2010-02-25
孤独感・劣等感の増幅装置としての Twitter
昨日、NHK教育の「視点・論点」という10分番組で、「Twitter と孤独」というテーマが取り上げられた。話の内容は、社会――会社、学校、地域、家庭など――の中で人間関係が流動化、希薄化することで、ささやかな言葉を気軽に交わせる場や人間関係が失われており、そんな中でTwitter がこれほどの速度で浸透したのは、多くの人が気軽につぶやける相手を求めているのではないか、というものだった。 *1
社会の中で人間関係が希薄になっているというのは頷ける。そして、それでも気軽に言葉を交わせる相手が欲しいと思うのも自然なことだと思う。しかし、Twitter がこれほどの速度で浸透したのは、商売に使えると思った人たちがメディアを使って煽ったから知名度が上がり、知名度が上がったから浸透したのではないかと思ってる。ひねくれた見方かもしれないけど。
希薄になった人間関係を Twitter で補うことができるかと考えてみると、以前はそういう面が強くあったと思うけど、最近はそうでもないように思う。全くなくなったとは言わないし、Twitter がなかったら成立しなかっただろうコミュニケーションは確かにあるけど、同時に孤独や劣等感の増幅装置としても働いていると思う。
以下、2009年夏頃からもやもやと考えていたことをこれを機に出してみることにする。全然まとまっていない上に、すっごい長文です。
2009年の夏頃から、新書や雑誌、新聞などのメディアで Twitter がさかんに取り上げられるようになった。そこでは、Twitter が簡単に新たな人との繋がりを構築できるツールとして扱われていた。ただ、書き手のほとんどが社会的にある程度の地位と知名度を獲得している人だということで、それらは、私たちのような一般人が体験し、見た Twitter 像とは違う部分もあると思う。
彼らと一般人の最も大きな違いは、Twitter 以外に自分の情報を発信するメディアを持っているか否かであり、また、名前や肩書きと紐づけられた個人として認識されやすいか否かだ。
出版ラッシュの後でたくさんの人が Twitter に入ってきたようだが、「Follow/Follower数は多い方がよい」という価値観があるように思う。#followmeJP というハッシュタグがあって、そこに現れる書き込みはつまりは「follower さん募集」「私はここにいるから私を見て」という意思表示とも解釈できる。また、#sogofollow というハッシュタグもあり、これは相互 follow、つまり「あなたが私を見るなら、私もあなたを見る用意はある」という意思表示とも解釈できる。そして、これらのタグに現れる tweet の流速はとても大きい。一度検索して数分放置するとすぐに10とか20とか、特に流速の激しいときには100を超える tweet が現れる。そういうのを見ていると、みんな、なんだかんだで淋しがりなんだなと思う。
これは以前に書いてたりする。
ちょっと昔を振り返ると
「人嫌いの淋しんぼう」を書いた2007年6月時点では、Twitter は人嫌い――正確には人とコミュニケーションするのにイマイチ自信が持てない、と言った方がいい――だけど、そこに人がいないと淋しさを感じるという人たちにとって、一種癒しの場としてはたらくことが可能だったと思う。なので、その後、こういうこと↓を書いたりもしている。
最初にTwitterの例を挙げたけれど、あそこはなんとなくそこにいていいという空気がある。そういう空気のある場所を、自分で構築していく感じかな。
(中略)
誰からも@メッセージがなかったとしても、無言の誰かが、そこに人がいることを見てくれている。そういう、いい空気のある空間を、最初の居場所にする。
この時点 (2008年2月) では、少なくとも私が見た範囲では、2007年頃にあった相互フォロー文化(字のごとく、follow されたら follow し返すという暗黙の了解みたいなもの)がまだ残っていた。Twitter 人口がまだまだ少なかったから、follow される分は全部 follow 返しても、個人として認識することがが可能だったのだと思う。だから、誰かを follow することで相手に「私はここにいますよ」を無言のうちに伝えることができたし、相手が follow しかえすことで「あなたがそこにいることを認識しましたよ」を無言のうちに伝えることができた。そういう前提があったから、私は Twitter は一種の癒しの場だと感じていた。
2009年の前半くらいまでは、Twitter 自体が「140文字で tweet する以外はなにもできないけど考えようによってはなんでもできる」という性格の web サービスで、使っている方もなにに使えばいいのか、なにに使えるのかよくわからないまま、適当に好きなように使っていた感じがある。そんな状況の中で Twitter を楽しむためのマッシュアップサイトやクライアントもたくさん生まれたし、ユーザーが慣例的に使っていたルールをサービス側が取り込んだこともあった(RTのこと)。ブログを持っている人なんかは「Twitter の使い方は人それぞれですよね」ということを書いていた。
2009年夏頃から見え始めたもの
2009年の夏頃、Twitter 本の出版ラッシュやメディアでの露出が増え、空気が変わったなあ、と感じるようになったし、「いいものなんですよ!」「すごく楽しいんですよ!」と喧伝されるたびに、私はネガティブな面の方を見てしまって違和感を覚えるようになっていったのであった。
集団の中にいるが故の孤独
2009年の夏以降、具体的に何が起こったかというと、さっき書いたように、新しい人がドンドン入ってくるようになった。また、#followmeJP や #sogofollow タグに見られるような、Twitter の目的は「繋がること」「コミュニケーションすること」であり、「follow/followerは多い方がいい」という空気が生まれた。商業出版やテレビなどのメディアには、やはりすさまじい影響力があり、「繋がること」「コミュニケーションすること」が唯一無二の正しい目的であるかのように、新しく始める人たちの認識を塗り替えた。言い過ぎかもしれないけど。
仮に、Twitter の目的が「繋がること」「コミュニケーションすること」だとすると、follow/follower 数や、@つき tweet の数は、成果の尺度に姿を変えてしまう。だからガツガツと follow 数を増やし、一方で、follow 数が多いわりに follower 数が増えない、誰も @ してくれない、等と言ってへこんだりするのだと思う。そこで一喜一憂するのは、本末転倒でしかないのだけど。
Twitter 以外に一対多の発信手段を持たなかった一般人が Twitter を始めても、簡単に新たな人との繋がりを構築できるなんてことは、ない。何年も個人サイトやブログを続けていて、ある程度読者を獲得しているような人であれば、それをきっかけにして Twitter での繋がりが生まれるということはあるけど、そういうのもまったくない人では、Twitter 上で何らかの努力をしないと、新たな人との繋がりなんて生まれようもない。努力したとしても、誰からも反応をもらえないまま、おもしろくなくなって止めてしまい、全てが時間の無駄に終わる可能性だってある。 *2
どうもメディアの人たちは Twitter を流行させたいらしいので、そういう部分にはあまり触れない(もしかしたら気づいていないだけかもしれない)けど、そうなったら新しい繋がりを作るどころか、自分の存在の耐え難い軽さを直視させられ、集団の中にいるが故の孤独感を深めるだけだと思う。それは、一人でいる故の孤独感より、よほど露骨で耐え難いものではないだろうか?(そういえばそういうタイトルの小説があったよねえ。未読なんだけど、これを機に読んでみようかしら)
「無駄な絆」の可視化
また、昨日の「視点・論点」放送直後あたりに、誰かが「無駄な絆」って tweet していたのを見て、的を射ているけど表現があまりに露骨すぎて、私はPCの前で声を出して笑ってしまった。
こちら側から見たらすごく魅力的な人を Twitter で見つけたら、こちらからは普通に follow するけど、その人がこちらを follow することがなく、おまけに @ を使ってその人が気づくように tweet してもなんら反応が返ってこないということがずっと繰り返された場合、(follow するかどうか、@つき tweet に反応するかどうかは相手の自由だし、こちらがああだこうだ言うような話じゃないというのは当然分かっているとしても、)それは、繋がりたいと思う相手が自分を見る視線が、「無駄な絆」を見る視線だということを、可視化してしまう。こうなると、follower 数が100 だろうが 200 だろうが 1000 だろうがずっと淋しいままだ。これはもう身投げするしかないよね、っていう。まあ、身投げは大袈裟だけど。
成功者と落伍者の距離が近すぎる世界
さらに、実社会で成功している人たち――例えば芸能人、文化人、財界人、研究者、その他実社会で自分の名前で商売できるような人たち――を follow することで、あたかもその人たちとフラットな位置に立っているかのような錯覚を覚えるが、実際はまったくそういうことはない。例えば「Twitter 始めました」の一言に対しての最初の follower 数が、100倍とか1000倍とか違うし、「○○って何?」に対して投げかけられる @つき tweet の数が違う。無名の一般人なら「ググレカスwww」で済まされる問いに対しても、個人としてはっきり認識されているというだけで「それは○○で〜」と、親切に教える人が増える。それに加えて favorite という、おもしろい tweet に☆をつける機能や、RT というおもしろい tweet を転送してみんなに広める機能まであるんだから、あとは推して知るべし。要は実社会での発言力がそのまま twitter にも反映されるというだけの話だ。
その上、自分自身がある分野の職業や地位を手に入れたがっている人である場合や、何らかの事情で進路変更をせざるを得なかった人――有り体に言えば「落伍者」である場合、成功者がすぐ隣にいて、彼らとの格差を常に見せつけられる状態ってどうなんだろう。特に後者は、あのポジションにいるのは、もしかしたら自分だったかも知れないのに……といって、涙を流しながらハンカチを噛みしめているかもしれない。ぎりぎりぎり。
格差が見えるというのは、Twitter 以前のそれこそ HTML を手打ちしていた時代の個人サイトや、ブログの時にもあったと思うけど、HTML 手打ちはある程度知識がないとできなかったし、ブログはある程度の長さの文章を書かなければいけないような感じがある。一方で Twitter は140文字以内と短いので、気軽に何度も tweet してしまうわけで、成功者たちの日常――仕事で行った場所、講演や打ち合わせ等のスケジュール、休日の様子、交友関係など――が、follow してしまえば自動的に流れてきてもろに見えてしまうこともあって、辛さの度合いはより大きいのではないかな、と思う。そのうち、逆恨みによる刃傷沙汰とかマジで起こりそうで怖いのよね。
「そんなに苦しいなら、follow しなければいいじゃないか」という見方もあるだろうが、自分が興味を持っている分野や諦めた分野をまったく見ないようにするというのは、難しいと思う。そりゃ悔しさもあると思うが、同時に、憧れる気持ち、賞賛する気持ち、応援する気持ちもあるのだから。
以上、物事をわりとネガティブに捉えやすい人間が見た、Twitter の一面。
私的 Twitter:ぼんやりする場
多分、このように感じるのは、私の Twitter の使い方が、メディアが与えようとする(ように見える)目的、つまり「繋がる」「コミュニケーションする」ための Twitter とは、少しずれているというのもあると思う。
私は、Twitter を始めてからずっと、たとえば人がたくさんいる居酒屋や、井戸端会議の輪がいくつもあるような公園や、にぎやかなカフェのすみっこにちょこんと座っていて、普通だったら誰も気に留めないような、ごくごく普通の人たちのおしゃべりを、聞くでもなく、聞かないでもなく、ぼんやりと耳に入れているような、そしてときどきおずおずと輪の中に入っていくような、そんな感じで使っていた。私の抱いている嫌悪感は、「メディアの価値観押しつけるんじゃねえよ」という、一種の被害妄想かもしれない。
言われるほどハッピーな場所でもない
まあ、こういう感じ方もあると思うので、最近になってメディアで取り上げられたことで Twitter を知り、これから始めようと思った人たちは、メディアで言われるほどハッピーなものではないと思っていた方がよいと思う。人が集まる場所は、結局、実社会の縮図でしかない。自分が Twitter を遊び場や息抜きの場として捉えていたとしても、視界に入る位置に実社会での肩書きや地位を持ち込む人がいれば、実社会の縮図としての性格が強まってくるのはしかたがない。ただし、Twitter は、相手を follow しなければ見ないでよい世界なので、自分の裁量で実社会という成分を希釈することは可能。嫌だったら remove & block、それに限る。
また、これも実社会と一緒で、自分からアクションを起こさないのに成果だけ得られるなんてことは絶対にないから、全く無名の一般人が Twitter で新しい繋がりを作りたいと思ったら、やっぱり個人として認識してもらうために、幾ばくかの努力は必要になると思う。
例えば、興味のある内容を tweet した人に、@つき tweet で「私はこう思うよ」って伝えてみる。頻度をほどほどにしておかないと、ストーカー的な印象を持たれて怖がられる可能性はあるけど。何度か @つき tweet をもらうと、その時は直接反応を返さなくても、そのうち「○○さんだ」って思うようになる(ただし follow/follower 数がいずれも数百程度の人の場合。千を超えるといちいち見てられないと思う)。あくまで私の場合だけど、最近 follow されても Home を見に行って人となりを知るということがなかなかできなくなってきてたりするけど、そういう状況でも @つき tweet をもらうと、なんとなく Home まで見に行くということはある。こういう人、他にもいるんじゃないかな?そして、そういうのは繋がりの芽になると思うんだ。
さっき自分で「繋がる」「コミュニケーションする」が唯一無二の目的であるかのように Twitter が喧伝されているのには違和感があると書いておきながら、繋がるためには努力が必要だとか書いてるわけなんだけどさ、なんだかんだで私は Twitter という場が好きなので、そういうのを期待して入ってきた人たちが、がっかりしちゃったりとか、逆に孤独を深めちゃったりとか、そういう場面はあまり見たくないのです。
余談
ここまで一気に書いてうわあ長いと思ったんだけど、過去の自分の tweet を見ると「無駄な絆」が 2 tweet、ワナビ・落伍者がやっぱり 2 tweet くらいに収まってるので、なんでたかだか 560 文字で書けるような情報をブログでやるとこんな長さになるのかと、自分のまとめ能力のなさが嫌になるでござるよヽ(`Д´)ノ
*1:Youtube にあったので興味のある人はこちらへ http://www.youtube.com/watch?v=ei6yz1paBUo
*2:Twitter をやってる時間それ自体が時間の無駄だというツッコミは禁止します。異議は認めません。趣味というモノは、興味のない人から見れば全部時間と金の無駄なのです。
- 4992 http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/computer/twitter/?1281842214
- 1816 http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/computer/twitter/
- 352 http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/computer/twitter/?1281838103
- 93 http://backnumber.dailynews.yahoo.co.jp/?m=3215378&e=twitter
- 88 http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/computer/twitter//
- 71 http://ezsch.ezweb.ne.jp/search/?sr=0101&query=孤独感
- 59 http://backnumber.dailynews.yahoo.co.jp/?m=3198379&c=top
- 43 http://backnumber.dailynews.yahoo.co.jp/?t=d&d=20100815&c=top
- 39 http://backnumber.dailynews.yahoo.co.jp/?m=3215378&c=computer
- 36 http://b.hatena.ne.jp/kanose/


