。


「………無論よ、ラムダ。約束するわ。ゲームが終わったら縁寿は解放する。」

・解放する。さて、それでは”解放された縁寿は何を選ぶのか”。これはそういうゲームである。

 作劇として、問題はやはりここにあったのだと思う。
 縁寿=聞き手=プレイヤー。果たしてそれは、最後まで守り抜かれただろうか?
 真実を知って尚、”魔法”を信じられるか? ベアト、戦人、縁寿とその立場を変えて為された「”魔法”を巡る物語」のその最後、作者は縁寿を信じたが、聞き手ないしはプレイヤーのことを、果たして信じていたと云えるのだろうか?

 ………私が真実を得れば、……それはつまり、家族の無残な最期を目を背けることなく、受け容れなければならないことを指す。
 それを受け容れるということは、…………ひょっとすると奇跡的に家族の誰かが生き延びていて、……12年を経て帰って来てくれるかもしれないという、僅かな希望、……都合の良い奇跡を、……手放すということだ。

「…………あんたもベアトも。……あんたたちって、つくづく面白い考え方ね。」
「何がだ?」
「……ゲームは、勝敗を決するための手段でしょう? そして、それを仕掛けるからには、至上目的は自分の勝利のはず。……なのに、自分が負けるかもしれないゲームを、どうしてわざわざ仕掛けるの…?」
「絶対に勝てるゲームなんて、つまらないだろ。そんなのゲームじゃない。」
「…………………………」
「勝つか負けるか。そのフェアなやり取りが面白いんじゃないか。ゲームってのは、戦いじゃない。コミュニケーションなんだ。その過程を楽しむ。勝敗という結果は、まぁオマケみたいなもんさ。」

「………理解できた? 自分と、……その鍵の意味。」
 私は、お兄ちゃんが掛けてくれたこの鍵を握り締め、しばらくの間、自分でも理解の出来ぬ感情に、わなわなと震えた。
 お兄ちゃんに騙されたと思って、憎むのは容易い。
 だが、それを憎むのはお門違いなのだ。
 だって、……これは私とお兄ちゃんのゲーム。
 お兄ちゃんは、私に勝つために、その最善手を尽くしたに過ぎないのだ。
 ……もしゲームが、遊びのようなコミュニケーションでなく、……勝利することだけを目的とする過程を意味するものだったなら。
 フェアなゲームなんて存在しない。
 相手にルールすら教えず、右も左も分からない内に、騙まし討ちで倒すのが一番に決まってる……。
 ……お兄ちゃんは、………その意味において、悪くない。
 私を、……あの甘ったるい幻想で誤魔化して、………孤独な未来に追い返そうとしているのだ……。

 こうして、不信と信頼、勝敗を決する手段としてのゲームとコミュニケーションとしてのゲーム。二つで揺れた縁寿の心が決まる瞬間についても、単純な飛躍があってどうにも置いてきぼりを食らってしまった感がある。
 ここから縁寿とプレイヤーとの「奇妙な乖離」が始まってしまった。同一でなくとも構わないものを、感情の受け皿として丁寧に擬似同一に置いていた筈なのに、決定的な瞬間でもって切り離すという、悪手を選んでしまった。
 ここに表れるものは、何か。それは「あなた=聞き手=プレイヤーは、縁寿ではない」という、不信や迷いだったのではないか。縁寿が心変わりすることは信じられた、けれどそれと同一化して、プレイヤーまでが心変わりすることは、どうしても信じられなかったのではないか。
 それは観客が己のパフォーマンスを見て何を感じるかを敏感に嗅ぎ取る、エンターテイナーとしての嗅覚において、優れているがゆえのものであるのは確かだろう。けれどそれは、「自分の物語を信じてくれていた読者」にとっては、「どうせ分からないし、伝わらないよ」と宣言し、突き放されたに等しくもまた、あるのではないだろうか。


 引用とメモは、ここで途切れている。続く物語はほぼ全て、「起きていることを眺めている」ものであると感じたからだと思う。
 ラムダデルタは最高にかっこよかったし、戦人が「見るな」と云った死の事実を直視してなお縁寿が”魔法”に辿り着いたのは理解できた。
 エピローグの戦人の身体のみ生き残りは、ハッピーエンドとバッドエンドを「死」の事実で客観的に判別出来ると妄想している人々に「心と身体と人格と魂と記憶と」「お好みの”生き残り”とは果たして何のことでしょう?」と問いを突き付け返す諧謔として寧ろ好ましい。
 海に沈んだベアトと二つに分かれた戦人は、「事実」と「真実」を併存させる美しさとして、EP2以降、ここまでで描き続けた「”魔法”の描写」の極地として、理想的な地点であったように思う。
 事件の真相が絵羽の日記と重ね合わせて明かされなかった事それ自体は、この物語の語ることそのものなのだから、そこに「個人的不満以上の客観的欠落」があるとみるのは、人の話を聞くことが出来ないんだな、としか思わない。


 そしてぼくは、このテーマに強く同意する、おそらくは「山羊ではない読者」である。
 では、この寂寞感は何だろう?
 最後の最後になって、"縁寿には真相を見せた上で魔法を信じられることを信じ、プレイヤーには山羊の下衆な欲望としてそれを拒んだ"こと。はじめから縁寿にその運命が与えられるのを"見届けるのが"我々の立ち位置であったのなら、はじめから"縁寿とプレイヤーは物語の別の所に立っている"と、明白にしていて欲しかったこと。
 作劇上の奇妙なズレが、伝えたものは何か、生まれたのは何故か。


 冒頭の問いかけを、もう一度。
 橋を両側から架けねば成り立たないもの、あるいは、手を互いに繋がなければ成り立たないもの、そうしたものは、確かに実在する。
 それでは、”手を差し出さなかったのは”、果たして誰であったのだろうか?*2 *3 *4 *5

*1:いわずもがな、胡乱な語であり概念ではある。

*2:追記:物語(孤島の殺人ミステリ) ⊂ ゲーム(魔法か否かのゲーム盤) ⊂ 物語(ゲーム盤を巡る心のお話) ⊂ ゲーム(竜騎士07さんとプレイヤーも同じ緊張関係にある) | 『うみねこのなく頃に』の8エピソード全体を通して、こんな感じの構造に見ることも可能だと思うのですが、ぼくの不満は「第四階層」にある「作者が読者に見せてしまった不信感」にまつわる問題です。お話のテーマを一番最初に裏切ったのは(最初に裏切ってしまえば助かる、というゲーム理論的な意味において、"最初に裏切る"とはまさにテーマの真逆である)、竜騎士07さんだったんじゃないか、と。それを除けばこの作品は大好きです。が、それだけは除けないんじゃないか、という一点で気になることが生じてしまったため、落とし所が見えなくなっています。

*3:そのように考えると、この作品に対する見方そのものが、ハロウィンパーティーで語られていた「一意の落とし所」ではない姿で捉えられる必要があるのかもしれません。ただ、それでも、最後になって「あなたはプレイヤー(傍観者・観客)でしかないんだよ」と突きつけられるのは、何とも寂しいものがあります。ラムダデルタは観客から「参加」することが許されていること、辺りと併せても。

*4:送り手と受け手、物語が双方の同意の下にはじめて円満に閉じられるのならば。例えば『Dies irae』は、納得して死ぬために、一夜の夢に贅の限りを尽くした。けれど『うみねこ』はその逆をやった。物語に満足したからその本を閉じられる、のではなく、テーマに同意させて物語に満足しないままでも本を閉じさせようとした。それは一つの手法として、テーマとして、何ら構わない。評価はそれぞれがすればいいのであって、「そういうもの」として、それ自体は単体で成立している。黄金郷の扉≒猫箱の蓋を閉じるのは二人。確定観測されなかった無限の物語可能性を成立させるものは、送り手と受け手の二人だからだろう。彼らが不確定のままその扉が閉ざされることに同意すること。しかしそれはあくまで戦人が縁寿に語ったことであり、縁寿が辿り着いたのは、心理の上でも事実の上でも、「確定観測された事実を、真実で上書きする」魔法の境地である。また、物語そのものが示したのも、その境地であるはずだ。

*5: 1/8 最後の追記 : 一つの事実誤認に気付いたので、ぼくの主張は強化されてしまうのだけれど、一応最後の追記をしておきます。それは「魔女のゲームに参加した縁寿は事件の真相を見てなお"魔法"である反魂を為したけれど、現実現在時間軸の縁寿は、そのことから発展して"事件の真相を知らない(絵羽の日記の中身を見ていない)"という、書き分けは確かに為されていた」ことです。書き分けについて曖昧な認識をしていました、謝罪します。ただし、ぼくの語っている「縁寿とプレイヤーの乖離」については、寧ろ魔女のゲームの縁寿の方がプレイヤーに近い認識(これは同意いただけるかと思います)なので、結局、ぼくが問題視している乖離の問題は覆らない――ないしは強化されてしまう――わけです。魔女のゲームの縁寿にそうしたように、プレイヤーにも"たいしたことない真相を見せて肩透かしを食らわす"展開も、竜騎士07さんの頭の中に選択肢としてはあったことと思います。推測に過ぎませんが、それこそ「エンターテイナーとしての彼の優れた嗅覚」が、「その展開は色んな意味で"面白くない"」と判断し、今回のような乖離ないし「プレイヤーを山羊or傍観者として突き放してしまう」結末に至ったのだと思います。また、多くの方が指摘されているように、現実の縁寿に対し「真実を知った上で生きる」可能性が予め恣意的に封鎖されているという面でも、問題視されて仕方の無いものと思います。ぼくは事前の予想として「ベルンカステルが事件の真相を赤字で述べたものに、縁寿ないしは戦人が黄金文字の"魔法"で上書き」を想定していたのですが、そこまでベルンが悪人には割り振られ切りません(未遂に終わった)でした。思えばこれは、9791さんの云う所の「ついぞ"悪人"を描けなかったKEY」と同じ陥穽であり、それはそれとして興味深くもあります。そして、それらを含めた上で、前記の注にあるように、今のぼくは「多様な可能性の束の総体」として『うみねこのなく頃に』に心よりの感謝を述べる心境にあります。その事を改めて述べつつ、繰り返した追記の末尾としたいと思います。ありがとううみねこ。落ち着いたら『〃 翼』もプレイするよ。

『Dies irae -Acta est Fabula-』正田祟 : 起源と超克

Dies irae ~Acta est Fabula~ 完全版初回版

Dies irae ~Acta est Fabula~ 完全版初回版

 物語を二つの流れ(香純&マリィ / 螢&玲愛)に割ったのは、おそらく「主人公が取りこぼすか否か」だろう。
『ディエス』は燃えゲーに比され、物語は玲愛ルートラストバトルの問題*1を含めてなお、異能バトルのエンターテインメントで魅せている。それが文章の力であれ、段階を経てインフレ寸前に膨張する構造的な盛り上がりであれだ。
それは確かに間違いではない。しかし、その盛り上がりに忘我することなく筋を追っていれば、大半のプレイヤーは一抹の違和感を覚えずにはいられないことも、また確かだろう。なぜなら『ディエス』は「幻想/異能の否定」をもまた、その中核とした物語だからだ。
 それ単独ではそう珍しい話ではない。"主人公"は争いを止めるための力を得て、争いを止めるために戦いに臨む。"悪役"は争いや悪や混沌や、あるいは独善の覇道を叶えるべく、戦いを望む。無数にあるバトルモノの基本骨格の一だ。「幻想/異能」は"悪役"、あるいはその世界に属するヒロインの呼び込んできた「非日常」であり、それを否定することが、「日常」に回帰することが、長い戦いを繰り返した果ての目標地点となる。するとしかし、ここに矛盾が生じる。
 主人公側に付く筈の読者が、そうした戦いの物語を願っている。
それはあらゆるバトルモノ諸作に向けられるお馴染みの批判でもある。そうした物語を求める人は相争い殺し合う景色を望んでいる、平和を求めるとは平穏を求めるとは、己が趣味趣向を凝らすための大義名分に過ぎず、それはタテマエでしかないだろう、と。
 実に馬鹿馬鹿しい。そんなことは当たり前だ。我々は戦いの物語を願っている。
異能バトルによる「燃え」の魅力と、そうした物語世界を志向する心根までも含めた「幻想/異能」の否定。『ディエス』に生じる違和感とは、実質、この矛盾への問いに答えようとしたが故のものなのではないか。我々が真に望んでいるものとは何か? 戦いの物語の果てに、平穏と日常を求める主人公とは別の形での、しかし同じ結末へと向かう、問いと答えがある。

   ◆

 その異常性は自覚されて「そういうものだ」として扱われるが、本作ではそもそも主人公が願う平穏、「日常」の質こそが異常と規定されている。同じ一瞬を無限に繰り返すこと、時間を停めること、<切断>の能力を時間に適用し一瞬を無限に裁断することで時を停める。異能としての美しさを兼ね備えて体現される「日常」に対する異常な渇望は、「日常」という概念の一つの純化でもある。極まった純化という、異常性。
 先の話と併せて考えてみよう。そもそもある程度の「非日常」を望むことは、本来ならば”通常”なのだ。その量は「日常」よりも少ない配分かもしれない、その質は物語という違う世界でのお話であることを求めるかもしれない。けれど、「日常」と成り代わらない*2程度の「非日常」であれば、それを望むことは自然であり、寧ろそれを一切望まない、時間単位の「日常」の中の揺らぎとしてすら究極的には望まない、ということの方が”異常”なのだ。主人公の藤井蓮は、あるいは永劫回帰の肯定かもしれないそれ*3を、心底の渇望としている。
 本作の「幻想/異能」である<聖遺物>とは、そうした人物の渇望を外界に反映するものとして描かれている。渇望が異能となり、幻想が外界を侵食する。香純&マリィルートでの蓮は「日常」に回帰すべく戦い、その「日常」の幻想は、ラインハルトに代表される「非日常」の幻想を打ち倒す*4。ラストバトルの対話が象徴的である。レギオンの流出と無限の戦いの地獄を望むラインハルトはここまでで話した「非日常」を純粋に望むことそのものであり、それに逆らって時間を停め平穏への回帰を目指す蓮は純化された「日常」そのものだ。
そして最後は、蓮も自覚するようにそうした”異常”を厭い、流出されるのは、全てを包み込むマリィの抱擁となる。対立と止揚、主人公は悪役を倒すが自身が新たな覇王となることなく、ヒロインとの調和的な二者関係が物語の結末を飾る。よく出来た「お話」である。

   ◆

 さて、だからこその螢&玲愛ルートの存在となる。
 例えば螢ルートでは、櫻井螢の翻意がどのように為されたのかがその焦点となる。螢は大切な人を失ってしまったから、その復活のために黒円卓に仕える身となっているわけだが、そのそもそもの根源は何処なのか。それを思い出し、直視することによってラインハルトと敵対する道を選ぶ。”復活”の真相を知ることに耐えられないとされていた螢が、蓮との結び付きによってそれを直視し、超克を意思することとなる。螢の起源はあくまで「兄やベアトリスの喪失」であり、それを受け入れられないからこその復活の幻想で、その"復活"が紛い物であれば、折れるにせよ立ち向かうにせよ、もはや彼女の望みはそこには存在しない。
 玲愛ルートでは、そうした起源がほぼ全ての人物に対し突きつけられる。
 印象的なのは前半のリザ・ヴァレリア・ルサルカの翻意と後半のシュライバー・ザミエル・マキナ大隊長三人の敗因。玲愛の仲間割れ工作に端を発し、リザとヴァレリアは自身の真の贖罪を目指して反逆し、ルサルカは自身の望みの原点へと辿り着く。シュライバーはヴァレリアによって己の原点となるトラウマと本当の渇望に晒されて破れ、ザミエルもリザの告発によって己の本当の想いを知る。
 我々が真に望んでいるものとは何か?
 ヴァルハラのエインフェリアと化し、「非日常」で無限に戦い続けることは、彼らが*5持つ、本当の望みであったのか? 起源に遡ることは、その問いを発することと意味を同じくする。
 玲愛ルートでは蓮もまた、友人を死なせることによって、彼らと同じ立場に立つ*6。螢ルートで問われたのはその前哨で、それはつまり、「あなたも決定的な喪失を抱えて幻想以外に打つ手がなくなったらどうするの?」という当事者性に関する問いである。蓮がラストバトルで何もしないのは、作劇規範上は問題があるとしても、この問いを向けたとき、カール・クラフトと対峙するのがラインハルト以外にはなり得ないがゆえの必然である。
 幻想の起点となった人物が、その起源に遡って違う選択をすること。幻想を超克すること。蓮はその選択を守り抜くことだけが役割であり、カール・クラフトに誑かされたラインハルトこそが、彼と矛を交えるに相応しい。藤井蓮は聖槍十三騎士団との戦いによって追い込まれ、聖槍十三騎士団はラインハルト・ハイドリヒによって追い込まれ、ラインハルト・ハイドリヒはカール・クラフトによって幻想へと追い込まれた。
全ては、神の自殺への渇望に端を発している。全てを知りたいと願ったがゆえの永劫回帰の世界、必然たる既知への嫌悪をその世界の神が抱いたとき、世界は塗り替えられるしかない。幻想は世界に飽いているラインハルトを巻き込み、『ディエス』の物語の起源となる。
 現実の在りようを拒否し、幻想にその打破を仮託したとき、戦いが始まる。
 蓮が”取りこぼす” 玲愛ルートで最後に語られるのは、我々は戦いを望んでいるのではなく、渇望を満たしたいだけなのだ、ということである。幻想はその渇望を叶えるかに見えるが、それは、ただひたすらに「そうではない」というだけの理由で否定される。
「二つは同じものではない」
「ゆえに幻想は渇望の代替にはなりえない」
 螢ルートで語られた「ガラクタと宝石」の交換不可能の話は、ここで全て一つに繋がる。幻想は、異能の戦いは、それ自体”決して渇望そのものを満たすことはない”のだ。外へ出られない神は最上の死に方を模索するしかなく、ラインハルトは無限の戦いで満ちることなどなく、ヴァレリアとリザは愛児たちを弔い、残された生者に愛を注ぎ、シュライバーは抱きしめられ、ザミエルは忠義に逃げ込まず自身の本当の想いと向き合う。
 本作が語ったのは、現実へ帰れ、ではない。
 日常にも非日常にも振り切れない我々の本当の思いを、幻想で誤魔化すことは出来ない。そう語ったのだ。
 さて、それでは我々の、あるいは"私の"本当の思いとは、渇望とは何か?
 それはこの物語に臨み、その圧倒的な奔流に身を浸し、ついには終わりを迎えるこの体験そのものではないのか?
 私たちは夢見ることを望む。そして、それゆえに本を開く。
 現実の目を閉ざし、夢で目を開き、夢に浸り、そして夢から醒め、現実で目を開くことを望む。
 Acta est Fabula. 本が閉じられ、悲喜劇は終わる。それだけのことであり、それこそを望んでいたのだ。*7 *8 *9

Dies irae ~Acta est Fabula~ オリジナルサウンドトラック 『Neuen Welt Symphonie』

Dies irae ~Acta est Fabula~ オリジナルサウンドトラック 『Neuen Welt Symphonie』

*1:主人公不在の最終決戦

*2:成り代わっちまえ! という方向性もまた、別のお話としてあるわけですが。正田祟のインタビューを読んだ時点では「日常の向こう側に突き抜けるルート」とは、その種の"逆転"を肯定するものだと思っていました。

*3:この辺りは「藤井蓮とカール・クラフトの相違点」としても割り振れる可能性/被造物が造物主を超克する蓮VSカールで終結する物語の可能性、を感じましたが、やらなかったこと、やれるような構造に組まなかったこと、が『ディエス』の物語で正田が何を描くことを優先/選択したか暗示しているようにも解釈できます。段階的に成長する主人公をラストバトルの盛り上がりに組み込まない。つまり少なくとも、そもそも"燃えエンタメを最優先する"つもりがない。

*4:いや、香純ルートは打ち倒さないですけどね。"戦い/非日常を継続する螢ルート"と比較すると、非日常という幻想は表向き後退して収束する方向性のルートだ、辺りでひとつ。……政治家の答弁みたいですね。

*5:あるいは我々が

*6:香純&マリィルートにおいても身内の死者は出る、というか多いくらいですが、"蓮が取りこぼしの責任を負うもの"ではないのが大きい。寧ろあちらでは「マリィがカールを殺さなかった」ように、蓮が守ろうとすることと切り離されて自ら意思し選択し死んでゆく先輩や司狼の姿に意義があるわけで。この辺り、正直2ルートの目指していた結末がごっちゃになった感は覚えていたりします。

*7:エピローグにおいて、蓮であって蓮でない存在がラインハルトより「物語の勝者」として「祝福」を受け取ることも同じ論旨で解釈出来る。「結局、同じところに戻ってきた」ではなく「意志を折らず、同じところに帰ってこられた」物語体験を、ある種の祝福との交換物とする。『ひぐらし』『シュタゲ』における「奇跡」の扱いと、概ね同方向。

*8:また、この論旨・作品の全体構成としての結末とは別に、ラストバトルで聖槍十三騎士団に華を持たせたラインハルト/正田の振る舞いは、逃避や仮託から成る幻想であっても、その存在を受容する、「愛」であることも、特筆しておきたい。

*9:「既知感と周回プレイの関係」「『PARADISE LOST』や男キャラ重視との関連から"対等"を巡る正田祟論」「ナチスドイツ・ニーチェ哲学・学園異能の三柱/三厨よりなるエンタメ論<〜汝、厨弐を愛したるや〜>」等々、他にも語りたい切り口は色々浮かぶんですが、相変わらずの作品構成とテーマ論に終始。長文感想は二次創作! いろんは……みとめない!

『うみねこのなく頃に Episode7 Requiem of golden witch』竜騎士07 : プレイメモ&考察

うみねこのなく頃に Episode7 Requiem of golden witch』のプレイメモと若干のテーマ考察です。後半は結構叫んでます。推理面やより客観性に富んだ読解は魔王14歳さまのこちら(事件の謎は解明されたか?-『うみねこのなく頃に Episode7 Requiem of golden witch』 - 魔王14歳の幸福な電波)に詳しいのでぜひどうぞ。なお、本エントリはネタバレ全開なので、EP7まで未プレイの方は回避推奨です。




・冒頭、二人の新登場人物であるウィルと理御が、掛け合いによって速攻、読者になじむ。楼座に話を聞き始めるころにはもう。

・ある種「解決編*1」であるEP7において、転換した認識や解釈に違和感を持たれては不味い。なので、「心情的に理解を示す」ウィルがその認識の転換(あるいは収束)の聞き手であることは、巧手のはず。

・10tの黄金。どうしても説明の付き難いことに関して、大状況をひっくり返すことで成立させてしまう辺りの豪腕は、『ひぐらし』と共通している。作家性だったのか!w

・真理亜の「1人で全てを生み出せる」は、『うみねこ』の物語全体の「送り手と受け手の二者の信頼関係」によりゲームは成り立つ(愛がなければ視えない)のアンチテーゼか。

ライトノベルやゲームの文章って独特のリアリズムで動いているよね(婉曲表現)、に対し、竜騎士07は『ひぐらし』においても(EX.沙都子の義父やレナの親族関係とか)、『うみねこ』の解決編においても、現実に寄った生々しさを利用したリアリティを持ち出してくる感が。『うみねこ』では、ヴェールを剥いだ真相はリアリティをこっちに持ってくるんだろうな、ということ自体は単体では容易に予想されていたことではありますが。

ベルンカステルが「無限の平行世界に拡散して体験の一回性や時間の不可逆性を喪失」している。無限にサイコロを振り直せることの罪は、その繰り返しの中で、「サイコロを振ることの意味」と「一回一回の出目の尊厳」を見失ってしまうこと。枷が輪郭を創る。境界線を失えば、「中身」も失われる。ゲーム盤のルールによる制約に馴染み、その背後にあってそれを要請する「動機」≒「心」≒「愛」を理解することが、「世界の唯一性」や「体験の一回性」、つまりは「生きた尊厳」を回復することに繋がる? 「カケラ」と蔑称して見下す「平行世界俯瞰」の視線を、「ゲーム盤」として捉え直すことで、「拡散」が「収束」する? それを取り戻すことが「愛がなければ視えない」?

・源氏期待の「親子の情を取り戻す」どころか、「ベアトに似てる使用人が!」って躊躇い無く金蔵のお手つきになったら源氏涙目だな……、とここまで考えて、ベルンと同じ悪趣味だと気づいた。頭痛がすらァ……。

・なんか『雫』みたいなBGMが……。礼拝堂にて。

犯人はヤス。いうまでもないことです。

・サボるの一節。「私は完璧に義務を果たしている」とやって、他人にまでそれを強制しては、基本的に押しつけがましい自己同一化でしかない。自分で自覚的にある種の悪(ここでは仕事中の節度を持った息抜き)を許すことで、他人のそれらも許せることになる。「交換可能な余裕*2」が生まれる。自分には義務と潔癖を強いるが他人にはいっさい要求しない、でも高潔にはなれるのだろうけれど、それでは負荷が掛かりすぎる。この辺りの「必要悪(or嘘)」の処理は、細かい描写だけれど、本作の「真実と嘘、事実と魔法」に対する「愛」の問題とリンクしている。竜騎士07の、あまり注目されない特徴として、こうしたミニマルが凄く巧い。

・しかしワルギリアやロノウェとの距離感が、こんなにガチでそのままだとは思わなかったし、実際そうであってもこんなに心情的に受け入れられる、納得できる、とは思っていなかったので、これもすごいなぁ。

・インディアン人形w そういえば『うみねこ』では頭に銃をぶっ放されたら明白な死亡判定になっていたけ(ry

・「何でも願いの叶う魔女」と「無限の平行世界を眺める魔女」は二つにしておおよその根が同じ。『ひぐらし』の無限の再試行による奇跡の裏側にして副作用でもある「拡散」について、「何でも願いの叶う魔女」へとパラフレーズして挑んでいる。

・紗音の動機について。6章「試される日」。「愛がなければ視えない」、なにも確実な保証のない域にあっても相手を「信じる」ことによって生じるもの、について語る物語にあって、その事件の動機がそうして「信じる」ことの大失敗から生じているというのは、シビアというか。シビアというか、メチャクチャ誠実。あと、前回に引き続いて蔵臼株が上昇しております。

・9章。しかしベアトリーチェがもはや直接「犯人を覆うヴェール」として表示されている。ここまで迫ったことといい、これにもう何の違和感も抱かないことといい、遠くまで来た感が。

・当初から、直接の血の繋がりが明示されている親族は全員肩すかしで、金蔵とその直属の家具であれば共犯なりなんなりで「背後」を囲い込める、とは割合至りやすい思考だけれど、このような形だとは。「”金蔵”称号説、金蔵継承説」は確かEP4で戦人が言ってはいましたが。

・「奇跡」を迎えることの無かった物語を、それでも受け入れるために。

・ほとんどの人が知らないままに終わるだろうけれど『羊の方船』とよく似ている。「語られた物語」の「聞き手」だけが属する「語られなかった、語られることのない物語」を祝福する「語られた物語」。

・理御が、すなわち「語られた物語」の外にある、前提を違えた者が、聞き取り、理解することが、「語られた物語」の外で起きる、「起きなかった奇跡」の物語となる。祝福となる。すなわち、「奇跡の起きなかった物語」を「語られ、聞かれ、理解されること」が、「物語の中では起こることの無かった」、「奇跡」となる。「物語ること」が、「祝福」。その尊厳を認め、守り、物語の中で奇跡を起こさなかったベルンカステルの「祝福」。*3

・「奇跡」を起こさずに、「奇跡」を迎えることの無かった物語を、どのようにして祝福し、肯定するか! メチャクチャど真ん中で「リトバスパラドックス(物語の二重化と乖離)」を迎えてしまったKEYないし麻枝への「物語」への信頼による超克じゃないか……!*4

・お茶会。戦人がすっごく嫌な奴に見えますッ。

・紗音こえええ……。「誓い」とか「約束」とか、重ねられてももう信じてないだろこれは。

・もしかして……、えー、あー……。

・なつきー! うわあ……、うわー。

・あー……。

・「魔女はなにもしていない」。ありとあらゆるお膳立てをし、舞台を整え謎掛けをしたが、「魔女はなにもしていない」。

・「真実」に救いが無い件について。「魔法」がご入り用ですか?

・うわあああああ! 絵羽こええええ!!!

・ろーざさんw なんという。

・あれ……? 絵羽?

・霧江ェ……。

・あー、やっぱ生きてたか。ここでズラす意味あんまり無いものなあ。しかし、これは面白い……。

・うーん。「奇跡」が物語内では封鎖されていることを提示するのはいいのだけれど、「語ること」によって、どこにたどり着こうとしているのかは、まだ分からないなあ。*5

「突然の不幸な事故で、みぃんな死んじまうのさ。その瞬間まで、俺たち親族は仲良くやってたのさ。……そうなるんだ。だからこいつは、気にするな。忘れろ。」
「純真だな。……殺せるんだぜ。カネで人は。」
「へ、……はっはははははははは。………案外、こんなもんなんだな。」
「もっと、良心が痛むと思ってたぜ。……終わってみりゃ、案外、こんなもんだ。」
「……馬鹿からカネを搾り取るのと、まったく同じことさ。……いつもの椅子取りゲームじゃねぇか。目の前にカネの山があったら、早い者勝ち。遅いヤツは蹴落とされて地獄行きってわけさ。」
「………ありがとよ、霧江。……いつもお前は俺の心の甘えを断ち切ってくれるよ。……へっへっへ、…へっはははっはっはっはっは! ひゃっはははははっはっはっはっはっはっはっはっはッ!!!」

・あぁ、このミもフタもなさなんだよなあ。
物語の真実(真相)を嘘(魔法)で覆ってしまうことの是非、は当然問われるのだけれど、そんな観念論に落とし込んだ質問の立て方自体がやや不足で。部外者がハラワタを引きずり出すこと、や、残された者が事件とどう向き合うか、という前提を含めた上での問いを立てるための残虐、というか、ミもフタもなさ。

・いやいやいや、絵羽対霧江は見たかったけど、よりによってそれを叶えるのかとw

・ここまで*6来ても霧江の眼のハイライトを消さないのは、素晴らしい演出だと言わざるを得ない。

・母と子の問題は繰り返されてるなあ。絵羽が譲治にしたように愛を注げばそれは蜘蛛の糸で巣から出さないように縛ることであり、かといって霧江はご覧の有様であり。ただ、譲治がそうしたように「巣立ち」をすればいいので、前者が吉との方針か。

・しかしこれは……戦人が棺に物語を捧げた姿を思い出してしまう。

「あの日、何があったかを、知ることよ。」
「あっははははははははは、あーっはっはっはははははははははははは!! 真実ってそんなにも尊いものなの? 馬鹿らしい、愚かしい!! どうしてニンゲンは真実を自在に出来ないのかしら。馬鹿みたいにそれだけを追い求め、そして目の当たりにして堪えられず、自ら屑肉と成り果てる!!」
「ねぇ、見えてる? クレル? ………あなたもまた、この真実を隠したかったのよね? あなたは戯れに、憧れる推理小説のラストのように、メッセージボトルに封じるつもりで、猫箱の物語をいくつも書いていた。それをあなたは、海に投じたわ。この真実を知ったら苦しむだろう者を救うためにね…!!」
「あなたが猫箱で閉ざし、絵羽がそれを錠前で閉じた。くすくすくす!! その箱を私が切り裂いてあげたわ…!! あっははははははははははッ、あんたが隠した全てが無駄ッ!! あんたが死んで隠した真実を、全て暴き出してやったわッ!!あっはははははははっはっはっはっはっはッ!!」

・うわ! 理御も封鎖された!?

・猫箱の範囲を広げて問題を解決したところで、「平行世界の魔女ベルンカステル式」の救済といえば確かにそうで、妥当……。

・うわぁ……、完全に「VS平行世界の想像力」じゃないか。

ベアトリーチェ。閉ざされた、逃げ得ぬ絶対の二日間に閉じ込められたあなたは、その二日間の猫箱の中で無限を生み出せる魔女となったわ。……絶対に救われない、報われないことと引き換えにね。しかしあなたは夢を見たわ。……それが右代宮理御という夢。………自分がクレルとならずに済み、幸せに暮らしていたかもしれない奇跡の世界を夢見て自らを慰めていた!」
「………理御を見つけるのは本当に苦労したわよ。その存在は、ベアトが夢見た通り、本当に奇跡だったんだから。そして、葬儀の最後に見せ付けてやりたかったのよ。………その奇跡をもってしても、あんたは惨劇を逃れられやしないってね!!」

・あー……、「家具」。

・ウィル! 真実が悪辣に暴かれることの無いように「守る探偵」という。事件の解決とその幕引きに対して、全体的に「責任を持ってる」わけか。

・屈服したら「運命」、信じたら「真実」。

「俺が教えてやるんだよ。バッドエンドしかないと絶望して死んだベアトリーチェに、ハッピーエンドもありえるんだって教えてやるんだ。だから絶対にお前を、下ろさねェ。」
「……………………ウィル……。」
「猫ども、左の二の腕もくれてやるぜ。欲しけりゃ両足もくれてやる。……だがな、絶対ェに理御だけは放さねェ。……俺が、這ってでもこいつを、お前というバッドエンドから逃がしてやる……!」
「いいの、理御? ウィルは、あんたを庇って死ぬ気よ? 嫌でしょう? 私なんか放って逃げて下さいって、お言いなさいよ。」
「……………ウィル……。」
「おう。」
「……私を、…………放さないで下さい……ッ。……逃げ延びます、絶対に! そして、あなたも…!!」
「それでいい。」
 その言葉に、ウィルは理御を力強く抱きかかえる。

 このゲームに、ハッピーエンドは与えない。

・戦人ァァァ!!! うわー、すげー! やべえ! なんだこれは。うわー*7

 シクシク。……シクシク、シクシク……。
 少女が一人、……無人の、静寂の礼拝堂で、泣いていた。
 それは小さな少女。……6歳の少女。
 1986年の10月4日に、5日に、……島にいられなかったことを、これから12年にもわたって嘆く、悲しみの少女……。
 そこへ、………一人の男がやって来る……。
 男は少女の姿を見つけ、……怖がらせないように、静かに歩み寄り、……そっと、その肩を抱いた……。
「………お兄ちゃん……………。」
「探したぞ、縁寿……。」
 少女は、兄の胸に飛び込み、再び泣いた…。
「どうした。……何をそんなに悲しんでいるんだ。」
「今日、クラスの子にいじめられたの……。テレビで、お母さんは悪い人たちと繋がりがあったって。………だから、うちのお父さんとお母さんが犯人で、みんなを殺したんだろうって……。……絵羽伯母さんに、そんなことないよねって聞いたのに、答えてくれないの……。……お父さんとお母さんは悪くなんかないよね? ね…?」
「可哀想に……。……みんなが、あの島で、あの日なにがあったのかを、好き勝手なことを言ってるんだな…。……そこにお座り。」
「……………うん…。」
 男が床を指差すと、そこに黄金の蝶たちが集まり、椅子を作る。
 少女は素直に、それに腰掛けた……。
「……お兄ちゃんは知っているよね? お父さんとお母さんは悪い人じゃないって、知ってるよね?」
「あぁ。もちろんだとも。……誰も悪い人なんかいないって、知ってるさ。」
「じゃあ、教えて。あの日、何があったの? 六軒島で何があったの?」
「いいとも。………話してあげるよ。あの日、あの島で何があったのか。」
「それは、……怖い話……?」
「まさか。」
「それは、悲しい話……?」
「とんでもない。」
「それは、……どんな話……?」
「聞いた縁寿が、自分で決めるといい。決して辛い話じゃないんだよ。だからお聞き。」
「うん。戦人お兄ちゃん……。」
「あの日、お兄ちゃんたちは六軒島に行ったんだよ。とても大勢でね。大事な親族会議があることになってたんだ。………まずは、どこから話したものかな。」
 これが。
 縁寿に捧げる、最後のゲーム。
 お聞き、縁寿。
 あの日、六軒島で、何があったのか。
 これは、辛い話でも、悲しい話でもないんだよ………。

・綺麗な嘘、優しい幻。
 ティーカップから飴玉を取り出す、たった一つの魔法。

うみねこのなく頃に

うみねこのなく頃に

*1:解答、ではテーマに反する感もありますし、回答では、伏せっぱなしで回答かどうか、という感もあり

*2:わたしはさっきサボった、だからあなたのミスを大目に見よう、というような非同一の交換可能性。

*3:思いっきり騙されているという。ただ、この「ベルンカステルが理御を連れてきたこと」自体の効用については、あながち的外れでもない。語り手と聞き手の二人からなる「宇宙」の力を利用する。最後に戦人が縁寿に「物語り」始めるような、一段上の「魔法」の方が本命のようだけれど。

*4:ほんとに「物語への信頼」を要してこそいますが。「苛酷」の物語があるのはいいとして、“なぜ、わざわざ、語られるのか?”とする観点に立てば、こんなに理想的な超克はないんじゃないかと、私見。物語内部に「あり得た可能性」として内在する「救済」ないし「奇跡」を許容しない、とする前提に立つ限り、これは卓抜な発展系なんじゃないかなあ、と。ぼくの好みが全開過ぎる気もしますが。

*5:悲惨な展開に圧倒されて、さっき出した結論を忘失しているの図。

*6:霧江による、縁寿戦力外通告

*7:ここで完全に死亡。EP4の縁寿周りでもやばかったけれど、更に上を行き、『うみねこのなく頃に』がぼくの中で「神」認定になりました。戦人カッコ良過ぎだろどうなってんだー……。

『犬憑きさん』唐辺葉介 : 100億光年、隣のあなた

犬憑きさん 上巻 (スクウェア・エニックス・ノベルズ)

犬憑きさん 上巻 (スクウェア・エニックス・ノベルズ)

 雪が降る。あの震災の地獄*1を、静かに覆い隠したものと同じ雪が。

 唐辺葉介こと”彼”が物した小説の三作目『犬憑きさん』は、呪いを巡る少女たちの物語だ。犬神憑きの楠瀬歩、管狐の有賀真琴、蟲毒を作ろうとした花輪美貴に、丑の刻参りの松田浩子、ヤマヒコこと村主慶介に、反魂術の御門智徳、そしてそれぞれの親類……。呪いを自身の手で試みることのない主要なキャラクターは、田端典子とヒノエこと木下結梨の二人だけだ。
 「それ」が外界に及ぼす力自体が、真実呪いや霊の類であったのか、遠大な催眠暗示術や荒唐無稽な感染精神病の類であったのか、厳密な真相は雪に覆われている。「それ」の実体が、果たして何か? 知り得る者はおらず、そして「何か」を確定的に知りうる特権を誰もが持たないがゆえに、その閉ざされた暗い箱のなかに、「それ」は入り込む。

 すべてに対して公平な結論を下すことが出来る完全な中立者は、真琴の想像しうる限り全知全能の神しかいない。


 だから、もし世界に神がいないとすれば、この箱は永遠に閉ざされたままだということになる。それはつまり、いつまで経ってもすべてが正しくて、すべてが間違っているということに他ならない。

 そもそも人は自分が、外界の事物それそのものを直接に知覚し得ているのか、自分の瞼の裏網膜の影像を眺めているに過ぎないのか、確定させることが原理的に出来ない。そしてその「事実」は、「自分」と「外界」との交渉にあっても同じことであり、私たちの言葉は相手にそのままには届かず、行為もその意図も、曲解され誤解され、物事の歯車次第では、あるいはその食い違いの事実さえも「誰も」知覚することが叶わない*2
犬憑きさん』における各キャラクター間の、相互理解における誤解曲解勘違いからなる「ディスコミュニケーション」は、俯瞰している読者にとって明らかだろう。第一に、歩の犬神や真琴の管狐が典子には見られない。また、真琴は悪意が空回りして友達が出来たことから物語に参入するし、松田浩子は御門がヤマヒコを追う真意を誤解することで協力を申し出る。ヒノエは自身の感情さえも気付けないままヤマヒコに仕えた。……一つ一つ挙げていけば、作中の関係性のその大半に、これらの「ディスコミュニケーション」が重ねられていることが分かる。

 さて、呪いだ。『犬憑きさん』という作品にとって、呪いとは一体何であったのか?
 それは、「自分」と「外界」との垣根を壊し、境界を侵す力だった、といえる。例えば、陰惨なイジメを苦にして復讐を望んだ冒頭の花輪美貴。蟲毒は彼女の願いを、彼女が願ったそのままに叶える。彼女が「自分」の願いをそのままに呪いに仮託すれば、呪いはそれを「外界」でそのままに叶える、純粋な変換機としての役割を果たす。
 誰しもがその願いのままにひたすらに呪いを念ずればよく、それは、「自分」の意図を「外界」の世界においても通ずるものにしようと調整する、根本的な意味合いでの「コミュニケーション」の放棄と同じものになる。「外界」との摩擦が一切介在しないそこは、「自分」だけの世界であり、呪いはそれとの同一化を「外界」に強制する力だ。

 作品の主題、と大見得を切るのは危険だが、少なくとも”彼”の文脈において、『犬憑きさん』は「ディスコミュニケーション」を肯定し、暴力的な「コミュニケーション」の行き詰まりとその破滅を描いた、描こうとした、と大別できるだろう。
 そして彼の過去作をよく知る者たちにとって、「ディスコミュニケーション」とは、あの震災の地を覆い隠した「雪」であり、恋人を救うためにその父を見殺しにした彼と彼女との「断絶」でもある*3。しかし、それは彼にとって、「事実の上でのハッピーエンド」を迎えるための犠牲として描かれ続けた、世界との一体感の喪失ではなかったか?

 そんな同情をしてみたところで、彼女が取り返しのつかない犯罪に手を染めたことにはかわりない。自分も一つ間違えれば同じような犯罪をしていたとは想像出来ても、実際にはやっていないのだ。そこが全然違う。


 これを重要な違いだと理解することが、これからの自分にとって必要なんだ。彼女たちは自分そのものでも、自分の一部でもない。自分はここにいるこれっきりだ。それを理解出来なければ、本当に同じことをしてしまう。

 当人はおそらく、今度こそこれを肯定的に描こうとしたのだろう。「外界」と触れ合っている自分の「表面」だけがその意を表し行為をなすのだから、それを受け入れ、その上で折り合って生きていかなければならないと、「成熟」しようとしたのだろう。意図してかせずしてか、果たしてそれは皮肉な構図を示した。
 本作は「少女たちの物語」だ。今さら『らき☆すた』や『けいおん!』を挙げずとも、同時多発的に平行して数多世に出た、「萌えと日常」に埋め尽くされ、決定的な問題を内包していない世界を舞台にした作品と、その表面的な意匠においては共通している*4
犬憑きさん』はその上下巻の物語を通して、少女たちの精神的な「成熟」は描きえた。第一話においては花輪美貴が蟲毒から「卒業」し、相手への復讐と同時に自身も延々とそれに囚われるという円環から抜け出す。全体としては真琴が、マークに憎しみを注ぎ続けることで成り立っていた自己完結から、「ディスコミュニケーション」を通して決別する*5。田端典子にいたっては、一貫して、歩と適正な距離感を保とうと自制できている。

「とにかくね、他人の世界のなかの話をどうこう言うより、自分の世界でこの人生をいかに生きるかの方が、私にとっては何億倍も重要なテーマなわけよ。犬神だとか管狐が現実世界にいるかどうかなんて、死ぬほどどうでもいい問題だわ。もし現実に存在していたとしても、私が見えてない以上それはないのと一緒なの。わかる?」


 紀子は冷静な口調でてきぱきと説明すると、カップのなかの紅茶を一口飲んだ。


「そんなこと言うと、なんだか、典子ちゃんが遠く見えるよ……」


 歩は情けない顔でそう言った。


「何言ってんの、これまで十年近く付き合って、あんたなんか私にとって地の果てよりもずっと遠い人間だって何百回も言ってるでしょ?」

「あなた」は「わたし」ではなく、すなわち「外界」もまた「わたし」ではない。そして、「あなた」にとっては、あなたと触れるわたしの部分だけが「わたし」を意味している。「外界」においてもまた、外界と触れるわたしの部分だけが、「外界」における「わたし」を意味している。呪いと決別するとは、ディスコミュニケーションを受け入れるとは、この遠い遠い、そして幾重にもフィルターの掛かった伝わらない世界を、それでもなお受け入れる「成熟」に他ならない。

 それでは果たして、「少女」ではない者たちは?
 御門は老僧の忠告の如く、深入りを止められずに死に、ヒノエは全てを悟ったとき何も残っておらず、ヤマヒコもまた、「殺人をやめる」ことを果たせずに終わる*6。そして歩もまた、一人少女でありながらそこに留まり、しかし生き残っている。呪いから解放された真琴よりもむしろ、犬憑きさんこと楠瀬歩こそが、”彼”流の割り切れないままの「ディスコミュニケーション」に、相応しいのかも知れない。
 言葉が伝わらないこと、想いが遂げられないこと、行為が理解されないこと。それならば、と割り切れなかった全ての登場人物たちが滅んでいったなか、歩だけが、呪いに頼ることなく、呪いから解き放たれることなく、犬憑きさんのまま、何も確定しないまま、自己と外界とのあわいを、静かに歩んでいる。

「それに、誰も留まらない場所にも、一人くらいはずっと住み続ける人が必要だよ。誰かが迷い込んだときに、案内する人がいなくちゃ困っちゃうよ」

 物語は春を迎え、すべてを覆い隠す雪が溶けたあと、校門から出てゆく少女たちを見送って幕を閉じる。”彼”の物語は、かの二作のEnd2の延長線上にこの『犬憑きさん』を置いた。
 白日がすべてを晒す、桜散る春の日に、「暗い部屋」は未だ扉を閉ざしてそこに残っている*7

*1:SWAN SONG』End2を参照。と書いて分かる人には、書かなくても分かりそうですね……。

*2:少し話を先取りするのなら、「不確定」が約束されているせいで、されているからこそ、私たちは一時の仮初の「安心」を得るために「コミュニケート」を試み続けるしかない、とも云える。

*3:『キラ☆キラ』きらりルートEnd2参照。……これも、書いて分か(ry

*4:悪く云うつもりは皆無なので、対話が成立しなくてもエヴァみたいに追い込まれないゆるめの世界観、位にとって下さい。

*5:先の引用はその場面。

*6:ヤマヒコが何故、殺人を止める前にこの一件に深入りしたのか。彼は呪いによって「外界」に思う存分復讐を遂げたが、「飽きた」ように、同じく呪いを持つ「対等」な御門や真琴や歩と、「コミュニケート」する欲望を捨て切れなかった。呪いに慣れきった彼は、「外界」との「コミュニケート」を同じく呪い持つ者にしか感じられなくなっていた。歪み切った末に、孤独の袋小路にいた。

*7:彼がこの物語に「少女たち」を使ったのに、何とも時代性があるようなないような。本作をして明るくなった、と云う人もいるけれど、御門といいヤマヒコといい、「女」で「子供」の「少女たち」にEnd2的な幸福を仮託して、実際は「乖離」が進みまくっているように思えてゾッとするよ! ということが言いたかった……。ぼくは『CARNIVAL 小説版』が荒削りながらも一番健全な気がします。

『戒厳聖都』 ニトロプラス(監督・シナリオ 奈良原一鉄) : 剣鬼

 全ては、但し書きつきの”死者の夢”ではあるが。

BLADE ARTS 刃鳴散らす Original Soundtrack

BLADE ARTS 刃鳴散らす Original Soundtrack

 いきなり私見で申し訳ないのだが、ぼくはゲームメディアにおける「ゲーム性」の必要性について、若干、懐疑的である。それはゲーム性などいらないと無碍に全否定しているのではなく、TV・PC問わず、「ストーリーはゲームの楽しみを増大させるサブだ」という場合と「ゲーム性がストーリーの楽しみを増大させるサブだ」という場合の両方があり、そのどちらもが成立しうる*1と考えるからだ。
 そして、本作と関わるので少しだけこちら側に寄せて話をするが、ゲームを一つのストーリーメディアとして捉えるとき、ゲーム性でストーリーを演出することが、そうしたメディアの発揮できる強みの一つとなるだろう。
 その意味で、本作『戒厳聖都』は面白いことをやった。


 前作『刃鳴散らす』のファンディスクにして亜流続編の本作。全ては、武田赤音と伊烏義阿の殺し合いを突如復活した石馬戒厳に奪われてしまうところから始まる。東京中の均衡を崩壊させて果たしたはずの二人の戦いは、終える直前になって「伊烏義阿の肉体を、石馬戒厳が”帝”を再臨させるための器として奪う*2」ことによって簒奪される。
 黄泉より舞い戻った戒厳は伊烏の肉体に”帝”を封じて祭り上げ、彼の人を君と据えた不死者の”不士”による、東京を死都(首都)とする帝国を造り上げる。そんな中、記憶を失った一人の青年が、東京に立ち寄った藤原一輪と再会して”ゲーム”はスタートする。ボロボロの刀を携えた青年を、不死者として蘇った街の人々は”武田赤音”と呼ぶ――。
 ゲームはマップ移動型の戦闘RPGとして進行し、二人称でプレイヤーごと呼ばれる「あなた」が、東京タワーの頂上にいる惹かれて已まない「誰か」と決着を付けるべく、入口の鍵を持つ四天王*3を始末して回るものだ。
 四天王は各人各様、生前の妄執を肥大させた人格をしており、あまりストーリーとして語られる分量は多くないが、それでもしっかりと、それぞれの想いを果たすようにして斬られ散ってゆく。桂葉恭子は相変わらずの凡庸な敵として相対し斬り伏せられるが、彼女の望みであった”可愛い子”に看取られて逝き、八坂竜騎は決して倒せない敵として立ちふさがって、かつて守りきれなかった主の遺髪を受け取ることによって昇天する。”姉”は「あなた」に復讐するべく何度も執拗に戦い続け、”彼”との思い出の剣技によって散り、”赦される”。

 ひび割れた遮光器が外れ、滑り落ちる。
 その下にあったのは――澄んだ、人間の双瞳だった。
「わたくしを止めてくださるのですか。
 わたくしに終わりをくださるのですか。
 もう苦しまなくても良いと仰るのですか。
 何もかも、わたくしのせいだったのに。
 なにもかも、わたくしが悪かったのに。
 わたくしに、赦しを与えてくださるのですか?
 そのような、虫の良いことを信じてよろしいのですか……
 こんな、優しい最後を……わたくしに」

 全ては、但し書きつきの”死者の夢”ではあるが。
 かつて生きた人間であったときは、それぞれに無念を抱えたまま赤音に殺された各人が、”不死者”になることで、その無念を晴らすことを許され、昇華して散っていく。生きた人間のままでは”剣鬼”に飲み込まれてしまうそれぞれの想いを、死者の夢であるという一点を付すことで果たす。前作『刃鳴散らす』において”人間を全うしてみせた”弓だけが登場しないのも道理である。


 さて、ここまでいくつか奇妙な書き方をした。既プレイの方はネタが割れてしまっているのだけれど、「あなた」とは武田赤音その人なのだろうか。本作の「ゲームシステムを利用した面白いところ」とはここである。四天王との戦いの後に待つ、石馬戒厳との決着のシーンにおいて、「あなた」は。彼は。

 指呼の間合に至り、戒厳は加速した。
 有り得ぬ速さ。悪魔の迅雷。
 只人の枠に縛られる君を、魔人は遂に凌駕する。
 閃光が君の胸を指す。
 風すら越えて光の速度で君の死を告げる、その切先を迎えて、君は――

 飛翔した。
「――――!!??」
 そう。
 これが君の魔剣。
 長い探求の果てに君がつかんだ剣。
 君だけの技。
 この世で君だけが使うことを許された、
 君、ただひとりの魔剣――――


 魔剣 昼ノ月

 伊烏義阿、その人である。
 設定上は、帝の器となって放擲された伊烏の魂が、赤音が不死者として蘇った際にその身体に宿ったというものだが何にせよ無茶設定なのでそこはいい。重要なのは、その意図するであろうところだ。
 RPGにおける、ゲームシステムがストーリーに対して果たせる機能の一つに、「主人公との一体感」が挙げられる。ありていに言って、主人公が弱いときはザコにも苦戦し、強くなってからは特技のエフェクトが派手になる・数値がインフレを起こすなどの同期を計ることによって、プレイヤーと操作キャラの一体感を強める演出などがこれに含まれる。
 本作はこれを逆手に取る。そうした基礎的な演出によって一体感を高め、いざ、戒厳を越えて伊烏義阿ともう一度決着を付けるのだ、という段になってこれをひっくり返す。効果的である。浮かび上がる構図は、武田赤音が伊烏義阿を前にし、記憶を取り戻して今度こそ終決→伊烏義阿が伊烏義阿と戦う? となってプレイヤーの作中におけるアイデンティティは揺らがされ、さらにもう一段先へと進む、準備段階を終える。
 戒厳を退けて伊烏は伊烏と戦うのか? 物語はそうは進まない。今度は”帝”の存在様式が明かされ、そこに”武田赤音”が宿るのだ。ここに、前作『刃鳴散らす』において語られ祀られてはいても明かされることのなかった”帝”もまた補完される。帝は自身を語る、自分もまた人でありながら人間を越えて「象徴」に成ることを果たした「現象」なのだと。彼は人にして国でありまた街でありまた臣民の人々であり*4、だからそこには”武田赤音”もまた含まれるのだと。こうして街中に散らばった武田赤音その人の記録と記憶とを習合し、帝はまた臣民の一人でもある伊烏義阿の願いに応えて”武田赤音”となる。
 全ては、但し書きつきの”死者の夢”ではあるが。
 そんな”二人”が雌雄を決する前に、その場にはもう一人の「現象」がいる。石馬戒厳だ。彼女もまた帝に全てを捧げる現象であると同時に、武田赤音に何かを感じて已まない人間であることは前作のミニゲーム『戒厳の野望』において明かされていた。そんな彼女が「帝から身体を奪って顕現した武田赤音」に対して斬りかかるのは自明の理だ。赤音に組み伏されて彼女が悟るものもまた、そんな「現象」としての自身の在りようだろう。

「陛下が……御自身の中に、君を呼んだのか……!」

「……これが……っ。
 これが……陛下。貴方の導かれたことならば」
 それまでどこか茫然と、虐行を受け止めていた戒厳の相貌に
 少しずつ――次第に大きく。
 それは石馬戒厳と最も縁遠い、縁遠いはずだったもの。
「この戒厳のすべても、貴方は御認めになると仰せか!
 汚らわしきわたしも!
 ……ならば、
 ならば、何を迷いましょう!!」


「わたしは、お前の存在を認めない!
 わたしと違うわたしなど認めない!
 お前を消す! わたしの中に、喰らって消す……!」

 それは相異なる現象と現象との、絶対の決裂、そして、永遠の闘争。帝を信奉し全てを捧げるのならば、石馬戒厳は帝の為した全てを受け入れ、一体化するのか。そうではない、それは人間の思考であり、石馬戒厳は始めから人間などではない。だから石馬戒厳は自身を全うすべく、武田赤音と文字通り喰らい合う。それは石馬戒厳の本然を全うすると同時に、伊烏義阿と武田赤音のそれを体現する行為でもある。どちらかが果てるまで、自分だけが全てを喰らい、自身がそこにそうして在ることを、存在としてのレベルで肯定し昇華するまで。現象に純化された、人間の向こう側にいる彼らは、絶対的に、殺し合い喰い合うしか無い。

 ――おれの方がお前より強い。
 おれはお前より単純だからな。
 おまけに低能ときたもんだ。
 どうしたって、おれの方が純度は高くなるさ。

 武田赤音は石馬戒厳を”喰らい”、けれど決してそれに満足などしない。彼にとって帝や日本人の本然を論じたイシマ思想など心底どうでもいい些事であり、彼の本然は伊烏義阿との刀による喰い合いに他ならないからだ。
伊烏義阿は食事を終えた武田赤音と向き直り、ようやくその時を迎える。武田赤音の身体に宿った伊烏義阿、伊烏義阿の身体に宿った武田赤音、どちらもがどちらもであり、またどちらもが、決して同じもう片方では在り得ない。そしてその両方でもありどちらでもなく限りなく交換可能でありまた不可能でもある構図に組み込まれたプレイヤーである「あなた」。全ては完成され、後に残るのは相喰らい合う斬り合いの時間だけ。

 君は駆け出す
 彼は待ち受ける。
 接触はほんの、刹那の未来。
 戦うべし。
 伊烏義阿。君の結末はここにある。

 話がここに至れば全ては全くの蛇足に過ぎないのだが、生き残った勝利者の扱いにおいても本作は『刃鳴散らす』の向こう側を見せてくれた。前作において生き残った者の死は、たとえ他の誰にも汚されることのない「自刃」であったとしても、当の武田赤音が、役目を果たしたはずの刀をもう一度自分に対して振るうことで、幾ばくかその純度を減じていた。
 本作は伊烏が伊烏義阿の肉体を殺害せしめるという点において重ねられているのだが、その向かう先で、己の本分を果たすための行為となっている。

「満足、したのか」


「不満たらたらなんだろうが。
 そりゃそうさ。
 結局のところ、おれは紛い物のおれだからな。
 真性のおれじゃない」

 伊烏義阿は、かつて武田赤音がそうであったように、宿願を果たして死ぬ。けれどその在りようは、生きた頃と全く同じベクトルを持っていて。伊烏義阿は、武田赤音と斬り合って勝った後、"本物の武田赤音"と斬り合うために逝く。今度の死は、その純度を決して損なわず、それをさらに全うするためのものなのだ。

 君は剣鬼。
 人にして人ならず、その身は一刀。
 求めるは至極の練磨。
 討つべきは己を凌ぐ者。


 故に。
 君は立ち止まってはならない。
 常に、一歩ずつでも、先へ進まなくては。
 向かうのは何処でもいい。後ろでさえなければ。前でさえあれば。


 それが君という刀に描かれた刃紋。
 なればこそ君の魔剣は有る。
 月は太陽を追い、天空を駆け続けるもの。
 決して止まらず。いつか、追いつく時を目指して*5

*1:「エロ不要」「批評不要」含め、自分にいらないものを勝手に客観化しようとしているようにしか感じられない。勿論、ある論脈を立てた上で「この文脈において」と語るなら有りだと思う。

*2:しかしメチャクチャである。片っ端から(笑)と付けたくなって仕方がない。いいぞ、もっとやれ。

*3:ここも笑うところである。四天王って……。しかもデュラハンなんて名前で自分の首を抱えた”姉”の彼女がいる。

*4:おっかないので一応付記、ぼく自身の天皇制への考えとは一切関係ありません。あくまで作品の話。

*5:ここでは引用を控えたが、スタッフロール後、戒厳が自省するシーンに続く。そこで語られる内容もまた、ここに引いた文と全く意図を同じくするものであることを付記しておく。