とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

献灯使

 表題の中編「献灯使」と短編が4編。短編の方が先に発表されているが、本書掲載は「献灯使」が先。それで、老人がいつまでも死なず、ひ弱い子供たちを育てている状況の意味がわからなかった。短編で描かれるのは、福島原発事故後、さらに原発事故を重ねた後の日本の姿。そこでは子供たちはひ弱く生まれ、不死となった老人が子供たちを育てている。日本は鎖国され、東京には何もなく、政府すら機能しているようにはみえない。
 「献灯使」は日本から他国へ救いを求める使いだろうか? だが、その任務を果たすには子供たちはあまりにひ弱い。こうして老若を逆転すると見えてくることがある。大人って何? 若さって何? 家族って何?
 最後の短編「動物たちのバベル」は、人類が絶滅した後の地球で生きる動物たちの会話を戯作風に書いている。人間って何をやってるんだ。ボスがいるから滅びた。だったら・・・

●「ボスではなく翻訳者を選んでみたらどう? 自分の利益を忘れ、みんなの考えを集め、その際生まれる不調和を一つの曲に作曲し、注釈をつけ、赤い糸を捜し、共通する願いに名前を与える翻訳者。」(P257)

 原発事故後の日本はドイツから、世界からどのように見られているのだろう? 本書を読むと、まともな社会・国とは見られていないような気がする。ドイツ在住の筆者からの日本人に送る手紙かもしれない。

献灯使

献灯使

●子孫に財産や知恵を与えてやろうなどというのは自分の傲慢にすぎなかったと義郎は思う。今できることは、曾孫といっしょに生きることだけだった。そのためにはしなやかな頭と身体が必要だ。これまで百年以上の正しいと信じてきたことをも疑えるような勇気を持たなければいけない。誇りなんてジャケットのように軽く脱ぎ捨てて、薄着にならなければいけない。(P52)
●無名は今、衣服と呼ばれる妖怪たちと格闘している。布地は意地悪ではないけれど、簡単にこちらの思うようにはならず、もんだり伸ばしたり折ったりして苦労しているうちに、脳味噌の中で橙色と青色と銀色の紙がきらきら光り始める。寝間着を脱ごうと思うのだけれど、脚が二本あってどちらから脱ごうかどうしようか考えているうちに、蛸のことを思い出す。もしかしたら自分の脚も八本あって、それが四本ずつ束ねて縛られているから二本に見えるのかもしれない。だから右に動かそうとすると同時に左とか上とかにも動かしたくなる。蛸は身体に入り込んでしまっている。(P112)
●あらゆる風習がでんぐり返しを繰り返すようになって、大人が「こうすれば正しい」と確信をもって教えてやれることがずんずん減っていった。自信に満ちた人は子供に信用されない。むしろ自信がないことを隠さない方が耳を傾けてもらえる。・・・自分に教えられるのは言葉の農業だけだ。子供たちが言葉を耕し、言葉を拾い、言葉を刈り取り、言葉を食べて、肥ってくれることを願っている。(P140)
●若いという形容詞に若さがあった時代は終わり、若いと言えば、立てない、歩けない、眼が見えない、ものが食べられない、しゃべれない、という意味になってしまった。「永遠の青春」がこれほどつらいものだとは前世紀までは誰も予想していなかった。(P197)
●リス:家族という単語は熱いお湯で洗濯しすぎて縮んじゃった。/イヌ:さっきからボスの命令を待っているんだけれど、何もきこえてこない。ボスに能力が不足しているのかもしれない。/リス:ボスじゃなくて翻訳者。/クマ:翻訳者は急ぐ必要なんかない。時間は言葉と同じくらいたくさんある。(P259)