語っている場合ではない

晴れのち曇り。暖かい。
六時過ぎに起きてラジオ体操。
女房は遅くに起きた。
朝餉は、唐揚げ、蜂蜜入りヨーグルト、レタスとキャベツのサラダ、林檎、残りの味噌汁、トースト、アールグレイ。
食堂でキーを叩く。
女房は友だちと会ってのち、義母のところへ。夜に戻る。義母は大人しかったと。微熱がなかなか取れない。
昼餉は抜いて、NHKの将棋と囲碁のトーナメント。佐藤天彦名人の序盤からの攻め筋、一力遼七段の右辺割り込みからの攻め。どちらも素早い読みと、行けるという直感に素直なところは、若さをヒリヒリ感じる。
ある日を境にじょじょに下っていくのだから、若いうちにできうるかぎり高く昇って、俯瞰を満喫しておくべきだ。それが、その後の人生を支えるよすがにもなる。それを期待して生きるわけではないが、結果として、ある日それに気づくことになる。気づかないまま生き抜けたら、と思うことばかりだが、なぜか知恵があとから追いかけてきて、追い抜いていくのだ。
僕らは早晩、知恵に搦め捕られる。それがさも良いことのような顔をして近寄ってきたとき、僕らは若さを失うのだと思う。
午後、六キロをジョグ。
夕餉は、白菜、大根、長葱、水餃子の常夜鍋。清酒をすこし。食後に抹茶ウイロウ。
知恵でがんじがらめとなり、一歩も進めない代わりに、里程標のような役回りを任されて相談に乗る。満更でもないなどと勘違いして、ある日、さらに気づくのだ。それこそ、厄介払いの最たるものなのだと。
若い頃は若いなりに慮る。老人がいれば、彼を引き出してやろうと向こう見ずに動こうとする。若さに特有の計算高さもあるのだ。
近づく若者あり、即座に斬って捨てよ。