Hatena::ブログ(Diary)

14歳に留まる病

2011-08-03

[][]Vanadisの魔物娘には種族固有の文化が足りないのではないか

 なんだかここ数年、エロゲ界隈においてモンスター娘の認知度が高まってきているらしい。普通の美少女に飽き足らないあまりそっちに走るか、という印象がないこともないが、ヒロインのヴァリエーションを広げることはそれすなわちジャンルと市場の発展に繋がるので、積極的ではないにしろ歓迎する。
 だが。だがしかし、ですよ。
 僕は『魔物娘との性活〜ラミアの場合〜』をプレイして違和感を感じた。
 これ、なんか今までの人外キャラと違くね? と。それも悪い意味で、だ。
 たしかに、ニッチ系の嗜好が一ジャンルとして市場に台頭するための変化……一般受けを視野に入れたライト化は避けられない。
 だがその結果、コンセプトすら変化していやしないか?
 そう感じたのだ。

 などと言ってはみたものの、僕が製品版をプレイした『魔物娘』シリーズは『ラミアの場合』だけであり、『アルラウネの場合』『スライムスキュラ』『蜘蛛と鳥と◎と』などは体験版のみプレイという体たらくである。
 が、それだけで僕のイメージする「魔物娘」と明らかに異なっているのが分かる。
 何が違うか。
 服を着ていることか? まぁ服を着るモンスターもいるだろう。
 上半身が人間であることか? 惜しい。
 人間の言葉で喋っていることか? 近い。
 ……思うに、Vanadisの『魔物娘』シリーズに登場するヒロイン達は、モンスターの肉体を備えていながら、生活様式がことごとくヒトと同じなのだ。
『ラミアの場合』で真っ先に違和感を感じたのは、ヒロインの生活リズムが、主人公のそれと同じなのだ。調理した肉を食べないだとか、脱皮するだとか、咬みつくだとか、トグロに巻き込んでくるだとか、そんなものは身体的特徴でしかなく、イベントの一つでも費やして賄えばいい。だが、ヒロインの種族特有の精神性や文化というものはないのだろうか
 つまるところ、彼女達は触手のような自由度の高いガジェットを持ったヒロインでしかなく、その身体的特徴をセックスにしか活かせず、コミュニケーションにおいては何の屈託も無いのだ。それはつまり、異文化コミュニケーションをしていないということ。「性活」とは言い得て妙だ。そこに彼女達との日常はない。僕達が日常と感じる空間に、モンスターの身体を持ったヒロインを引きずり込んでいるだけなのである。

 ……とまぁ、散々貶しまくってやったのだが、そんなものは、僕の求めるモンスター娘とは異なっている、というただそれだけのことである。美少女にあの手この手で弄ばれるMシチュ抜きゲーとしては大いにアリだろう。
 そも、種族特有の文化から生じる問題を解決することにストーリー性を求めれば、そのヒロインの人格などより、種族特性への屈託を解消することしかストーリーの着地点があり得なくなる男の娘をヒロインとする場合、同性愛についての問題解決ばかりが取り上げられることになる、というのと同じ理屈である。
 そんなジャンルの方向性を狭めることは僕の本意ではないし、モンスターの下半身に美少女を乗っけただけのヒロイン、というのがこれから濫造される中で淘汰が生じ、面白いヒロインが生まれるやもしれない*1
 結局のところ、原理主義者の若造が吼えているだけのことか。これからこのジャンルがどう発展しているのか、昂ぶる下半身とクレバーな脳味噌で見守っていくのも吝かではない。

*1:未プレイではあるが、『女装山脈』は男の娘との恋愛に際して生じる問題にそれぞれの回答となる、三者三様のエンディングを用意していると聞く

2011-06-22

[][]エロゲにおける「学園生活」という時空間の表現および学級を通しての教員主人公と生徒との人間関係

 名作との呼び声高いPOLLTOP『遥かに仰ぎ、麗しの』(以下、『かにしの』)の分校ルートをプレイ中に思ったことをつらつらと。

 まず僕が気になったのは、本作は「学園」という時空間のデザインが不十分である、という点。
 主人公が担任教師、ヒロインが生徒となると、どうしても教師として関わる「学園生活」を期待してしまう。たとえ、プロローグで凰華女学院の特殊性が強調されているとしても、まず「学園生活」のフォーマットはある程度踏襲されるだろうと予想する。まっとうでなくとも「学園モノ」であるだろうな、と僕は期待していたが、アテが外れた。
 そもそも、なにをもって「学園生活」とするかだが、ここではその共有体験を想起させる要素を、「生活習慣によって表現される時間感覚」とする。
 僕が『かにしの』分校ルートに欠落していると感じたのは、生活習慣だ。主人公が朝起きて何をするか、というのは第二話で描写されるが、ただの一度きり。授業や夜にしても同様だ。そして休み時間・昼休み・放課後などの現在時刻に関する記述はその後においても見当たらず、一日の過ごし方がまったくイメージできない。たしかに、朝夕晩は背景で見分けることができる。しかし、現在時刻も分からぬ、授業もせぬ、チャイムも鳴らぬ、となると時間感覚が曖昧になる。人里離れた分校であるという設定があったとしても、まず「学園生活」の部分がないから、特殊な学園、という但し書きも機能せず、そうなれば、主人公が教師であり、その立場から生徒であるヒロインと関係していくという方面の実感も限りなく損なわれる。せめて放課のチャイムの一つでもあれば事情は違ったのだろうが。
 ユーザーが共有している「学校」という体験は、時間に支配されている。始業時間に間に合うように起床し、授業時間分拘束され、放課時刻になって解放される。我々の学生時代の生活時間は、学校によって定められたものが基盤にあったとして間違いはないだろう。
 そして、『かにしの』からはこの学校によって規定される「時間」の感覚がない。ただヒロインとの交流があるだけで、それはすなわち「学校」という時空間*1が十分に表現されていないことを意味する。
 まぁつまり、「これ、学園モノじゃねぇだろ」という指摘ができ、その一点がまず気に食わない*2

 個人的にこの「生活習慣によって表現される時間感覚」および「学園生活の実感」に対し最も有効なアプローチをしていた作品としてHOOKの『Orange Pocket』を挙げたい。かの作品では、日時の表示や一日の開始を目覚めから描くのに加え、学園内において休み時間・昼休み・放課後で毎回行動選択が表示される。そう、毎日毎日、規則的にである。さらにそれが退屈な授業描写によって区切られているから堪らない。ストーリーラインにおいて授業時間は蛇足かもしれないが、「学園生活」を表現する上ではやはりその「退屈な時間」すらも不可欠なものであると僕は考える。我々の学校生活も、そういった退屈な時間が大半を占めていたはずであろう。
 直接登場しないにも関わらず両親の存在を強調する放課後の描写も生活感の表現に貢献しているがそれはまた別の話。


 そして、だ。『かにしの』分校ルートには現状もうひとつ、気に食わない点がある。主人公を教師に据えておきながら、それが十分に表現できていない点だ。
 そりゃぁ主人公が教師、ヒロインが生徒という設定から、そういう恋愛などを期待するだろう。だがまたしても裏切られたわけだ。*3
 ADV*4における主人公の人格は社会生活を軸に据えた生活習慣などによってある程度規定されるべきである、というのは僕の持論である。恋愛物語は主人公とヒロインの(当たり前だが)恋愛が主として扱われる。その中で、お互いの社会的地位や性格というのは非常に重要になってくるはずであり、つまり主人公がどういう人間かを表現するためにも、社会生活はある程度日常として描かれるべきである。まぁこれはあくまで僕の持論なのだが(つまらない反論をかわすのに大事なことなので二回言った)。
 本作ではまったく描かれない。主人公である滝沢司は何らかのトラウマを持っている程度しか、分校共通ルートでは判明しない。正体不明である。どのような生活を送る人間なのか、まったく分からない。几帳面なのかズボラなのか程度も、である。
 そして個人としての人格もそうであるが、教師としての立場もまた表現できない。当然だ。少々逸脱しているとはいえ教師として生徒個人に関わることはあるが、学級経営や講義などの日常業務が描かれていないのだから。
 生徒と教師が恋愛関係になるには、まず個人間で関わる前段階として、生徒と学級、というものがある(はず)。これは1シーンだけ存在したが、あくまで学級における生徒ひとりひとりの立ち位置を提示する目的しかなく、いわば例外的な瞬間に過ぎない。であるから、主人公がどうやって生徒達という集団に関わっているのか、という部分はほとんど見えていないのだ。そしてその第二話の印象も、ほとんどが相沢美綺の外出許可願書に食われているときたものだ。
 そうなれば、恋愛関係になる前の二人とその周囲は描写されない。のっけからヒロインと個人的な関わり*5を持ってしまっており、進展は実感されず、段階を踏んでいないように感じる。
 一言で表現するなら、「主人公が教師の学園モノなら授業とかHRしろや」となるわけだ。


 まとめると、話数によって区切られているとはいえ、世界観や主人公の社会的地位および人格は恋愛において重要なものであるからしっかりと描写するべきであり、そのために日常描写を通して生活習慣を提示すべきだ、という教訓が得られたわけだ。うん。日常は大切。


 ……というのを前日の昼間に書いていたのだが、それに対するツッコミを色々と頂いた。
 曰く、「『かにしの』においては、あれは学院ではない、異空間である」、と。
 そこはある程度同意する。あの学院の特異性はプロローグから共通ルートでさんざ語られ、それを伏線として各キャラのルートで解決するのだろうことは容易に想像できるし、それを狙って意識的に表現されている。
 その意は汲む。汲んだ上でも敢えて、「学園生活」への配慮が足りないと指摘する。
 これは個人的な「異空間のデザイン」に関しての技法ではあるが、その空間の異様さを表現する手段としては「違和感」こそが有効なのでは、と考える。特殊性ばかりを強調するのではなく、普通の状態を描いているはずなのにどこか違和感がある、という感覚が好ましい。「普通を描こうとして出る歪みこそがそれの持つ個性である」という言説には大変に同意する。つまり球技大会などのイベントではなく「凰華学院における普通の学校生活」を描いてほしい、という要望に行き着くわけだ。

 まぁ、まだ攻略途中であるのに随分早まったエントリではあるが、学園モノに対する僕個人のスタンスの表明として上げておくことにする。

*1:時間・空間としての、である。

*2:一般的な批判ではないのでとりあえず個人的感情によるものとしておく。

*3:それに関しては「凰華女学院は普通じゃないから」の反論がありそうなものだが、「学院」としても表現できていない点が問題だと言っているのだ。

*4:この場合、主人公≒プレイヤーとしてデザインされ、主人公の人格が無色透明に近いほど好ましいシミュレーションゲームは除外する。

*5:放課後の温室で邑那らとお茶を飲んでいる等

2011-05-28

[]三三珂『成金』感想―方言系戦闘狂ヒロインとか漢のロマンと青春の話―

成金 (メガミ文庫)

成金 (メガミ文庫)

 恐ろしいラノベもあったものである。こんな血と汗と漢気と執念、そして美少女の方言が飛び交うラノベは見たことがない。
 裏表紙の煽り文句を引用してみると――

東京の外れに住む高校生・千葉玄の前に現れた美少女。雪と名乗るその少女に闘いを挑まれたその時、彼の人生は大きなうねりに巻き込まれていく。亡き父のいた高みへと、将棋歩兵のごとき足取りで進む玄の鮮烈な生き様。その少年の魅力だけで、【第1回メガミノベル大賞】に編集部特別賞を設立させた異色作の登場だ!


「少年の魅力だけ」では決してないのであるが、「どこもかしこも美少女美少女ってよー。いい加減飽きたわ。血と汗と妄執漂う硬派な青春ラノベとかないんかい」とボヤいてるそこのオッサン方にも是非薦めたい逸品であることは間違いない。

 いやいや、主人公・千葉玄の暑苦しくも鮮烈な生き様だけではない。ヨダレ系(と僕が勝手に命名した)戦闘狂美少女・日下部雪、土佐弁を駆使する割烹着装備の合法ロリ家政婦・華さん……ヒロインも充実している。というか水準以上に可愛く魅力的だ(ちなみにもう一人友達ポジションで田辺って娘がいますけど僕の偏ったセンサーはイマイチ反応できませんでした)
 雪ちゃんは可愛いく美しい。変な方言(大河ドラマなどで用いられる旧い方の土佐弁アレンジ?)もイカしているが、その傲岸不遜な態度も、強い奴と見たら目をギラつかせて涎を垂らすなどという戦闘狂っぷりがたまらない。そして後半に入るともう自然に(ネタバレ自重)になってしまうのだから始末に置けない。キャラ性を保持したまま、崩れるほどデレず、戯れてくる。いかにも彼女らしい親愛の表現にキュンキュンである。
 そして華さんですよ。これまた方言ヒロイン。非高知県民でも理解できる程度にアレンジされつつも、自然で流麗な土佐弁を操る華さん。玄の身を真摯に案じ、そして胸を張って送り出す母属性っぷりは萌え萌えです。ちなみに合法ロリ

 しかし、やはり、この作品の見所は、暑苦しくもアツい男のロマンだ。
 主人公の主戦法は、プロレスだ。それが戦法と言えるものかどうかはともかく、闘いにおけるスタンスは、紛れもなくプロレスラーの魂を受け継いでいる。

拳を固めた両腕を頭に添えて、やや屈む。脳だけを守る構え。胸も腹も、金的も守っていない。回避ではなく防御でもなく、耐える構え。(p16)

「泣き言一つ言わないんですね。何故ですか? ここまで痛めつけられているのに」
「言いません。痛いだけです。苦しくありません」(p82)


 相手の攻撃を全て受け止める。逃げず、避けず、止まらない。華々しくはない。だが、あらゆる男の憧れる生き様だ。この泥臭いストイックさを、試合だけでなく、日々のトレーニングから修業にまで持ち込んでいるから堪らない。男のロマンを見事に体現した主人公造形といえる。
 熱い。こういう硬派な体育会系主人公に逢いたかったのだ。
 そしてその不器用でしかしカッイイ少年に憧れる二人の同級生、彼に夢を託す大人たち、子の覚悟を受け入れ送り出す母代りの女性……戦いと青春、それに皆が乗り込み、前向きに未来を見つめ直していく。それも、各々の過去を否定することはなく、皆が皆、これからの自分に期待し、覚悟を固めていくのだ。誰もが玄のように、一歩前に進もうと踏み出すのだ。その期待すべき未来が心地良い。
 未来へと続く今を、懸命に踏みしめる。これぞ、青春というもの。


 無論、批判したい部分もある。そもそも高校生の分際で(ネタバレ自重)に勝利するたぁどういう了見だ、とdisりたくなる。体育会系として。
 たしかに、玄のトレーニングは、質・量ともに人並み外れている。執念がそうさせている。彼の強さは確かに保証されている。そして、もっともっと強くなるだろうことは疑いようもない。僕はそういうバカが大好きだ。体育会系だから。
 だがしかし、だからこそ、現時点で最強の座に上られては困るのだ。彼は強いし、その強さを得られるだけのものを積み上げてきた。そう推測できるよう描写されていた。だが、もっと長い間、過酷な鍛錬を重ね、強さに奉仕してきたヤツだっているのだ。それを押しのけて、たかが十年の努力で最強になる、というのは侮辱だ。それはあらゆる最強を目指すバカヤロウどもに対しての侮辱であって、その不自然な飛躍は、将棋歩兵のように一歩一歩進み続けてきた千葉玄というキャラクターの生き方そのものへの侮辱でもあると僕は考える。
 ラノベにリアルを求めているわけじゃない。その作品世界の中でのリアリティの問題であって、作品に込められたテーマの問題だ。どんがめの玄、一歩ずつしか進めない玄。一つずつ、しかし着実に障害を乗り越えていく玄。その彼が十六にして頂点に上り詰める、というのは筋が通っていない、と僕は感じるのだ。
 彼が父親の背に追い付くのが、あまりに早すぎたのだ。
 だから欲を言えば、ジャンプの読みきり漫画が連載化するに当たり若干の手直しが加えられるようなノリで長編としてもっと長いスパンでやってくれ、と小一時間要求したい(何

 しかしまぁ、総評としては、良作に分類されるだろう。売上の方は芳しくないようだが、僕の狭い観測域での評判は上々だ。格闘ラノベとしてしっかり芯が通っているし、その芯で突き通した上で綺麗に〆ている。爽快感がある。個人的にはもったいない、このテーマはもっと追求できるはず、という口惜しさ(とあと美少女美少女美少女をもっと美少女!)はあるものの、とても楽しませてもらった。前半のノリで最後まで持っていかれたらもっと方々にウザいくらい宣伝していただろう。それだけのエネルギーのある作品だった。


 さあ、ここから与太トークを展開するとしよう。読んだ人向けにテキトーなことをペラっていく。

 ところで僕は、教育の本質は「知識を与えるだけではなく、自己教育力を育て、学ぶ力を身につけさせ、知的探求の自立を最終目標とする」という持論(受け売りだが)を持っている。
 これは武道の師弟関係にも持ち込めることである、と考える。
 そこで、それを『成金』にあてはめてみたらどうだろう。

合気道は禅の流れを汲んでいますが、程度はどうあれ、格闘技全般にそういうものはあるはずです。延々と、一つのことを求めていく。それが仏法悟りなのか、強さなのか、またなにか別のものなのか。もしかしたら一緒なのかもしれませんが」(p95)

 つまり、格闘技とは探求の道なのだ。強くなっていくための、先の見えない道程。
 そして師のもとで学ぶことは、その探求の道程を導いてもらい、武への探求を自立して行えるようになることを目指すことと言える。
 どうやったら強くなれるか、身を守る効果的な方法は何か。あらゆる武術が勝つ方法、護身の方法を探究した。「戦わずして勝つ」とか「護身完成」、なんかはそういった求道の極致なのだろう。
 雪は、その探求の道を外れた。己の現時点での強さに溺れ、強くなっていく道程において後退してしまったのだ。
 強くなるためでなく、勝つために戦う。そんな生き方では、現時点で勝てる相手にしか勝てない。この先もずっと。

「伸びない。このままじゃ伸びない[…]」

「[…]雪は、甚振って苛め抜いて、その上で勝つことが楽しくなっている。しかも若くして師に勝ったから合気道なんて極めたところでこんなものって見切りをつけてしまった。鍛錬していない。せっかくの才能を磨いていない」

「雪は祖父に勝ってからは街に出かけて適当な奴を見つけては喧嘩を吹っかけ、闘い、勝利に酔いしれた。[…]けどな、集団でこられたら、銃や刃物を出されたらどうだ。骨折ならまだいいが、取り返しがつかなくなるかもしれん」(p61)

 雪は天才である。凡人が一歩一歩強くなるのに対し、彼女は飛躍する。恐ろしい速度で理を掴み、成長していく。
 だが、行き詰まれば天才もただの人だ。玄は一歩また一歩と成長し、彼女を追い抜く。まさに、ウサギとカメの対比だ。

 そしてこの作品の優れた点は、大晦日の時点では雪の方が一歩二歩と先んじているようにも見える。これからもこの追いかけっこが、二人の、そしてそれぞれの道はまだ続いていく、という予感に感じ入ることができる。

「続いていく」、というのがこの作品のテーマの一つである「継承」へと繋がっているのは間違いないだろう。

[]定金伸治『ブラックランド・ファンタジア』感想―ボーイ・ミーツ・ガールにおけるメインヒロインの悪堕ちとか、人工の天才の必要性とか―

ブラックランド・ファンタジア (集英社スーパーダッシュ文庫)

ブラックランド・ファンタジア (集英社スーパーダッシュ文庫)

 チェス。そしてそれによって行われる『真剣(デュール)』(賭博ないし貴族たちの決闘の代行)*1ラノベには珍しい題材である。描写は「なんかよく分からんけどすげぇ!」と思わせる程度には迫力があった。そして、理想的な対局や醍醐味、指し手の人格と戦法などなど、チェスに通っている理屈を一種の能力バトルのように落とし込み、独特な世界観を構築している。まぁ、主人公の雇い主が寛容な人物であったりその他いろいろな理由でデュールに緊迫感が不足している、という嫌いもあるが。

 ストーリーに関しては、やや急ぎ足すぎたか。上下巻程度でネムの天才性、特異性、可愛らしさを強調するエピソードを盛り、題材であるチェスももっと掘り下げれば物語がさらに広がったのではないかな、と、一巻で完結してしまったのが悔やまれる。
 あと、「おまえ19世紀のイギリスを舞台にしたかっただけちゃうんか」と小一時間問い詰めたくなる。もうホームズさんはいいから、と。稚拙なミステリもどきをやるぐらいなら、すべてデュールで押し切る程度の強引さが欲しかった。


 で、だ。ここからが重要なわけだが。
 ヒロインの魅力は、十分に魅せきれていない、という評価を下さざるをえない。下さざるをえないが、魅力的だったからこそ、惜しい、と地団太を踏みたくなった。
清国の風習である纏足のよう」、と作中でも表現されている通り、布で拘束することによって成長を阻害されてしまったネム。人形のような身体では歩くことも、物を握ることすらもままならない。世話役の女中がいるとはいえ、主人公・スィンがいなければ生きていけない。そして姉(これ重要)。さらに世間知らずを通り越した幼児性(これも重要)。かと思いきや、そのか弱いはずの少女が邪悪な笑みを浮かべ、敵手を嘲り、悪魔のような指し筋で手玉に取る。そして一人称がオレになる(ここも重要)。
 僕の大好きな殺戮ビッチロリである。フリークスである。しかも姉である。ギャップ萌えである。そしてそれだけに留まらない。
 そのヒロインを魅せるための構成も巧いのだ。第一章冒頭で殺戮ビッチっぷりを披露してくれるのだが、それが見事な「引き」になっている。時間軸が遡り、スィンとネムの出逢いの場面、日常(姉成分はスポイルされるがワガママお嬢さんのネムも可愛い)と、キャラの日の当たる面が描かれる。そしてそれによってディール時の悪辣さが演出される。
 もう一度言うがネムが可愛い。


 そして本作で僕が最も注目しているのがこれ。

・悪堕ちメインヒロインとの死闘による成長

 ネタバレ甚だしいが、物語終盤、ネムはスィンと敵対する。そしてスィンは、ネムに自分の意思を示すために成長し、真に自分らしい指し筋に目覚めることとなる。
 この構造は巧いな、と感じた。主人公に力を与えるメインヒロインを悪堕ちさせ、その出会いによって得た力を克服させる。通常、主人公はヒロインとの絆を深めることにより、ヒロインによって得た力を増し、巨悪に立ち向かう。しかし本作は、ヒロインによって得た力に自力で打ち勝つことによって、主人公の成長を明示する。ボーイ・ミーツ・ガールの一つの手法として評価の価値があると考える。




 で。
 ここからは、僕の好き勝手な与太を垂れ流すスペースです。

・人工の天才である必要性
 作品内で、ネムは自閉症的な傾向(より万全を期すなら高機能自閉症)を示す。数を数えるように事物を認識し、状況を演算するという機械的な思考然り、年齢不相応な言動然り、他者の言葉を疑えないこともまた然り。
 それは彼女の特殊な生育環境に起因する。四角い部屋の中から出ることなく、壁の傷や降り積もった埃を「数え」ることのみをずっと続けてきた。それにより破格の観察力と演算力を手に入れることとなった。そしてそれが、事物のカテゴライズなどを苦手とする自閉症患者独特の思考のクセに繋がる。事実をあるがまま、見た額面通りに処理するのだ。そして思考は機械的で、融通の利かないものとなる。
 だが、ネムは世間一般に言われる発達障害を持っていない。ネムの歪みは、「認知」でなく「認識」にあるからだ。発達障害は先天的な微細脳機能障害から生じる。これに対して、ネムの思考のクセは、特殊な生育環境によって形成されたものだ。肉体的な障害も含めて、ネムは人工のフリークスとなってしまった。これによって彼女の父親であるチャールズ・リスタデールの異常性が強調され、それに伴ってネムの悪魔的な頭脳は説得力を増す。
 だがここで一つの問いが生じる。
 なぜわざわざ、ここまで執拗にネムをフリークス化せねばならなかったのか?
 まぁ、「姉の椅子になりたい! 天才で悪魔で天使で……ぶっちゃけ俺なしには生きられない姉とか欲しい!」という作者の趣味も多分に含まれていただろう。
 が、ここには実にサブカルチャー的な必然性があった(と僕は考える)。
 ラノベやマンガにおいて、登場人物がギフテッドのような「生まれつきの天才」の一言で済ませられない、という事情がある。なぜ天才なのか、読者が納得できるように説明しなければならない……つまり、天才であることの理由付けが必要になる。サヴァン症候群のような先天的な障害の反動なのか、トラウマによって歪められ偏執的な人格が形成されたのか、といった。まぁ、羽野海チカ『3月のライオン』『ハチミツとクローバー』などが代表的だろう。天才的な能力を得られるまでの過程やそれによる人格の歪みなんかも人情話や悲劇にしてしまえば読者の共感が得られるのは確かなので、有効な手法ではある。

 まぁとりあえず、天才に理由なんか要るかよ、無意識のうちに人よりも多くを学び豊かな発想が湧いてくるから天才なんだろうがよ、天から賜った才なんだからよ、狂人や秀才とは違うんですよ、天才に理由を求めて理解できる範囲に貶めるなんざ凡人思考なんだよ、と無意味なボヤキを入れて〆ることとしよう。

3月のライオン (1) (ジェッツコミックス)

3月のライオン (1) (ジェッツコミックス)

ハチミツとクローバー (1) (クイーンズコミックス―ヤングユー)

ハチミツとクローバー (1) (クイーンズコミックス―ヤングユー)

*1将棋を題材にした団鬼六の『真剣師小池重明』は未読なので比較はできませんが

2011-04-29

[]「バイク嫁」についての雑感

吸血殲鬼ヴェドゴニア―WHITE NIGHT (角川スニーカー文庫)

吸血殲鬼ヴェドゴニア―WHITE NIGHT (角川スニーカー文庫)

ブラスレイター VOL.1 [DVD]

ブラスレイター VOL.1 [DVD]

『ブラスレイター』は、『ヴェドゴニア』で果たせなかった「バイクを嫁にする」という男の浪漫への再チャレンジだったのではないか。

などとpostしておいてなんだが、これは間違いであり、一方で正しくもある。

ブラスレイター』のジョセフが恋をするとしたら、それはバイクの妖精さんであるエレアに対してであって、ガルムにではない *1 。ガルムで擦りつけオナニーをするにしても、彼の頭にあるのはエレアの艶姿(もちろん人間型だ)であり、ぶっかける先もエレアの立体映像だ。つまるところ、彼は「バイク」に欲情してはいないということだ。
邪道なのだ。
スクラップド・プリンセス』に例えるなら、ドラグーンそっちのけで対人インターフェースであるゼフィリスとイチャつくということ(というかゼフィリスの存在意義はそれだと思われるのでアレだが)。

機械と人間との道ならぬ恋……ああ、結構。大いに結構。しかし、だ……
見た目が美少女じゃ台無しじゃないか。
そりゃ、コンテンツであるからにはキャラクターのヴィジュアルが重要になり、見目麗しい美少女の方が売れる、という理屈は分かる。
だが、美少女相手なら天使だろうが悪魔だろうが機械だろうが金魚の生まれ変わりだろうが不定形生物だろうが欲情できるのがオタクというもの。当事者が持つ忌避感や背徳感は共有できない……「いいからさっさとファックしろよ」という非難すら出るだろう。

そこで、『吸血殲鬼ヴェドゴニア』における、ヴェドゴニアとデスモドゥスの関係に視点を移そう。
たしかに、ヴェドさんはデスモドゥスに欲情しなかった。あくまで機械、ただの道具として扱った。
しかし、彼はデスモドゥスとのツーリングで絶頂することが可能だろう。デスモドゥスの性能に酔い痴れ、バイク=機械である相棒に惚れ込んでいるのだ。
あくまでも、バイクである、「くん」でも「ちゃん」でもない、デスモドゥスに惚れるのだ。
恋愛感情はなくとも、崇高な信頼関係がそこにあった。
ネタバレ自重するが)結果的に、ヴェドゴニアはデスモドゥスを乗り捨てる。愛機の最期に涙を流すことなく、振り向くことさえなく、道具として使い潰す。だがそれだけに、

「デスモドゥス……お前は最高のマシンだったぜ」

この感謝を乗せた別離の言葉が味わい深い。
邪な欲望ではないのだ。バイクとして、あくまで「道具」としてのデスモドゥスに愛着を持っていたのだ。
これこそが、「愛機」への情の示し方なのだろう。
美少女に対する恋ではないのだ。あくまでも、物言わぬ機械に対しての、言葉すら必要のない、一方的な想い
まさに、「〜〜は俺の嫁である。


……と、一見綺麗にまとめておきながら、また新たに一つの疑問が生じることとなる。
「もし、エレアに立体映像で表現される肉体がなく、彼女がただのAIプログラムであったなら」
こうなると話は別である、エレアというキャラクターの肉体が、ガルムと=で結ばれることとなる *2 *3
そして、喋るバイクとしてのエレアが誕生する。モンスター・マシン、戦友としての信頼すらエレアに向くこととなるのだ。
そう、僕ともりやん氏(@catfist)が当初想定していた「バイク嫁」の誕生だ。
心は女の子、でも体はバイク……切ない恋心に高鳴るエンジン。

これでようやっと、もりやん氏曰くの、

二足歩行生物と二輪走行車輌の恋

へと行き着くことができるわけか。

*1:未視聴の方に対しての補足になるが、エレア=バイクに搭載されている立体映像によるイメージ付きのAI、ガルム=バイク本体、である

*2:エレア本人からしてみれば所詮は映像なのであって、最初から、物理的接触を持てるガルムが肉体なのであろうが、視聴者からしてみたらその人格を視覚的に表現している立体映像の方こそをキャラクター・ヴィジュアルとして認識しているはず

*3そしてこのpostに繋がるわけである