バンクーバーオリンピック閉幕

オリンピックが閉幕した。


ロジスティクスに関しては過去最悪の大会と言われたりもしたが、
それはたぶん正解。
自分も女子モーグルを観戦にサイプレスまで行ったときに身を持って体験したので
そこは断言。
まあ、でもカナダ人にそういうところをきちっとせい、という方が間違っているという気もする。


それはさておき、
今大会、正直言って、日本選手団の結果としてはイマイチだった。
まあ、結果は結果なのでそれ自体は致し方のないこと。
むしろメダルという結果には行かなかったかもしれないが、
精一杯がんばってくれた選手たちには心から喝采を送りたい。
フィギュア、モーグルアルペン、スピードスケート、そしてカーリング
オリンピックの商業主義化などが叫ばれて久しいが、
そんなのどこ吹く風、と競技に打ち込む彼ら、彼女らの姿は美しいし、
マイナー競技も含めて光を当て、選手たちのそんな姿を見せてくれるオリンピックは
商業主義云々を置いておいてもやはり意義深いんじゃないか、と思った。


しかしながら、残念なことに、
一部の日本選手について、がっかりさせられたことも多かった大会でもあった。
がっかりを通り越してあきれるくらいでもあるが。。。


今回、ものすごく気になったのが、
基本的な準備不足によって失格になったり大きなミス・トラブルにつながったケースがいくつかあったということ。
まず、リュージュのステッカー貼り忘れとボブスレーの重量超過。
そして男子フィギュア織田信成の靴紐切れ事件。


リュージュ競技では事前にソリの規格認定が必要で、認定ステッカーを貼っておく必要があるらしいのだが、
誤ってはがしてしまった、とのこと。
とは言え、万が一認定をもらい損ねた場合のために、公式練習のときに申請・認定してもらえるらしいのだが、
そこでも確認せず、出走前の確認時に発覚。
失格となって、勝負の土俵にすら上がれなかった。


ボブスレーでは、ソリ+人の重量がスピードに大きく影響があるので、
不公平をなくすために、おもりで総重量を一定の枠内に収める必要があるらしいのだが、
終わってから量ってみたら、規定重量から外れていてこれまた失格。
要は事前にちゃんと重量確認しておもりをつけ外しすればそれで済んだ話。


織田信成の靴紐事件は、純粋なアクシデントとして受け止められているようだが、
本人のコメントをよく読むと、実は靴紐は事前から切れていたらしい。
靴紐付け替えて感覚が狂うのが嫌だったので、切れたところをくくって競技してたんだそうな。
それが最初のジャンプ着氷時に解けたということらしい。


なんだそれ。
正直言って、この人たちに悔し涙を流す資格なんてない、と思った。
甘い。甘すぎるよ。
そんな状態で勝負に臨んでいたのであれば、競技なんかやるまでもない。
勝負に生きるものとして終わってる。
(国からの補助を受けているという意味で)プロのスポーツマンとして終わってる。
この人たち、次回以降もう出さなくていいよ、と思ってしまった。


今大会では開幕直前のタイミングで、スノーボード国母選手の服装・態度が問題になったりもしたが、
あんな与太話とは比較にならないくらい、ひどい話だと思う。
日本選手としての品格を問うなら、
服装のような表面的なところに行く前に、まずそもそも競技に対して真摯に向かい合っているか、
という最も根源的なところを問うて欲しい。
国母選手のような問題だけをやいのやいの言って、
こちらが(国母選手の問題ほど)問題視されなかったこと自体に、日本人のレベルの低さを感じた。


国母選手と言えば、所属の東海大学の対応もひどかった。
「極めて遺憾なので応援会は取りやめます」
、、、って、あんたんとこの学生でしょ。
自分とこの学生をちゃんと指導できていなかったことを棚に上げて、
あんなやつ許せません、ってあなた何様ですか?という感じ。
「あんな態度を取らせてしまった責任の一端は当学にもあるので陳謝したい。お騒がせしたが、どうか一緒に応援してやってください」
というのが本来の姿なんじゃないの?(陳謝すべきかどうかは置いておいて)
、、、などと思った。

国母選手もさっさと東海大学なんて抜けて、素直にミナミ所属ということになればいいようにも思うんだけどなぁ。
でも、そんな逆風の中、
決勝(だっけかな?)で逆転を賭けて大技に行くなど、
最後まで積極性を見せた国母選手には他の日本選手には欠けがちな強さを見たような気がしました。
また次回、(本人に出るつもりがあれば)がんばってほしいものです。


他にも、
スピードスケートの岡崎選手が大コケした途端に、強化選手指定の年齢上限を付ける方向に修正しようとしたり、
なんだかどいつもこいつも場当たり的にしか考えてない感じがして、
いろんな点でイマイチ感が漂うオリンピックでした。
正直言って、今大会不振だったのは、さもあらん、という感じ。


個人的には、今回最大の収穫はカーリングでした。
あの競技、あのチームはまだまだ強くなる余地がある、と感じました。
引退なんかせず、また次回いい試合を見せてくれることを心から期待。




アンタ、何もかもズレてるよ。勝負に生きる者として。”今”に命を削る者として。
「反省する」とか「謝る」とか「次からがんばる」とか、そんなトロいことばっか言ってるから”時”に置いていかれる。
気がつけば自力生存の道すら失ってしまったのさ。
 ---------------------------------------------------------------------------- 甲斐谷忍ONE OUTS

女子フィギュアスケート

ショートプログラムを見て、薄々予想はしていたが、
キム・ユナ圧勝。
浅田真央、完敗です。
20点も開けられてしまったら、もうキム・ユナを称えるしかないでしょう。


そういう意味で、
表彰台での浅田真央の落ち込んだ表情を見ていて、全然ダメだなぁと感じた。
フィギュアスケートは演技の競技なんだから、心では悔しくてもちゃんと笑顔でキム・ユナを称えないと。
正直。器が小さく見えてしまった。
対してキム・ユナは既に格の違うところに行ってしまった感じがある。
カナダのメディアが「フィギュア・クイーン」と持ち上げるのもわかる。
(もちろんカナダ人がコーチだから贔屓目があるのもわかるんだけど)
このままだと、もう勝てないんじゃないか、と思ってみたり。


そんな話はさておき、今日は隠れた見どころがあった。
最終演技者の長洲未来
確か純粋に日本人なんだけど、アメリカ国籍を取得してアメリカ代表として出場している。
はじめ活字で見たときに「ちょうしゅうみき」と読んでしまい、
長州力に引っ掛けた冗談かと本気で思ってしまい、印象に残っていたのだが(失礼)、
彼女がすごかった。


キム・ユナ、浅田真央、ロチェットの上位三人が終わって、
テレビの実況も「これでカナダ、銅メダルをゲットです!」(まだ決まってないのに。。。)みたいなことを叫び、
(ロチェットに向かって)場内大歓声が沸き起こる中、
颯爽と演技開始。
異様な雰囲気の中、ノーミスかつ終始笑顔で滑り終え、
最終的に安藤美姫を抜いて4位まで順位を上げた。
今季のパーソナルベストだとか言ってた気がする。


あの状況の中、平静を保って演技をするなんて、並大抵の精神力じゃない。
アメリカ代表だが、同じ日本人として誇りに思った。
逆に、それを見てから表彰式を見たので、余計浅田真央の態度が気になった、というのもある。


エキシビジョンにも出てくるはずなので、何を見せてくれるのか期待している。
オープニングはパワーホールだったり、、、、しないしない(失礼)。

カーリング・終戦

女子カーリングの最終戦であるデンマーク戦が終わった。
5-7で最後も敗戦だった。
こんな言い方をするのも何だが、予想通りの結果となった。


最初にカーリングを見たのは、長野オリンピックのときだった。
当時の男子日本代表の試合をたまたま見て、よくわからんがなんかすげー面白い、と思ったのが第一印象だった。
とは言っても、常呂ならいざ知らず、東京ではオリンピックくらいしか見かける機会がないので、
冬季オリンピックが来るたびに思い出して、オリンピックではいつも見ている競技。
今大会は、ちょうど留学先のバンクーバーでやっていたこともあり、
会場でも一度(会場が家から徒歩15分くらいのところなので)、
それ以外も日本の試合は一通り観戦してしまった。
そこまで一生懸命見るつもりもなかったんだが、あまりにも面白いので、学校サボってずっと見てたりした。


全部で9戦くらい見ていて、だいぶこの競技がわかってきた。
この競技のミソは2つ。
・先攻時にいかに一点を取らせるか
・後攻時にいかに二点を取るか
これをいかにきっちりできるか、ということで勝負は決まってくる。


ティール(先攻時に得点をあげること)なんて狙ってはダメ。
そもそも交互にストーンを投げて、最後の状態で得点が決まるんだから
ティールなんて相手がミスすることが前提の状態なんですよ。
だからそんなの狙って作戦を立てると勝負どころを間違える。
あくまでNice to haveで行かないと致命傷になる。


昨日のスイス戦なんてまさにこのセオリー通り。
毎エンド先攻後攻が入れ替わってるんだけど、日本が取っているのはいつも一点。
Yahooの速報とか見てると、「日本一点を返す!」みたいな口調で書いてあるけど、
実際は一点取らざるをえない状況に追い込まれて、後攻の権利を奪われているだけのこと。
で、先攻時に「スティール狙ってこ!」みたいな感じで始まり、
最後のスイスの一投で全部持ってかれて大量失点という展開だった。


ほとんど全ての試合をCTVのインターネットLiveで見ていたのだが、
おそらく各国に配信されているコンテンツなので、
無駄な解説とかもなく、選手の声を丸々拾ってくれる。
これが非常に面白い。
相談の内容を全部聞けるので、局面局面で何考えて投げているのか全部わかるのだ。


それを聞いていて確信したのは、日本は明らかに実力不足だな、ということ。
Yahoo!Japanのニュースとか本人たちのコメントを見ていると、
日本が負けたのは
・経験不足(世界選手権に出れなかったから)
・投球の精度が低い
・氷の読みが甘い
・スキップ目黒選手の統率力がない(目黒の決定にみんな不満そう)
・阿部コーチの指導力不足タイムアウトの際に、メンバーにタメ語聞かれて指示(というか意見)を否定される)
というような理由、ということになっているみたいだが、
どれもなんだか本質的ではない気がしている。


「経験不足」
世界選手権に出られなかったのが原因、というなら、その時点で実力が足りていないわけで、
経験不足だから実力不足という因果関係にはならず、ただ単に実力不足でしたと言っているに過ぎない。

「阿部コーチの指導力不足
試合中にコーチが出てこれるのはタイムアウトの二回だけなので、試合への直接的な影響力は軽微。
タメ口云々や弁当パシリの話は表面的な関係性の話なので、だからダメという話ではないはず。
それで信頼を勝ち得ているのであればそれでいいし、雰囲気的には全然オーケーのように思う。
そもそも選手と2-3歳しか違わないのだから、目上然としてうまくやれ、という方が無理がある。
現体制の中で考えれば、そのくらいの方がベターなんじゃなかろうか。

「目黒の統率力」
阿部さんの話ともつながるのだが、飛びぬけたキャリアを持つ人(ベテランと言われる人)がいない中で、
みんな好き勝手言い合う、という関係性はそれはそれでアリだと思う。
恐れ知らずの可能性を最大限引き出すにはそちらの方がいい、という考え方もある。
今いるメンバーの中では、スキップに適任なのは目黒しかいないと思う。

「投球の精度」
数字だけを見ると、強豪国に比べて確かにかなり低い。
ただ面白いのは、いつもズレるかというとそうでもない、ということ。
ノッているときには、すごいショットがパシパシ決まる。
特に目黒・本橋。
ショットの体勢とか見てても、重心も十分落ちているし、強豪国と見劣りしないくらい安定している。
強豪スイスの選手でも投球時にバランス崩してこけていた人もいたし、安定感はあるような気がする。
そこに違和感。
ただ単に練習が足りない、というだけじゃないんじゃないか、という気がするのです。
ま、(こういう引き合いに出すのも何だが)山浦とかはいつも微妙にずれるので、これは本当に要練習なんだろうな、と思う。

「氷の読みの甘さ」
これは正直よくわからない。
そもそも技術としてどういうものなのかよくわからないので。


、、、とどれも何か違う印象。
俺は今回の敗因について、上で語られているようなこととはちょっと違うことを思っていて、
それは「戦略不在」。
各エンドで、何点をどのような形で取りに行くのか、それとも捨てにいくべきか、
というような戦略がイマイチなかったように思えるのだ。
なんとなく漠然と
一点より二点がいい、スティールできるならスティールしたい、
という発想で作戦が構成されていたような気がしてならない。


9試合も連続して見ていると、なんとなく気づくのだが、
(先攻で)相手に一点取らせに行く陣立て、(後攻で)二点取りに行く陣立て、三点以上を狙いに行く陣立て
はどれも全然違っていて、ある程度パターン化されるように思える。
強豪国は局面局面でそれをしっかり使い分けているような印象。
それを一番感じたのは前述したスイス戦で、
日本が一点を取らされたエンドは、スキップのターンでどれも同じような形になっていた。
一点取るか三点取られるか、みたいな状況に追い込まれ、結局一点取らざるをえない、ということになる。


そういうことを日本はできていなかった。
結果を見てもそうだし、本人たちの会話を聞いていてもそう。
象徴的だったのが、ドイツ戦での一コマ。
ファーストの石崎がガードを2つ置いて(ハウス内には両軍ともストーンなし)、
その局面でスキップ目黒の発した一言。
「ここ(ガードの裏)に一個置いてみたらどうかな?」
それを聞いて、びっくりしたのと同時に、なんだか全てが納得できた。
ものすごくベーシックな状態なのに、定石手というものがないんだ、
これ、一投一投その場その場で考えてるな、と。
これでは偶然ハマらないと勝てないし、まして総当たり戦では勝ち抜けないな、と。


投球の精度という話についても
定石手をチーム内で共有できていないから毎投球ごとに議論になる→時間が削られる→思考時間が制限されてくる
→中途半端な理解で投球→ブレる→再度議論→余計時間がなくなる・・・
ということで説明がつくし、選手の声を聞いていると、間違いなくそんな感じ。
定石手のところは推論としても、
毎回議論→時間がなくなる→議論が終わらないまま投球(「時間ないよー」の声で投球に入ることがたまに見られた)
という流れはよく見かけられた。
強豪国と対戦しているときに比較するとよくわかるのだが、
時間の減り方が全然違っている。10分近く差がついていることも。
つまり強豪国は議論をほとんどせずに投球していることが多い、ということだ。


もし、俺がスキップだったら、
過去の棋譜(?)を分析して、ある程度パターン化して、頭に一通り叩き込むだろうな。
それを元に自分たちの定石手を作る。
それでだいぶ変わってくると思うのだが。


いろいろ書いたが、自分としてはチーム青森にいろいろ楽しませてもらった。ありがとう。
泣く必要なんてない。
胸を張って日本に帰って欲しい、と思います。
またソチでも目黒の雄姿がみたいものです。


それにしても、目黒の投球前の所作はいつ見ても美しい。
あれを見ていると、茶道の所作を思い出す。
投球時のフォームも形としてのバランスが取れていて、すごく美しい。
あれだけ形としてよくできているのに、
投球技術のレベルが低い、というのは直感的に何かおかしい気がするんだよなぁ。


もひとつそれにしても。
ハーフタイムにおやつ食べてるオリンピック競技って他にないだろうな(笑)
今日は山浦がバナナ、デンマークに至ってはディップアンドチップスを頬張っていた。
しかもタッパで持ってきてた。。。
そういうディテールこそ面白い。

適正価格とは何か

日本で録画してDVDに焼いておいてもらったテレビ東京カンブリア宮殿」の年末スペシャルを見た。
ゲストはスズキの鈴木会長、OKマートの飯田社長、メガネ21の平本会長の3名。
ネアカの3人のやりとりはそれだけで面白いし、示唆深い。


その中で鈴木会長が「適正価格って一体なんなんですかね?」と問題提起をしていた。
村上龍が自らの経験も踏まえ、返して曰く
「消費者個人個人がそれぞれの商品に対して自分なりの適正価格を決めているんじゃないか」


なかなか味わい深い議論。
確かに言われてみればその通り。どこに重きを置いてお金を使うかはひとそれぞれ。


特に日本では、
ここ数十年国民総中流でほぼ横並びの収入・価値観を持ってやってきたため、
これまでは供給側も横並びの商品・サービスで事足りた。というか広がりえなかったのだろう。
ヴァンヂャケットは20年近くに渡って一世を風靡したが、
そこから別勢力が派生して台頭するというようなことはなかなか起きなかった。
それが収入格差の発生、価値観の多様化などによって、
各消費者のお金の掛けどころのパターンも多様化し、
同じ商品でも様々な品質・価格の組み合わせがなされるようになってきた、ということなのだろう。


とするならば、
こと日本においては、
「富裕層ビジネス」といった切り口はイマイチうまくいかない、というのも納得できる。


ヨーロッパなどのように貴族・華族のような代々続くような富裕層が一定規模いる社会であれば
何を買うにも大盤振る舞いのような人たちであることを前提にした商売は成り立つが、
所詮、日本人の富裕層の多くは総中流組から派生したもの。
全部が全部大盤振る舞いをするほどではないだろうし、
資産は増えてもビヘイビアはそこまで簡単に変わらないということもあるだろう。
同じ「富裕層」でもお金の使いどころは人によって異なっている可能性が高い。


そうすると「富裕層」という大括りではマーケットを掴みきれないということが起こる。
特定の嗜好品についてはお大尽的なお金の使い方をする人が
日常生活ではチマチマ小市民的な購買行動をするということがありうるし、
日本のような経緯を経て成立してきたマーケットでは、よりそういうことが起こりやすいような気がする。


ただ収入・資産等の情報だけでセグメント化するのではなく、
個人の嗜好性パターンまで含めて考えないと、
日本市場ではうまくいかないのかもしれない。

「知る」ということ

本当は今日からイエローナイフに行く予定だったのだが、
急遽キャンセル。まあ、ちょっといろいろとありまして。
そんなわけで久しぶりに散歩に出かけてみた。


なんとなくだんだかんだで行ったことがなかったUBC(the University of British Columbia)に行き
なんとなくその裏手の海岸に入ってみた。
すると目の前に海が広がり、その真上に太陽が。
考えて見れば当たり前なのだが、
バンクーバーは西海岸沿いの街なので、太陽は海に沈むのだ。
今日は晴れてはいたけれど、水平線上に雲があり、途中で太陽が隠れてしまったが、
雲がなければすごく夕陽がきれいなんだろう。


そのままタラタラと海岸沿いを歩いていくと、
いきなり素っ裸のじいさんがフリスビーをやっていてびっくり。
よく考えたら、この海岸はヌーディストビーチとして有名らしいのだ。
浜辺から内陸側に入っていく道には
「Clothing is required」
の文字。
初めはどういう意味かよくわからなかったのだが、
要は「裸でOKなのはビーチだけよ」ということなのだと理解して爆笑。
さらに歩いていくと、
海(湾)の向こうに雪山が見え、その景色もなかなかいい感じだった。


なんだかバンクーバーという街の今まで知らなかった側面を見た気がして
ちょっとうきうきしてしまった。
2ヶ月ちょっと滞在してだいぶ慣れてきたこともあり
バンクーバーを結構知っていたつもりになっていたのだが、
実はほとんどわかってないのだろうなぁ、とあらためて思い直した。


「知る」ということは
誰かの追体験をすることではなく、
自分の感性に則って対象をリアルに深掘っていく、ということなんだと思う。


たとえば
UBC、スタンレーパーク、グランビルアイランド...と観光名所を一通り回ったところで
それはバンクーバーを知ったことにはならない。
UBCの浜辺ひとつ取っても
冬でもヌーディストがいるとか
たまに浜辺で石ころを探している人がいるとか
夕暮れの雲はすごく美しいとか
不思議な香りがするとか
いろんな切り口の興味深いディテールがあって、それぞれに感動があったりする。
それらをひとつひとつ積み上げていくのが「知る」ということなんだと思う。


以前、学校でフランス人のお姉さんに四万十川の写真を見せたら
ここも日本なのか、と目を丸くしていた。
日本と言えば都会の国、どこもかしこもビルだらけ、
というのが彼女の持っていた日本のイメージだったらしいので
まさか自分の国よりも山深いようなところがあるとは思っていなかったようだ。
東京にしたって、六本木のような都会的な場所から上野アメ横奥多摩までそのイメージは幅広い。
そういう意味では
ほとんどの日本人は自分の住んでいる日本でさえ、そして東京でさえよく知らないのだと思う。


物事とはいつも重層的なもの。
違う切り口(=興味の方向性)で見ればいつも新鮮なものでも
惰性で見始めると全てがくだらなく見える。
そういうものかもしれない。


この街をみる視点がだいぶ変わった一日でした。
負け惜しみではないけど
オーロラ見に行くよりも個人的には意義深い一日だったような気がする。


人間万事塞翁が馬

久方ぶりに

自分の日記を見返してみた。
改めて思ったのは、学生時代はかなりいろんなことを考えていたんだなあ、ということ。
我ながらいいこと言う、と思うのも結構たくさん。
やはりこうやって文字にして残しておくことは大事だと再認識。


バンクーバーへ来て2ヶ月が過ぎたが、
明らかに物事を深く考えることをしなくなった、と日記を読み返して猛省。
特に、生きるということについて昔よりも無頓着になってしまっている気がする。


仕事を始めてからは忙しくなった、というのもあるだろうけど、
彼女と一緒に住んでいた、というのも大きかったような気もする。
やはり生とか死とか、もしくはビジネスとか
そういう小難しめのテーマは恋愛関係の中で話すようなことにはなりにくいのかもしれない。


そういう意味で、
ひとりに戻り、仕事もしていないこのタイミングでそのことに気づいた、
ということはそれはそれでよかったのかもしれない。
惜しむらくは学生時代の青州や竹本さん、入社後の龍太郎さん、小川さん、山崎さんといったような
話していて刺激的な面々がこっちではなかなかいるわけがない、というところか。
ま、致し方ない。


いい機会なので、また思いついたときに書き足していこうと思う。

ワンダフルライフ

昨日、久しぶりに是枝裕和監督の「ワンダフルライフ」を見直した。
やはりすごく心地いい映画だった。
もう5-6回観ていると思うのだけれど、何回観ても心に沁みるものがある。

人は亡くなった後、天国に行くまでの7日間の間、ある施設に滞在し、自分の人生の中から大切な思い出をひとつだけ選ぶ。そしてそれをできる限り忠実に再現した映画を作り、その映画を自分で見て、本当にそのときの記憶が頭の中に蘇ったとき、その記憶だけを持ってはじめて天国へと向かう。

本当に大切な記憶、想い出はひとつでいい。
ひとつ大切な想い出があれば、ひとは天国に行ける。
得てして、ひとは数を求めてしまうけれど、
本当に大切なひとつの想い出を形づくっていくこと、
そして誰かのただひとつのしあわせに参加するということ
というのはすごく難しく、そしてすごく素敵なこと。

自分が人生を通して選ぶただひとつの記憶はどんなものなのだろう?

今回見返して、今までちょっと誤解をしてたことに気づいた。
ラストシーンのちょっとしたことなのだけれど。
そのことに気づいて、心がまたあったかくなった。