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頭に毬藻る

2010-02-08

思考が暴走しかけたら、ヨガ。

最近「死」が頭にこびりついて離れないということがあって。ずっとそいつと対面してると辛くなるし、かといって考えないようにしようと思っても、そう思えば思うほどそいつのことが気になってしかたなくなって考え込んでしまうというどうしようもない状態に陥った。立春も過ぎたからそろそろそういう時期が近いということなのだろう(参考:春は頭がおかしくなる季節です

で、ヨガである。

本格的に先生についてやったわけじゃないので、細かい理屈とかは全然知らないんだけど、ヨガのポーズは考えの暴走を止める。ポーズが複雑で、キープするのが難しければ難しいほどいい。そのポーズをキープするために体の様々な部分、時には指先一本一本にまで集中せねばならない。腹式呼吸をキープしながら、心拍をゆっくり数える。

家で一人で行うような初心者向けの本であっても、掲載されているポーズを長時間キープしようとするとかなりの集中力が必要になる。集中しすぎて力が入りすぎるとやっぱりポーズが崩れるから、ある程度は弛緩しながら集中するような、そんな状態を作り上げる。たったあれだけの動作の中で、やることはすごく多い。

そのうち静かになって、頭の中のざわざわが消える。とりあえず、思考の暴走で頭がいっぱいで辛いという状態からは抜けられる。逆に自分の外側に満ちている音、車の音とか誰かの生活音なんかはすごくクリアに入ってくる。その状態でしばらくいる。

要は、身体の方に集中を向けるから、相対的に考えの方があまり気にならなくなるという、それだけのことなのだけど、この方法を覚えてからずいぶんと楽になった。

同じことを静的にやろうとすると、瞑想とか座禅とか自律訓練法とかにいくのだと思う。ただし、静止に集中するのは、頭の中がうるさいときは難しい。一方で、動作に集中するのは比較的楽だ。慣れない動作を能動的に行うときは、頭の中でも「手をこうして足をこうして…」とある程度言語にするから、うるさくなってる思考と拮抗するように思う。

身体に集中するための動作は必ずしもヨガである必要はなく、私は大学時代に合気道を少しやっていたけど、稽古の前に必ず行う「禊ぎ」の一連の動きでも同じ状態には持っていけると思う。今になって思えば、「禊ぎ」の後の意識の状態によって、その後の稽古にすごく影響が出ていた。

「忘れる」

思考が暴走して自分では止められなくなるという状態を、夫の人は「よく分からない」と言う。「論理的に考えれば、30歳で特に身体に重大な病気を抱えていない人が、一瞬後とか、明日の朝にもう目を開けないなんていうことは、可能性としては低いはず」と言う。

論理的に考えれば夫の人の言うことが正しいと分かっているんだけど、それでも思考が暴走して止まらなくなるから困っているのである。論理的思考の部分は納得しても、感情の部分が納得しないと表現すればよいのだろうか。全部論理的に考えて片づけば、無駄に不安に襲われることもないだろうし、疑心暗鬼になったりもしないだろう。

夫の人曰く「嫌なことがあったら、ストレス解消と称してゲームやったりテレビ見たりしてるうちに忘れてる」「ずっと考えてると疲れてしまってそれ以上考えられなくなる」らしい。たとえばすごく腹の立つことがあって怒っていたとしても、怒ってるのに疲れてしまって、怒るのを放棄して、一晩眠ったら怒っていたこと自体、けろっと忘れているらしい。

夫の人は私のことを「変や。絶対に変」などと言うが、私から見れば夫の人の方がよっぽど変である。奇人変人大賞を謹呈したいくらいである。と言いつつも、正直、私は夫の人が羨ましい。

私の場合はストレス解消と称してゲームやったりテレビを見たりしても、せいぜい「止まらない思考5割+テレビやゲーム5割」くらいまでしか持っていけない。暴走した思考はバックグラウンドでずっと蠢いてる。で、ストレス解消を止めた瞬間にぶわっと膨れあがって襲いかかってくることもある。

ヨガはゲームやテレビよりは効果があるにしても、思考の暴走が辛くて仕方がないというところから脱却できるだけで、その思考が消滅することはない。思考の断片は残っていて、頭の片隅に影を落とす。

「忘れる」という機能は人間にとって救いであると思う。

ずっとこうやって誤魔化し誤魔化し生きていけば、そのうち慣れて怖くなくなるだろうか。それだけのことに望みを託している。

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