カザルスのこと

雨、降ったり止んだり。9度。
7時に起きる。
朝餉は、キャベツとコーン、玉ねぎ、ツナのサラダ、目玉焼きとハム、みそ汁(人参、ジャガイモ、豆腐、揚げ、えのき)、トースト。食後にハーブティ。
女房が東京へ。友人の舞台やクワイヤの稽古。戻りは木曜あたりだ。
昼餉は抜き。
パブロ・カザルスの朴訥さは録音によるところもあるだろう。ちょっと意地悪かもしれないが、他のプレイヤーだってダイナミックレンジの狭い録音ならと思わないでもない。デッドなぶん温かみがあり、弦のそばに設置したマイクの指向性があやふやだ。そういう音質と音場が合わさって、えも言われぬ作品になっている。
カザルスのボーイングもある。抑揚を抑えて、音の粒だちに品性がある。J・S・バッハの無伴奏チェロ組曲で言えば3番のアルマンドとかサラバンドに僕は強く感じる。
弛緩していない弦が震えとして伝わってくる。フレットレスの弦楽器は弛緩と張力のコントロールによって鳴りを作る。奏者はそのバランスの多くをボーイングに依っているわけで、チェロの朴訥さならカザルスだと僕が強く思うのは、粒だちを生み出す彼のボーイングに作為を感じないからだろう。
作為を感じない演奏なんてどこか嘘っぽい。が、カザルスほど作為から遠い奏者はいない。
夕餉は、ベーコンと野菜のポン酢炒め、ご飯、白湯。
詰まるところ、カザルスがいなければチェロはずいぶん違った楽器になっていただろうと言われる。バッハの無伴奏をここまで精神性と結びつけ、すべてのチェロ奏者への贈り物とした。ヨー・ヨー・マが3度も録音するのは、折々の精神性を自らに問う行為だと誰もがわかっている。誰も言わないが、誰もがわかっている。その背景にカザルスを感じない人はいない。
余談だが、神尾真由子さんが2007年のチャイコフスキー国際コンクールで優勝した時、その音の粒だちは一頭地を抜いていた。楽器は違っても、僕が真っ先に感じたのはカザルスのボーイングだった。