2008-02-12
僕のいたみを見届けて下さい
昨日書いた承認欲求の根っことTwitterだけど、この話の始まりは「何故Web上にいたみを書きつづるのか、それに対してどうしたらいいのか」という疑問がスタートだった。そこらへんが完全にすっぽ抜けてた。失念失念。
タイトルを「僕のいたみを見届けて下さい」とした。
ここで「いたみ」と表現したものは、あらゆるネガティブ寄りな表現……現状が辛い、何もうまくいかない、先が見えない、自分はダメだ、いっそのこと死んでしまいたい、ときには「もう死のう」というところまで凝縮された表現たちのこと。 *1
Web上で、いたみを書きつづっている人の一部 *2 は、いたみを感じている己の現状、それを書きつづってしまう己の心性、己の弱点、様々なものを抱え、それを表現し、Webにさらけ出すことで、誰かが彼を見守り、見届ける、そういう受容的な視線が存在することを、確認しようとしているのではないかと思う。
昨日書いた内容とも少し関連するのだけど。いたみを訴える己を見守り、見届ける視線は、そのままの己が、そこに存在することを許容してくれる誰かの意志の表明として解釈できるのではないかと思う。いたみを訴える人たちは、いたみを触媒にして、己の存在を、この世界と繋ごうとしているように見える。
そういう意味で、いたみを表現できる人たちは、強いと感じる。
もふもふオフで、このあたりの話をちょこっとしてて、承認欲求とも絡むかも、と言った。一般的に言われる承認欲求とは違うかもしれない。私は、「そこにいていいんだよ」「あなたがいたみを感じているのを見ているよ」という態度を他者に求めているという意味で、その言葉を使った。 *3
こういう人たち *4 に対して、私ができることは、いたみを感じているその人を見守り、来し方行く末を見届けることだけだと思っている。見守っている他人がいるということを、なんらかの形で表明し続けることだと思っている。
また、いたみを表現する人たちにとって、分かりやすい形で見守る意志が表明されなかったとしても、彼らのことを無言の他者が見守り、見届けようとしている。彼らが無言の他者の存在に気づいたとき、世界と繋がる感覚を得るのではないかと思っている。
世界への信頼がほとんどない場合、何度も酷く不安になって、世界との繋がりが頑丈であることを暴力的な手段で確認しようとして、反発を喰らって傷ついて、ますます世界を信頼できなくなる悪循環に陥る場合もある。石橋を叩いて叩いて、それでも安心できなくて、最終的には叩き壊してしまうような心性。
そういう場合でも、近くにいる誰かが、その人を大事に思っている誰かが、見守り、場合によっては諭しつつ、見届けていくしかないと思っているけど。果たして私には、己に攻撃的な振る舞いをする他者に、そこまでの愛情をかけられるだけの懐の深さがあるのだろうか、と考える。
そして、己が親になることを想像してため息をつく。
*1:ネガティブ寄りな表現だけに限定して文章を組み立てたが、書き終わってみるとポジティブ寄りな表現に関しても全く同じ欲求が働いているような気がしてきた。結局「僕の来し方行く末を見届けて下さい」だと思った。
*2:あえて一部と書いたのは、特に自殺を示唆する表現の場合、本当に死んでしまうケースがあるからだ。Webで文章を見ているだけでは、そうならない人と区別することはほとんど不可能だと断言してもいい。一瞬、気配というか違和感を覚えるときはある。だけど、それは実行したことを知った後に回顧的な形で認識することしかできない。Web上ではなく、現実に関わった人であっても、ことが起こるまで分からない。少なくとも私は分からなかった。
*3:所属欲求っぽいような気もするがよく分からない。抽象的な言葉、身体感覚から離れた言葉を使うのは得意ではないので申し訳ない。私は己の身体感覚を介してしか話すことができない。
*4:というか、私もこういう人たちに含まれるんだけどw


