2008-12-01
『食いしん坊』の帯
十八世紀の中頃から、多くの和本は筒状の袋に収められるようになった。その表面には著者名などの書誌情報が刷り込まれており、袋が残っていないと和本の資料価値も下がってしまう。今も、本の装丁におけるカバーの役割は大きく、帯にある文章は発刊当時の空気を刻んでいる場合が多い。ところで、図書館が本のカバーや帯を廃棄してしまうのは、いかがなものであろうか。これからは、個人によって大切に保管されている古本の資料価値はもっと高まっていくかもしれない。
先日入手した小島政二郎の『食いしん坊』と『第二食いしん坊』には帯がついていた。帯に刻まれた文章は、いわば短文からなる広告であり、当時の雰囲気や、本文の良さ、著者の特徴を存分に伝えてくれる。
『食いしん坊』の帯・河盛好蔵
私は食いしん坊で、食べものについて文句の多い方だが、世間の食通と呼ばれている人間は大きらいで、また信用もしていない。本書の著者についても、その味覚を尊敬しているわけでは毛頭ない。しかしこの本は大へん面白い。それは、こんなに食べるものに執着をもち、またそのことをこれほど情熱をこめて書いている人は珍しいからである。本書の著者が、どこそこの鰻について語り、どこそこの羊羹について語るときには、身も心もうちこんで、それがいかにおいしいかということを綿々と述べている。まるで惚れた女の話をしているようである。また著者は食べものに託して、それにまつわるさまざまの思い出を語つている。それがまた面白い。食べものによる自伝といつた趣きがある。女と食べものの話は誰もが好んできく話である。本書は健康な食欲を誘うアペリチフでもあれば、食べものについて楽しい空想を浮ばせてくれる大人の童話でもある。
『第2 食いしん坊』の帯・宇野浩二
小島政二郎の『食いしん坊』が出はじめてからは、第一回を読んだのが病みつきで、私は、その時から、「あまカラ」がつくと、まづ『食いしん坊』を読み、これからは、『食いしん坊』だけを貪り読むようになった。
『食いしん坊』とは、もとより、「食い意地の張りたる者」といふ程の意味であるから、この本は、そのとほり、著者が、殆んど日本全国の「これは旨い」と思った食べ物を、舌なめずりして、情熱をもって、心ゆくばかり、書いてゐるところに、魅力がある。それから、この本の特徴は、著者が食べ物について述べながら、それに事よせて、小説とも自伝とも交遊録とも随筆とも付かぬ、それらの物を皆あはせたやうな物語を書いてゐる事である。
ところが、私が「あまカラ」連載中の『食いしん坊』を貪るやうに読んだのは、それらのこと以上に、小島の文章のためである。それは、小島の文字の仮名づかいの正しさであり、その正しい文字と仮名づかいひで綴られた文章である。私は、平凡のやうに見えるが、この『食いしん坊』の文章は、大形にいへば、今日の日本の文章の一つの手本である、と思ってゐる。