まず、録音技術ありき


晴れ、のち曇り。夏日。
朝からずっと目のかすみが取れない。
夏のジョグを前にして、コンタクト・レンズを買って試しにはめていたのが災いしているようだ。それにしても、酸素透過性がこの十年くらいでずいぶん良くなったので日常でも使いたいが……。コンタクトをはめると、老眼鏡をかけて文字を読むことになる。なにがばかばかしいといって、そんなおばかなこともない。
「小澤征爾さんと、音楽について話をする」より抜粋――


村上「最近のアバドのマーラー演奏を聴いていても、たしかにさっき小澤さんがおっしゃったようなマーラーの捉え方と同質のものを感じます。スコアをものすごく緻密に読み込んでいるという印象があります。スコア自体をどんどん深く追求していけば、そこにマーラーが自然に立ち上がってくるんだ、みたいな確信が出てきたんじゃないかと。ドゥダメルなんかの演奏にもそういうものを感じました。もちろん感情移入みたいなのも大切だけど、それはあくまで結果的に出てくるものだ、みたいな」
小澤「そうかもしれない」
村上「でも六〇年代のマーラー演奏、たとえばクーベリックなんかの演奏を聴くと、折衷的というのかな、まだロマン派的な土壌に軸足が残っているという感じはいくぶんありますよね」
小澤「そうですね、演奏している側にもそういう思いはあったかもしれない。でも今のプレーヤーはね、変わってきています。僕はそう思います。メンタリティーがね、たしかに変わってきています。全体の中での自分の役割の認識みたいなのが変わってきている。それから録音技術も変わりました。昔はね、全体の音を録る、みたいな傾向が強かったんです。余韻とかが大事で、細部よりは、全体を捉えようとしていました。六〇年代、七〇年代はそういう録音が多かったです」
村上「ディジタル化して、そういう傾向が変化してきた。マーラーって、楽器のそれぞれの音がしっかり聞こえてこないと、聴いていて面白くないですね」
小澤「まったくそのとおりです。そういうところはあるかもしれないね。ディジタルになって、細部が明瞭に聞き取れるようになって、それによって演奏も少しずつ変化してきたかもしれない。昔はね、残響が何秒だとか、そういうことがすごく大事に思われていたんだけれど、今はそんなこと誰も言わないです。細かいところがきちんと聞こえないと、みんな納得しません」
村上「バーンスタインの六〇年代の演奏も、録音技術のせいも大きいんだろうけど、今聴くと細部まではなかなか聴き取れませんね。やはりマスとして鳴っているという印象が強い。だからレコードで聴いていると、細部の詰めよりは、感情的なファクターがより強調される傾向があります」


クラウディオ・アバドがルツェルン祝祭管弦楽団を振ったマーラーの一番から七番のBlu-rayボックスが円高もあって申し訳ないくらいの値段で手に入る。それもこれも、デジタルがもたらしたコピー製造の圧倒的な低減化が前提となっている。さらに、二人の話にあるデジタルの細部表現がもたらした演奏スタイルの変化について、僕はとても重大なことがすんなり語られすぎていると思う。
まず最初にプレーヤーのメンタリティーありき、という文脈として語られているけれど、ひょっとしたら録音技術の進歩が先にあってのことなのかもしれない。どちらが先でも大して違わないと思うのは乱暴だと思う。技術的なアドバンテージはもちろんデジタルによってもたらされたわけで、それが演奏のスタイルや、強いてはプレーヤーのメンタリティーまで変えていったのだと順番をはっきりさせてみると、その間の録音芸術がクラシックに及ぼした影響の重大性に震撼する。
もっとも、そんなことはレコード芸術的世界ではもう当たり前の認識になっているんだろうけれど。
要するに、こういうことなのだと思う。歴史的という視点の場合、それはまさに変遷でしかないわけで、それは物事の順番を確定させることだと断言してかまわないと思う。