『海からの贈りもの』  落合恵子の翻訳の問題点

2010-01-06

   第1回  落合恵子が訳した『海からの贈りもの』はひどい翻訳

アン・モロウ・リンドバーグ*1の代表作である Gift from the Sea の邦訳は、吉田健一の翻訳で1956年に*2新潮社から『海からの贈物』として出版され、のち1994年に落合恵子による新訳が『海からの贈りもの』として立風書房から出版された。どちらも長い年月にわたって読まれている本だと言えるだろう。

 

だが落合恵子による『海からの贈りもの』は翻訳がひどい。これは落合の翻訳には誤訳が多いという程度の問題ではない。落合は著者の原文に対し、身勝手な歪曲や改変を意図的に繰り返し行っている。それに気づいたのは半年ほど前のことで、翻訳家である山岡洋一氏の 「翻訳通信」 というサイトを見つけ、そこで吉田健一訳の『海からの贈物』と落合恵子訳の『海からの贈りもの』の訳文を比較して論じている記事を読んだことに始まる。リンドバーグ海からの贈物吉田健一翻訳 

とは言え、そこで落合の翻訳が強く批判されていたわけではない。山岡氏が引用した例文は冒頭のごく一部分に過ぎず、またその論旨は、吉田訳が文句なしの名訳でありこれに劣る落合訳も悪くはないがそれも下敷きにした吉田訳があってのこと、といった穏便なもので、吉田訳がいかに名訳であるかを論じるために落合訳が引き合いに出されている形だった。*3

私が読んでいたのは吉田訳の『海からの贈物』で、これに馴染んでいた。そしてちょうど 「翻訳通信」 の記事を目にする少し前に原著を購入したところであったので、これを機に原文と比較しながら二つの翻訳を読んでみようという気になり、落合恵子による『海からの贈りもの』も入手することにした。最初は、原著を読みつつ二つの翻訳の文体的な違いを見てみよう、程度の考えだった。

ところが落合訳の『海からの贈りもの』を読み始めるとほんの数ページで強い違和感を覚える箇所が幾つか目にとまり、それらを原著に照らし合わせてみると原文と大きく違っていることがわかった。それ以降は読んでは付箋を次々とページに貼り付けていくような仕儀となった。そして原著と比較しながら落合訳を全て読み通した結果、単なる誤訳にとどまらず、訳者の落合恵子による意図的な改変や加筆、歪曲などが多いことが明らかになった。落合恵子著 著作 著書 著者作品 落合恵子翻訳 海からの贈り物

 

落合恵子による『海からの贈りもの』は端的にひどい翻訳である。吉田健一訳の『海からの贈物』と比較して見ると一段劣る、相対的に劣る、どころの話ではない。それが翻訳者の無知や誤解から生じた単なる誤訳程度の問題だったら、わざわざこの様な形で取り上げて批判を加えることもなかった。だがこの落合の翻訳はそんなものではない。落合は完全に承知の上で身勝手な訳文を作っているのであって、著者であるアン・モロウ・リンドバーグの言葉を蔑ろにし、訳者が自分に都合が良いように原著を歪めた翻訳だと言わざるを得ない。

堅く難しい文体の吉田訳に対して女性らしい言葉で書かれた読みやすくわかりやすい落合訳、といった素朴な感想を*4ときに見かけるが、これは翻訳者の文体や感性の違いとかで片付けられる問題ではない。もちろん英文解釈における考えの相違でもない。また軽々しく吉田訳と落合訳それぞれ味があってどちらの訳も良いなどと言うのも無責任な態度であると言わざるを得ない。一方の翻訳が正確であるのに対し、他方の翻訳は不正確であるのみならず不誠実であるのだ。

海からの贈り物リンドバーグ吉田健一 落合恵子絵本クレヨンハウス翻訳

翻訳を行う者には著者とそして読者に対しての責任*5がある。原文解釈の幅を越え出た間違いであることが明白な翻訳に対しては、ちゃんと指摘が為され時に批判が加えられて然るべきである。落合恵子ブログ 落合恵子 ブログ

落合は訳業も多い作家であるが、『海からの贈りもの』の翻訳からは著者の言葉を軽々しく扱う様が見て取れた。一事が万事*6と言う。また今日では原著は簡単に手に入りこうした形で誰でも発表することが出来る。デタラメな翻訳がばれずに済んだ昔とは違う。このような翻訳が見過ごされるばかりではないことを示しておこうと思う。

ならばいっそ版元の立風書房あるいは落合恵子が代表を務めるクレヨンハウスにでも宛てて直に問い質すべきなのかとも考えた。しかし立風書房は学研に吸収され既に存在しないという。またこのような歪曲や改変を承知の上で平然と繰り返すような人間にそもそもまともな対応を期待することはできない。そうして今後改版でもあった際に、何食わぬ顔でこっそり訂正されているというのも一層業腹になる。何より落合恵子の翻訳の問題は単なる過誤ではなく欺瞞なのであり、落合はそのような翻訳をしておきながらやましさを少しも感じることがない人間であるということは明らかになった方が良いと考える。敢えて表沙汰にする次第である。



次の回より例文を挙げてそれらの問題点を具体的に指摘していく。

勢い批判が細かな点にまで及ぶこともあるが、それは落合の翻訳ぶりへの怒りの大きさの故であるとご理解いただきたい。

 

 

*以降の記事は下方向にあります。(従って内容の順序は日付と逆行しています。)

*翻訳のひどさに応じてカテゴリー分けをしてあります。

*引用文の太字強調部分はブログ筆者によるものです。

青文字の訳文はブログ筆者によるものです。落合恵子さんブログ落合恵子さんプロフィール落合恵子クレヨンハウス海からの贈りもの

*落合恵子訳 『海からの贈りもの』 は1996年版のものです。

*吉田健一訳 『海からの贈物』 は平成17年版のものです。

*英語原文は2005年版 Pantheon Books のものです。

 

 

 

 

追記

先頃、山岡洋一氏が逝去されたことを知りました。

山岡氏の翻訳論に触発されることがなければ、落合恵子による『海からの贈りもの』を検めることもなかったでしょうし、その翻訳の問題をこうして明らかにすることもなかったでしょう。そして何よりアン・モロウ・リンドバーグの英文をここまで意識的に読むこともなかったでしょう。深く感謝致します。

山岡洋一様、ありがとうございました。

2011年 10月6日

 

落合恵子プロフィール:1945年1月15日生まれ、栃木県宇都宮市出身。1967年に明治大学文学部英米文学科を卒業。同年、株式会社 文化放送に入社する。若者向け深夜ラジオ番組 「セイ!ヤング」 などのディスクジョッキーを担当し、レコードまで出される程のほとんどアイドル的とも言える人気を得た。文化放送在職中、1971年に新書館より詩とエッセイを集めた『おしゃべりな屋根裏部屋』が最初の著作として出版され、1973年に『スプーン一杯の幸せ』が祥伝社より出版される。1974年に文化放送を退社し、本格的な作家活動に入る。著書、訳書など多数。また作家活動と並行して1976年には絵本や児童書の専門書店 「クレヨンハウス」 を東京の青山に開いた。近年では講演やTV番組のコメンテーター、雑誌『週刊金曜日』の編集委員などの活動などを通じてもその名前が知られている。 

 

*1:アン・モロウ・リンドバーグ Anne Morrow Lindbergh (1906年-2001年 )はアメリカの女性作家であり、また女性飛行家の先駆けの一人としても知られている。大西洋単独無着陸飛行の偉業を成し遂げて一躍その名を世界に知らしめたチャールズ・リンドバーグと結婚、自らも飛行機操縦に関する知識と技術を学んで彼の飛行に同行するようになる。その体験をもとに最初の作品である North to the Orient を1935年に発表した。1955年に発表された内省的エッセイ Gift from the Sea は彼女の代表作として長く読み続けられている。

*2:文庫本として出版されたのが1967年で、もとの単行本は原著出版の一年後である1956年に出されている。

*3:山岡氏は落合訳の『海からの贈りもの』の全部に目を通したわけではないのだろう。全てを読むまでもなく優劣は明らかだと判断されたのに違いない。山岡氏の記事の表題は 『本物と偽物』 である。

*4:落合の翻訳を 「わかりやすい、読みやすい」 と喜ぶ向きは理解できないが、落合の『海から贈りもの』は原著を満足に読まずに吉田訳を自分の理解力のレベルでリライトして出来たと思われる代物で、彼らの 「わかりやすい、読みやすい」 という評価はそのような意味においては確かに首肯できる。

*5:はっきり言ってしまえば、落合の行為は著者と読者に対する裏切りである。

*6:言うまでもなく、私は落合の他の翻訳も怪しいものだと疑っている。長年の愛読書だ、これほどまでに好きな本だ、などと思い入れを熱心に語ってみせる本に対してすらこれだけ身勝手な行いができる人間であるのだ。それで他に落合の翻訳の評判は何かないものかと探していると、コラムニストの小田嶋隆氏が落合の手がけた洋楽の訳詞についてブログで言及されているのを見つけた。 「自分勝手な意訳」、 「腐った訳詞」「殺人的にひどい翻訳」 だと酷評されている。おそらくその通りだろう。

 

 

 

 

TyuricoTyurico 2010/10/13 17:42 ばか貝様へ
頂いたコメントを間違えて削除してしまいました。申し訳ありません。

5月からほとんどPCを見られない状態だったため対応が遅くなり失礼致しました。
長文をお読み頂きありがとうございます。
最初は吉田訳との文体の比較程度のつもりで読み始めたのですが、落合訳を読み終えた時は私も怒りを禁じ得ませんでした。

tk_kappatk_kappa 2012/06/16 02:22 有益な情報です。参考になります。

TyuricoTyurico 2012/06/16 15:55 tk kappa様
お読み頂きありがとうございます。
ここの文章に少しなりとも役立つところがありましたら幸いです。

TelperionTelperion 2014/05/19 00:21 取り上げる本こそ違いますが、同趣旨のブログを書いています。ここに初めて来たのは2012年6月に自分のブログを開いたのと同時期で、先達の存在に勇気をいただけました。

落合恵子本と私のネタ本のあまりの類似に驚きます。「原著者の言葉と称して自分の主張を書く」という点は、「主張」を「先入観」に置き換えるとそのまま私のネタ本。ほかにも「何を言いたいのか分からない訳文」とか「伝道者みたいな言い草のあとがき」とか。

大きな違いは、私のネタ本の原本は伝記としては底が浅く、さして素晴らしい本ではないということ。それに引き換え、名著を汚されたTyuricoさんの怒りややりきれなさは、恐らく私を上回るでしょう。でも、落合訳もいまだに出回っているとはいえ、恐らく新潮文庫の吉田訳のほうが広まっているのは救いだと思います。

TyuricoTyurico 2014/05/19 22:35 Telperion様、
お読みいただきありがとうございます。
返礼のコメントをきちんと書こうとすると手間取りそうで、とにかくお礼を先にと思い書き込みいたしました。
まずはこれまでにて失礼いたします。

TyuricoTyurico 2014/05/28 18:46 あらためましてTelperion様、このブログをお読みいだたきありがとうございます。
このブログを始めてより常々、原著は簡単に買えて誰でも発表ができる今の時代なのだから、目に余るひどい翻訳があればやはり指摘したほうがいい、それで翻訳者、出版社や編集者が 「これはあんまりテキトーなこともできないな」 と少しは気を引き締めるようになったほうがいいと思っておりましたので、あのコメントをいただき嬉しくまた心強く思う次第です。

Telperionさまが取り上げられているのはヌレエフの伝記の翻訳本なのですね。(こう言いましてもバレエについてはほとんど知らずヌレエフとニジンスキーの名前を知っている程度なのですが。)
まだ少しずつブログを拝読している段階に過ぎませんが、それでも 『ヌレエフ―20世紀バレエの神髄 光と影』 がかなり問題の多い翻訳であることを示す間違った訳文が幾つも見られました。仏文読解の能力も低いのでしょうが、訳者の抱いている単純で通俗的な天才のイメージ(芸術の才能は素晴らしいが人間的には問題が多いというような)が先に立ってしまっているように想像されます。
これからゆっくりですが引き続き読ませていただきますので。

vxgasvxgas 2014/10/20 18:42 久しぶりに「リンドバーグ夫人」の当該作品を読み返すべく、まずは書評をネットで探したら貴サイトにヒットした次第です。
いやいや驚きです。そもそも新訳が出ていたこと、著者名が「夫人」ではなく氏名表記となっていたことも知りませんでしたが、それ以上に驚いたのは内容にまつわる新事実です。
訳の仕事を請けたのであれば、やはり客観的な姿勢は失ってはいけませんよねぇ。
何か書評を盛り込みたいのであれば、別途「リンドバーグ夫人に関する考察」とでも題打って発表するべきじゃないですかね。
これでは、翻訳家・翻訳業全体に対する信頼が揺らいでしまう気がしますが。。

TyuricoTyurico 2014/10/20 22:28 vxgas様、
このブログをお読みいただきありがとうございます。
仰られる通りかと思います。
少なくとも落合恵子の翻訳は全般的にまず疑いの眼を以て見る必要があると私は考えるようになりました。

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2010-01-05

   第2回  到底ありえない 「柔軟性」 という訳語

落合恵子の『海からの贈りもの』は最初からこんなデタラメな訳文が出てくる。

重要な言葉が全く違う意味の言葉にいくつも書き変えられている。

砂を掘り返して宝を探すというやりかたは、せっかちであり、欲張りであり、さらには自然への配慮のない行為である。

海は、柔軟性こそすべてであることを教えてくれる。柔軟性と、そして率直さ。(p.13)


それに対し、吉田健一訳は原文に則った適切な翻訳になっている。

吉田訳に親しんでいたという落合も当然これを参照しているはずなのだが。

地面を掘りくり返して宝ものを探すというのはせっかちであり、欲張りであるのみならず、信仰がないことを示す。忍耐が第一であることを海は我々に教える。忍耐と信仰である。 (p.15)


そして肝心の原文は以下の通りである。

To dig for treasures shows not only impatience and greed, but lack of faith. Patience, patience, patience, is what the sea teaches. Patience and faith. (p.11)


まず落合が 「柔軟性」 と訳した原文は 《patience》 であり、意味は 「忍耐・辛抱強さ」 である。

また 「率直さ」 と訳された原文は 《faith》 で、意味は 「信念・信仰」 である。

さらに 《lack of faith》 は 「自然への配慮のない行為」 などと訳されているが、 「信念・信仰の欠如」 といった意味である。

どれも全くありえないデタラメな訳語であり、できることならこんなものに翻訳とか訳語とかいった言葉を使いたくもない。

落合恵子クレヨンハウス

なかでも原文で著者が3回も重ねて強調している 重要な 《patience》 という言葉*1に対して、全く意味の違う 「柔軟性」 などという訳語を当てるなど、落合は一体どういうつもりなのか。原文はごく簡単な英文であり、また落合も何度も読んだという吉田健一の訳文もある。当然のこと間違いでこんな訳文ができるわけがない。原文と全く意味が違うことは当然知っていて落合はこのようなデタラメな訳語を当てているのだ。 「柔軟性」 だの 「率直さ」 だのと言うのは落合自身の価値観でしかない。著者の言葉を蔑ろにし、訳者が大事だと考える価値観を優先させて訳文に紛れ込ませているのであり、認めがたい愚行だと言わざるを得ない。

それに著者の原文は 「柔軟性こそすべてある」 などという脈絡もない極論を出し抜けに言い出すようなおかしな文章ではないし ( 一体なぜ 「柔軟性がすべて」 だという帰結に突然なるのか。)、 「柔軟性こそすべて」 と断言したばかりなのに、直後に 「そして率直さ」 などと更に追加をするような間抜けな文章でもない。

そのうえ落合は 《faith》 という単語を 「率直さ」 と訳しておきながら、それを含む 《lack of faith》 という表現には 「自然への配慮のない行為」 などというとんでもない訳を当てている。 《lack of faith》 というのは 「 《faith》 の欠如」 という意味であるのに。こんなものはもはや誤訳ですらない。

長年の愛読書とまで呼ぶ著作*2に対して、なぜこんな思い上がった図々しい行為ができるのか全く理解できないが、こんなことは大した問題ではないと落合が考えていることは間違いない。 「自然への配慮のない行為」 だとか何やら立派なことを言っているが、著者であるアン・モロウ・リンドバーグの言葉には配慮しないのか。


《patience》 に 「柔軟性」 という訳語はどう考えても無い。



 

講談社英語文庫版。安価で買いやすく、また巻末の注釈もあって便利な本だが、その注釈に幾つか誤りがあるのが難点。現在は品切れの様子。

 

 

 

 

*1《patience》 は著者が結びにおいても記している言葉であり、この著作の重要な言葉の一つである。気まぐれに記された言葉などではない。もちろん落合が好き勝手に書き変えて良いような表現ではない。

*2:「これほど好きな『海からの贈りもの』を、あらためて翻訳すること……。それは二十数年来の読者であるわたしにとって」 訳者あとがき (p158)

 

 

 

 

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2010-01-04

   第3回  落合恵子が 「忍耐」 という訳語を書けない理由

《patience》 は通常、 「忍耐」 あるいは 「辛抱強さ」 と訳される。落合恵子がなぜそれに全く意味の違う 「柔軟性」 という訳語を当てたのかは*1理解できないが、「忍耐」 という訳語を書かなかった理由の方なら察しがつく。

やはり Gift from the Sea の読者の大部分は女性である。もちろん落合の読者については言うまでもない。考えるに、落合恵子は 「女性」 と 「忍耐」 を結びつけることを忌避したのではないか。もっとあからさまに言うなら、女が耐える、女が我慢するというのが落合にはそれこそ我慢ならなかったのだろう。

なるほど、もし 「海は忍耐こそすべてであることを教えてくれる。」 と訳してしまったら、女性たちに向けたメッセージとしてフェミニストの落合恵子には到底認めることができない表現になってしまう。*2 フェミニズムを看板にしている作家が女性たちにまさか忍耐の重要性などを説くわけにはいかない。それで落合は著者の言葉を否定したのだろう。落合恵子フェミニズム


では落合が否定したこの 《patience》 は本来どのように読むべきだろうか。

だが何も難しいことはない。原文をちゃんと読んでいれば明確な手掛かりがすぐ近くにあることに気づく。著者はこの 《patience》 を直前にある 《impatience》 に対置しているのであり、言葉の意味は当然そこから考えなければならない。*3 そしてこの 《impatience》 とは 「せっかち」 という意味であり、 《patience》 はその 「せっかち」 を戒める言葉として記されているのである。


The sea does not reward those who are too anxious, too greedy, too impatient. To dig for treasures shows not only impatience and greed, but lack of faith. Patience, patience, patience, is what the sea teaches. Patience and faith. (p.11)


この原文を吉田健一は次のように訳している。

海はもの欲しげなものや、欲張りや、焦っているものには何も与えなくて、地面を掘りくり返して宝ものを探すというのはせっかちであり、欲張りであるのみならず、信仰がないことを示す。忍耐が第一であることを海は我々に教える。忍耐と信仰である。 (p.15)


「忍耐」 といっても、辛いこと嫌なこと理不尽なことに耐え忍ぶという意味合いではなく、自分で砂浜を掘り返して貝殻を手に入れたいと思うはやる気持ちに対して、そこを我慢しなさい、こらえなさいと言っているに過ぎない。

「貝殻を求めて砂を掘り返したいところを我慢しなさい」 ということが直接の意味であり、さらにこれを抽象的に求めれば、 「はやる気持ちを抑える」、 「自分から手を出したいところをこらえる」 という意味合いでの 「忍耐」 であると見当がつく。*4

ここでの 「忍耐」 とは、 「自分から動きたい気持ち」、 「待ってはいられない気持ち」 に対して 「そこを我慢しなさい」 と言っていると見て良い。

要するに 「待ちなさい」 ということだ。

ここで著者は、女性たちよ辛いことがあっても耐えなさい、何より辛抱が大事です、と説いているわけではないのだ。もちろん落合の 「柔軟性」 など出る幕も無い。

 

それでいささか解りにくい 《lack of faith》 という箇所も理解することができるだろう。吉田健一訳では 「信仰がないこと」 と訳されており、かつて読んでいてなぜ話が急に 「信仰」 のことに及ぶのか理解できなかった。もちろん 「信仰」 という訳は至ってもっともなものなのだが、今になってみるとこの訳語もあまり適当とは言えないように思われる。何か無宗教であることを難じているようにも読めてしまうが、おそらくこれはキリスト教だとかの具体的な宗教の信仰の有無のことではなく、自分から砂浜を掘り返して貝殻を漁るような行為は 「到来をじっと待つことができない」 ことであり、それは 「信じることができない」 ことであるという様に解釈できるだろう。



そして、この 《patience》 の意味を確かめながら原文を読んで初めて理解できたのだが、そもそもこの The Beach の章全体が 「待つ」 という述語を基調として綴られていると言って良い。

まだ読んでいない本、返事を出しそびれたままの手紙、作家としての仕事、そんなあれこれを抱えて勇んで浜辺にやってきたものの、すぐに浜辺のゆるやかな時間と空気の中に当初のはやる気持ちは溶けてしまう。考えることすらせず何もしないでそのまま過ごし、そうして二週間目の或る朝、ようやく意識に目覚めが訪れる、というように著者は書いている。

ここでは能動的な行為や確固とした意思というような主体的なものは遠ざけられていて、そのことは著者が、 《drift》 「漂う」、 《unconscious rollers》 「無意識の波」、 《chance treasures》 「偶然手にした宝物」、 《choiceless》 「選んだりしない」、というような共通性のある言葉を多く用いていることからも窺える。  

 

そうしてこの章は 《―waiting for a gift from the sea.》 の一行で閉じられる。



Gift from the Sea

Gift from the Sea

次女のリーヴ・リンドバーグが序文を寄せている50周年版。落合訳の『海からの贈りもの』もこのPantheon Books版を底本としている。

安価なペーパーバックだが紙質や印字が良く、またグラデーションのかかった薄いブルーに銀色の箔押し文字というシンプルな表紙も美しい。

落合恵子クレヨンハウス

 

 

 

 

*1:「そう、ほんとうの忍耐強さとは、柔軟性によってこそ可能になるのだから……。」 などと悪びれもせずに言い出すかもしれない。

*2:もっとも著者は 「〜こそすべてである」 などと極論してはいないのだが。原文を直訳するなら 「忍耐が海の教えてくれることである。」 といった辺りで、そこを吉田健一は 「忍耐が第一であることを海は我々に教える。」 という日本語にしている。ところが落合は吉田訳と原文との対応を確かめないまま、 「第一である」 という表現を 「こそすべて」 などと無闇に強めていて、その結果、落合の訳文は原文からますます遠ざかっている。

*3:単語の綴りが示すように、 《impatience》 という言葉は 《patience》 が基になっていて、 「 《patience》 を欠いていること」 という形である。今回私は原文に当たり、吉田訳の 「せっかち」 と 「忍耐」 という訳語の間には実は明確で密接な対応があったことを知ることができて驚きと喜びを少なからず覚えた。実際に原著に触れてみるとこういう発見の驚きと喜びがあり、そしてそれを大事なものだと考える。はたして落合は原著をちゃんと自分で読んだのだろうか。

*4:軽薄と言うか浅はかと言うか、著者アン・モロウ・リンドバーグが繰り返し説いている 《patience》 という言葉を無視して訳者の落合が自分の言葉を優先させたのであり、著者の言葉が何を言おうとしているのか聴き取ろうとせず自ら語り出してしまった落合は、正にその 《patience》 が欠落している。アン・モロウ・リンドバーグの表現にならえば、落合は自分で好き勝手に砂浜を掘り返しては貝殻を漁る者に他ならず、落合恵子はこの著作 Gift from the Sea を翻訳する資格がない、翻訳してはいけない人間だということになるだろう。落合のもとに 「海からの贈りもの」 が届くことは決してない。

 

 

 

 

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2010-01-03

   第4回  落合恵子はちゃんと自分で原文を読んで翻訳したのかと疑う

落合恵子の訳文には、本当に自分で一つ一つ原文を読んだ上で訳したのかと疑わせる不自然な点が多く見られる。

以下は落合の訳。

そうして二週間目のある朝。漂うだけだったわたしの心が目覚め、働きはじめる。都会のそれとは違う、あくまでも、海辺での覚醒、海がもたらす智恵とでも言ったらいいだろうか。目覚めた心は、海辺に砕ける波とともに漂ったり、戯れたり、巻き上げられたりしはじめる。(p.12)


原文は以下の通りである。

And then, some morning in the second week, the mind wakes, comes to life again. Not in a city sense―no―but beach-wise. It begins to drift, to play, to turn over in gentle careless rolls like those lazy waves on the beach. (p.10)


どうも落合は簡潔な叙述というものに耐えることが出来ないらしい。著者は 「漂うだけだった」 などという余計な言葉を書いていない。 この勝手な書き加えは単に無駄であるばかりでない。落合は文章の脈絡を考えもぜず*1軽々しく単に雰囲気だけで言葉を並べていて、その結果、文章は前後で辻褄が合わなくなってしまっている。漂うだけだった心が目覚め、そして目覚めた心はまた漂いはじめる、などという落合の訳文は余りにずさんなものだ。アン・モロウ・リンドバーグがこんな締まりのない文章を書くだろうかと問うのも空しい。落合の文章は情緒や気分に安易に流され、意味的に破綻してしまっている。


比較に吉田健一訳を上げる。

そして二週間目の或る朝、頭が漸く目覚めて、また働き始める。都会でも同じ形ではないが、浜辺の生活なりにである。それは浜辺に砕ける波とともに漂ったり、戯れたり、静かに巻き上がったりし始める。 (p.14)


吉田健一の 「浜辺に砕ける波とともに漂ったり、戯れたり、静かに巻き上がったりし始める。」 という表現は原文直訳ではない意訳であって平均的な訳文ではない。だが落合の 「浜辺に砕ける波とともに漂ったり、戯れたり、静かに巻き上げられたりし始める。」 という訳文は吉田訳の表現とほとんど同一で、そのまま丸写しにしているとすら言える。*2 そして言い回しに自分らしさを出そうとして、無駄な言葉を書き加えてわざわざ駄目にしているのだ。落合恵子クレヨンハウス

この英文を自分で一つ一つ日本語に置き換えていって落合のあの訳文が出来上がったということは考えにくい。吉田健一の訳文を丸写しにしてそれに無駄に色を付けた結果このような辻褄の合わない文章になってしまったと考える方が自然だろう。



また次の箇所、一見正しいようだが、これも誤りである。

結局いつも、本は一行も進まず、鉛筆の芯は折れ、雲ひとつない空と同じ状態の何も書かれないままの紙を持ち帰ってくるのだが。

 海辺でわたしは、本を読みもしなければ、何も書かない。ものを考えることさえしない。少なくとも、海に来たはじめのうちはそうだ。(p.11)


原文は以下の通り。

The books remain unread, the pencils break their points and the pad rest smooth and unblemished as cloudless sky. No reading, no writing, no thoughts even -at least, not at first. (p.9,10)


結局本も読まず何も書くこともせずいつも海辺から帰ってくるかのように落合は訳しているが、そのような表現は原文には無い。これはあくまで海辺に来て 「はじめのうち」 の話である。これ以降の章を読んでも明らかだが、著者は海辺の滞在中に本を読んだり文章を書いたりしている。

だいたい落合自身も 「少なくとも、海に来たはじめのうちはそうだ。」 と記しているのに、これではまたも前後の辻褄が合わない。

こういう箇所を目にするたびに、落合は本当に原著を読んだのだろうかと不審に思う。


吉田健一訳は以下の通りである。

そして本は読まれず、鉛筆は折れて、紙は雲一つない空と同じ状態のままになっている。読みもしなければ、書きもせず、ものを考えさえもしない。 ― 或いは少なくとも、初めのうちは、である。 (p.13)

 

 

 

 

*1:文章が乱脈であるのは思考が乱脈であるからだ。

*2:例えば、《lazy waves》 を逐語的に訳していけば 「気だるそうな波」 といった辺りがまず大方で、 「砕ける波」 という訳は誰でも同じように思いつくようなものではない。

 

 

 

 

杉本杉本 2013/12/13 00:51 beach-wiseのwiseを知恵としていますね。−wiseは、〜のやり方でとか、〜的にという時に使うように思います(吉田訳はそのようになっています)。もとは知恵という意味なのかもしれませんが。

TyuricoTyurico 2013/12/13 19:51  
杉本さま、コメントありがとうございます。
「beach-wise」 はやはり 「〜のやり方で」 と解するのが妥当だと私も思います。
品詞を変えてまでして 「wise」 → 「賢い」 → 「智恵」 と持って行くのも無理があり、「海がもたらす智恵」 というのは訳者が歌い過ぎな感じがします。

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2009-12-29

   第5回  一休み   「にし貝」 ‐ 《Channeled Whelk》

旧版の新潮文庫の『海からの贈物』は表紙のデザインが全く抽象的なものであったし、また文章からも、著者を思索に導いた貝がどのような姿であったのか、その具体的なイメージを得るまでには至らなかった。新版の表紙は写実的な貝のイラストが描かれたものへと代り、また落合訳の『海からの贈りもの』にも簡単な貝のスケッチが載っているのだが、どちらも特に説明があるわけでもなく、それが作品に出てくる貝なのかどうか知ることはできない。

しかし昔から考えれば信じられないほど画像を探すことが容易になった現在、座したままに文中の貝の姿を探ることができる。以降、そうして見つけたそれらの貝の写真も時々に紹介していく。

掲載していく貝の写真は文中と同じ名前同じ種類のものであるとはいえ、生息場所とか個体の成長度合いとか更に細かい分類とかで違いがあることも考えられるので、これらの写真が著者アン・モロウ・リンドバーグがかつて手にし目にした貝の姿にどれほど近いものであるかわからないが、作品により近づくための一助にはなるだろう。  

  

  

  

f:id:Tyurico:20120426214929j:image

Channeled Whelk*1  

  

  

《Channeled Whelk》、吉田健一訳では 「ほら貝」、落合恵子訳では 「にし貝」 となっている。落合恵子翻訳著作

だが日本語で言う 「ほら貝*2は著者の描写と大きく異なるものであるし、また 「にし貝」 を調べてみても簡素な美しさというのとはだいぶ違った様子の物が出てくる。


《Whelk》 というのはこの類の貝の総称*3であり、 《Channeled》 というのは、 《channel》 が掘られた、 「水路が掘られた」 という意味のようだ。この写真では上面の様子がややわかりにくいが、渦の巻きに沿って溝が深く刻まれているような形状になっている。しかし意外なことに、著者はこの貝の一番の特徴とも言える深い溝のある形状については全く触れていない。

渦巻きはバイオリンの頭部のようでもあり、またギリシャ神殿の柱頭の装飾のようにも見える。言い換えるなら渦巻きの辺りは人工の構造物を思わせると言ってもよい形状を成していて、著者はそこに螺旋階段を見た。



原文では貝の姿がこのように描写されている。

Its shape, swelling like a pear in the center, winds in a gentle spiral to the pointed apex. Its color, dull gold, is whitened by a wash of salt from the sea. Each whorl, each faint knob, each criss-cross vein in its egg-shell texture, is as clearly defined as on the day of creation. (p.16)

 

洋梨のように中央が膨らんで渦が先端に向かって緩やかに巻き上がり、突起はごく小さく、卵の殻のような表面には筋が縦横に走っているというように描写された貝の実際の姿は、このようなものだったかと理解することができる。

 

 

 

 

*1:写真はSeashellGuide.com http://www.mitchellspublications.com/guides/shells/articles/0026/より。色々な貝殻の美しい写真を多数見ることができて楽しい。こちらの Patricia B. Mitchell という方はアメリカの伝統的食文化の研究家と説明するのが適当だろうか。

*2:「ほら貝」 に相当する英語であればむしろ Triton だろう。

*3:他にもPear WhelkLightning WhelkKnobbed Whelk といった仲間が見られる。

 

 

 

 

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2009-12-28

   第6回  女の家事労働はこんなに大変だと何度も勝手に書き加える

ここの訳文は落合の主義主張のための加筆が目に余る。

赤色の文章は全て落合恵子が勝手に書き加えたもので、「女の仕事はこんなにも多い」 と10回も加筆されている。

わたしが選択した妻であり母であるということは、およそさまざまな雑事で構成されている。

 郊外にある一軒の家。その家を維持していくために、わたしたち女が使う労力。わずかでも誰かの手助けがあればいいほうで、ほとんどの場合、それさえも望めない。ということは、女は家事に追われて、自分のことは何もできないということである。*1

 食べもの、住居、料理、買いもの、請求書の整理、さまざまな予定等々。それらのすべてが、女の領域とされている。

( 中略 )それに家族の健康の問題もある。医者や歯医者の予約。診察の時間の確認。各種の薬や肝油やビタミン、そして薬局までのひとっ走りもまた、女の仕事だ。

 精神的、知的、肉体的な意味における教育に関しても、女たちの仕事は尽きない。学校、学校関係の集まり。そのための駐車場さがし。バスケットボールの試合も見なければならないし、オーケストラの練習にもつきあわなければならない。家庭教師とのあれこれや、キャンプの用意もある。さらにキャンプ場に必要な道具を揃え、それを運んでいくのも、女の仕事である。

 それから、衣類のこと。買いもの、クリーニングに出すにしても洗濯するにしても、女の仕事はここにもこんなにある。繕い、スカートの丈を長くしたりつめたり、ボタンをつけたり等々。女の仕事に、これで終りというゴールはない。自分の代わりにそれをやってくれる人を探さなければならない場合でも、探すのも女の仕事である。

 夫や子どもたち、そして自分の友人関係の中で、手紙や招待状を書いたり、電話をしたり、送り迎えに絶えず気を配っていなければならないのも、わたしたち女である(p.21,22,23)



同じ箇所を吉田健一はこう訳している。「女の仕事」 というようなことは一言も言っていない。

私が選んだ妻、及び母としての生活は凡そいろいろな面倒なことで満たされている。それは郊外にある一軒の家と、次には、我々多くのものにとっては全然ないか、或いは殆どないのに近い手伝いの問題、でなければ、家事に追われて何もできないということを含んでいる。それは食べものや住居の問題、料理や、家計簿や、買いものや、請求書や、なんとかして収支を合わせることを含んでいる。 ( 中略 ) また家族の健康ということもあって、医者や、歯医者や、診察の時間や、薬や、肝油や、ビタミンや、薬屋まで出掛けて行くことがその中に入る。また精神的な、或いは知的な、或いはまた肉体的な教育の面では学校や、学校での集会や、自動車の駐車場や、バスケット・ボール、或いは管弦楽団の練習や、個人教授や、キャンプや、キャンプ生活に必要な道具や、輸送の問題がある。それから衣類のこと、またそのための買いもの、洗濯屋、洗濯、繕い、スカートを長くしたり、ボタンを付けたり、或いは自分の代わりにそれをやってくれる人を見付けるということもある。それから私の夫にも、子供たちにも、また私自身にも友達があって、友達が集まるのには手紙や、招待状や、電話、送り迎えのことで絶えず頭を使っていなければならない。 (p.23,24)



全てを引用するまでもないので一部に止めるが、著者の原文は以下の通りである。落合訳の始めから4行までに相当する。

The life I have chosen as wife and mother entrains a whole caravan of complications. It involves a house in the suburbs and either household drudgery or household help which wavers between scarcity and non-existence for most of us. It involves food and shelter; meals, planning, marketing, bills, and making the ends meet in a thousand ways. (p.19)


先に注意しておくが、落合のこの加筆は原文の主旨を強調する類のものではない。原文の主旨は落合の訳文とは大きく異なっている。

落合は、「わたしたち女の仕事はこんなにも多いのだ」 という意味の文章を幾度も加筆して、現代の女たちはいかに多くの仕事をこなさなければならないかという主旨へと原文を変えてしまっているが、この章で問題にされているのは現代の生活の煩雑さ、私たちの現代の生活が望ましい簡素なものではなくなり諸々の雑多なことがらで埋め尽くされていることであって、なぜ女の仕事はこんなにも多いのかということが問題にされているのではない。著者は、私たちの生活を快適便利にしてくれる近代的な道具や、友人近隣との交際なども時に煩雑さをもたらす、と述べているのである。


「わたしたち女が使う労力。」

「女は家事に追われて、自分のことは何もできないということである。」

「それらのすべてが、女の領域とされている。」

「また、女の仕事だ。」

「女たちの仕事は尽きない。」

「それを運んでいくのも、女の仕事である。」

「女の仕事はここにもこんなにある。」

「女の仕事に、これで終わりというゴールはない。」

「探すのもまた女の仕事である。」

「絶えず気を配っていなければならないのも、わたしたち女である。」

 

あきれたことに落合はこのわずか2ページ程の間に 「わたしたち女の仕事はこんなにも多い」 と10回も書き加えているが、こういったうるさいアピールを著者は一切していない。



また原文が 《The life I have chosen》 と始まっていること、そしてまた落合恵子の訳文も 「わたしが選択した」 と始まっていることに留意してほしい。先に述べたようにこの章は、簡素な生活の重要性と、現代の社会ではそれが容易でないことについて語られている。そしてアン・モロウ・リンドバーグは自分自身の生活を省みて、それがまるで簡素ではなくいかに煩雑なものであるかを具体的な例を幾つも挙げて詳述している。上に引用した文章はその一部分である。この箇所はあくまで、著者自身が 「いまの私の生活はなんと煩雑なものであるか」 ということを語っている文章なのである。

ところが落合は、 「わたしが」 で始めた話をすり替えて、いきなり 「わたしたち女」 の問題に拡げてしまっている。 「郊外にある一軒の家」 という具体的な記述はもちろん著者個人の事情を示しているのに、次の 「その家」 から突然 「わたしたち女」 という一般的な話題に変えられてしまっているのだ。誰もがみな郊外に一軒家を持っているわけもないのに。  

「郊外にある一軒の家」 というのは、コネティカットにある著者の自宅を指しているのだし、この後の原文でも 《my modern house》、《my husband's, my children's》 と記されていて、著者が自らの生活を振り返って述べていることははっきりしている。


吉田健一はこの著作を、一人の女が自分自身を相手に続けた人生に関する対話*2 と評しているが、落合はそれを落合が主張するための文章に変えてしまっている。そしてそれがこの箇所に限ったことではない。そのため落合の翻訳は原著の魅力を大きく損なってしまっている。*3

程度の低い一人よがりの理解にすぎないにせよ、落合が『海からの贈物』にとにかく感動したということくらいはさすがに嘘ではないのだろう。だが落合の翻訳ぶりを見る限り、自分が感動を受けた作品を他人に正しく伝えるということにはほとんど関心が無いのだと言わざるを得ない。自分に感動を与えた作品に対しての謙虚さというものが落合の翻訳には見い出せないのだ。落合恵子クレヨンハウス

  

  

 

 

*1:この箇所は吉田健一にも落度がある。吉田訳でも 「家事に追われて何もできない」 と言う表現があるが、これに相当する原文は見出すことができない。著者はそこまで言ってはいない。しかし落合恵子は検めることもなく更にそこを強調して訳している。ということは、落合は誤訳をそのまま引き写してしまっているということであり、もし落合がまず自ら原文を読んで解しそれから自力で訳文を作っていったならそうなるはずはないのだ。こういう次第から、落合恵子は原文を読んで自分で訳した後に吉田訳を参照したのではなく、吉田訳か或いは誰か他の下訳を自分に良いように書き変えたのちに、参考程度に原文に目を通しただけなのではないかと疑われる。

*2:新潮文庫 『海からの贈物』 (p.130)

*3:私は翻訳を通して著者の言葉を聞きたいのであって、訳者の偏った主張が聞きたいわけではない。

 

 

 

 

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2009-12-26

   第7回  一休み   「やどかり」 が意味するもの

にし貝の章の冒頭で、 「やどかり」 がこの貝殻を住処にしていたということが語られている。

Gift from the Sea では、貝殻が著者の思索の端緒となっているのだが、その姿形だけでなく、 Moon Shell《Argonauta》 のように貝の呼び名もまた著者に大きなインスピレーションを与えている。

「やどかり 」 は英語で Hermit Crabであり、そして《hermit》 は 「隠者」 を意味する。このにし貝の章の原題は Channeled Whelk で、この貝の名前は特に著者に与えるものが無かったようだが、その代り 《Hermit Crab》 がそれを住処にしていたということが大きく影響したのだと考えられる。

この章で語られているのは簡素な生活の大事さということである。 《Channeled Whelk》 の余分なもののない美しい形、そして 《Hermit Crab》 、そこから著者は 「簡素な住まいに暮らす隠者」 というイメージを得たのに違いない。 


著者は簡素な生活について語るのに 《saint》 「聖者」 とか、《wise men》 「賢人」 とか、《monk》 「修道士 」とか 、《nun》 「修道女」 といった類の宗教的な言葉を数多く用いている。そしてまた、「やどかり」 もそのような言葉の一つだった。

  

  

f:id:Tyurico:20120429021838j:image

《Hermit Crab, inhabiting a whelk shell.》*1

落合恵子翻訳海からの贈りもの著作

 

 

 

*1:写真はSeashellGuide.com http://www.mitchellspublications.com/guides/shells/articles/0083/より。《Whelk》 の一種の貝殻から小さなやどかりの脚が覗いて見える。

 

 

 

 

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2009-12-24

   第8回  翻訳者が自分の価値観を紛れ込ませる

落合恵子の翻訳の問題というのは、出来不出来の問題である以前に、翻訳者の心掛けの問題だと言わざるを得ない。この箇所は、訳者には始めから否定すべき物事があり、それを否定しようとする衝動を他人の著作の中においても自制することができなかったということだろう。


落合恵子の訳文はこのようになっている。

そして、こんなにも問題を持ったアメリカ人の生活が、現代、世界の人びとの一つの理想になっているのだ。(p.24)


だが原文は以下の通りである。

since life in America today is held up as the ideal of a large part of the rest of the world. (p.21)


「こんなにも問題を持った」 などという極端に否定的な表現はこの原文のどこにも無い。またこれ以外の箇所においても著者はアメリカがそんなに問題だらけであるかのように書いてはいない。ここで著者が論じているのは1950年代のアメリカであるが、落合は現代のアメリカについての落合自身の批判的な考えを押し込んでいるのだ。


対して、吉田健一による翻訳はこのように適切なものだ。

それはアメリカ人の生活が今日では世界の他の国々に住む多くの人たちによって一つの理想にされているからである。 (p.26)




もう一つ落合が歪曲した訳文を挙げる。一体、女たちは誰によって 「馴らされている」 と言うのか。聞くまでもない事だが。

わたしたちは、すべての人を受け入れるように馴らされている。夫を、子どもたちを、友だちを、近隣の人たちを。(p.25)


「馴らされている」 という訳文には、 「本来そうでない筈なのに、あの者たちによってずっとそうさせられてきたのだ」 という落合の思惑が見て取れる。以下の通り原文にはそんな意味は無い。


We must be open to all points of the compass; husband, children, friends, home, community; (p.22)


「こんなにも問題を持った」 にしても 「馴らされている。」 にしても、どうして落合は原文には無い余計な表現を付け加えずにいられないのか。

 

 

Gift from the Sea: 50th Anniversary Edition

Gift from the Sea: 50th Anniversary Edition

こちらは50周年版原著を朗読したCD。

 

 

 

 

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2009-12-23

   第9回  「社会的に目覚しい活動をした女たちが、まれにしか結婚をしていなかった」 などという嘘

 

ここの落合恵子の翻訳ぶりは全くあきれる代物で、落合フェミニズムとはどういう類のものか、そのためとあればどんな行動を取るのか、そういったことを示している。

 

落合の訳文は以下の通りである。

なぜ、社会的に目覚しい活動をした女たちが、まれにしか結婚をしていなかったかということである。禁欲とか子どものことに関係があるのではないかとかつて考えたことがあったが、そうではなく、まず「気が散ること」を避けるためだったのではないだろうか。 (p.26)


だが以下のように、 「社会的に目覚しい活動をした女たち 」 などという表現は原文には全くない。原著のどこを探してもそんなものは出てこない。*1落合恵子フェミニズム

I begin to understand why the saints were rarely married women. I am convinced it has nothing inherently to do, as I once supposed, with chastity or children. It has to do primarily with distractions. (p.22,23)


吉田健一はこれを以下のように訳している。

なぜ、女で聖者だった人たちが稀にしか結婚しなかったかを理解する。それは私が初め考えていたように、禁欲とか、子供とかいうこととは、本質的には関係がなくて、何よりもこの気が散るということを避けるためだった。 (p.27)


原文の赤色で示した部分を訳せば、 「なぜ結婚した女性の聖者は稀であったか」 となる。

《saint》 の意味は 「聖者」 、「聖人」 である。落合の訳文は正反対と言っていいほど全く違っている。 「女の聖者たち」 、「女の聖人たち」 と当然訳すべき箇所を 「社会的に目覚しい活動をした女たち」 と書き変えるなど、原文を蔑ろにし著者を侮った愚かな行為であり、全く理解することができない。*2

著者アン・モロウ・リンドバーグはこの文章の前後でも、 《saint》《saintly life》 と同様の表現を繰り返しており、原著のどこを汲もうがそのような訳語が出て来るはずもない。落合恵子が自分のフェミニズムの立場に都合が良いように自分勝手な訳文を捏造しているだけだ。そしてこのような虚偽を記したばかりに、次の 「禁欲」 *3という言葉は場違いに浮いて文章がちぐはぐになってしまっている。社会的に目覚しい活動をするような女たちは禁欲を心掛けるものだと考えていた、とでも落合は言うのだろうか。

原文はごく簡単な単語ばかりであって、間違いでこんな訳文ができるわけはないのだ。このような愚劣な文章を名訳だなどと称することは決してできない。落合恵子結婚

   

  

 

海からの贈りもの

海からの贈りもの

この新訳でより多くの人に読まれるようになったことは間違いないが、不誠実な落合の訳文によってアン・モロウ・リンドバーグという作家が判断されてしまうことはむしろ不幸な事態だろう。

意外なことに、各章の扉などにスケッチ風のイラストを描いているのは著名なアニメーション映画監督である、りんたろう氏。

 

       

 

 

*1:「もし、いまの時代にアンが 『海からの贈りもの』 を書いたとしたら……あの時代においてはそれがやむを得ないことだったとしても……「女の聖者」 とは書いたりしないのではないか。そう、わたしは考える。」 落合の言い逃れを考えるならこんなところか。落合恵子翻訳

*2:しかしある意味ではこれほど解りやすく見え透いた愚行もない。フェミニズムを看板にする女性作家が他人の著作の中に 「なぜ、社会的にめざましい活動をした女たちが、まれにしか結婚をしていなかったか」 と勝手に書き入れるという、まるで戯画のような滑稽な様に驚かされる。この翻訳を読むまで落合について知るところはほとんど無かったので特に先入観を持つことなく読んだが、このようなことを平気でする人間であったことを知って全くあきれ、そして強い怒りを覚えた。

*3:吉田健一訳でも 「禁欲」 と訳されているが、原文の 《chastity》 という単語はむしろ 「純潔」 と訳す方が適当だと思われる。そしてそのように訳すと落合訳は一層おかしなものになる。

 

 

 

 

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2009-12-22

   第10回  一休み  「つめた貝」 ‐ 《Moon Shell》

   

f:id:Tyurico:20120427003846j:image

《Moon Shell》 *1

  

   

《Moon Shell》、「つめた貝」。落合恵子翻訳著作

 

吉田健一訳の『海からの贈物』ではその姿はこのように描かれている。 

乳白色をしていて、それが雨が降りそうな夏の晩の空と同じ薄い桃色を帯びている。そしてその滑らかな表面に刻み付けられた線は貝殻のやっと見えるぐらいの中心、眼ならば瞳孔に相当する黒い、小さな頂点に向かって完全な螺旋を描いている。(p.37)


この章で描かれているイメージが幾つかある。

海に浮かぶ島と空に浮かぶ月。それから水を湛えた泉と満たされた杯。

月と島は自分一人でいることを、そして泉と杯は自らが満たされていることを象徴している。

 

 

 

*1:写真はSeashellGuide.com http://www.mitchellspublications.com/guides/shells/articles/0042/より。 《Moon Shell》 の一種である、 Shark’s Eye あるいは Atlantic Moon Snail とも呼ばれる貝のようだ。

 

 

 

 

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2009-12-21

   第11回  《haven》 を 「天国」 と誤解する

まず落合恵子の訳。

わたしたちを気分転換や空しい情事に駆り立てたり、病院や医師の診察室といった一瞬の天国に追い込む一因となっている。 (p.55)


原文は以下の通りである。

pushing us into more and more distractions, illusory love affairs or the haven of hospitals and doctor's office. (p.48)


まず、《haven》 は 「天国」 ではない。

落合は 《haven》 「避難所、嵐を逃れるための港」 と 《heaven》 「天国」 を取り違えている。

だが 「一瞬の天国に逃げ込む」 ならともかく、 「一瞬の天国に追い込む」 というおかしな言い方は意味がよく解らない。それに 「一瞬の」 という表現はそもそも原文には全く無いものだ。おそらく、 「わたしたちを天国に追い込む」 という訳ではさすがに不自然すぎるので、落合は原文に存在しない 「一瞬の」 という言葉を付け加えてどうにかしようとしたのだろう。 もし落合に言葉に対する注意深さがもう少しあったならば、全て自力で訳したにせよ下訳を利用したにせよ 「わたしたちを天国に追い込む」 という訳文を得た時点で、さすがにこれは変だと考えて英文を読み直し誤読に気づけたのであろうが、結局それには思い至らず 「一瞬の」 という言葉を付け加えることで誤魔化そうとしたのだと言えよう。

あるいは、これは 《haven》《heaven》 を単に見間違えただけではないかといって擁護する見方もあるかもしれないが、そこを読み違えたまま不自然な訳文をこしらえて一向に気にならないのであるから何にせよ落合が文章に鈍感であることには違いがない。

 

次に、確かに辞書にはそういう説明も載ってはいるが、 《distraction》 を 「気分転換」 と訳すのも適切だとは到底言えない。この訳語の選択から、仮に落合恵子が原著を読んでいたのだとしても満足に読んでいないということが判る。 「気分転換」 とはしてはいけないことだろうか。落合は 「気分転換」 と 「空しい情事」 を同列に並べて何かおかしいとは感じなかったのだろうか。気分転換というのは別に悪いことや後ろめたいことではないだろう。

もちろん著者は一時のごまかしでしかないものとして否定的に 《distractions》 以下を記している。原文に 《more and more distractions》 とあるように、満たされることがないのに空しいその場しのぎをさらに重ねてしまう、という否定的な意味合いである。

《distraction》 は著者が否定的な意味合いで繰り返し用いている重要な概念である。ここでも決して好ましい意味合いでは用いられておらず、 「気を散らしてしまうこと」 という否定的な意味合いで用いられている。この場合は 「一時的に気を紛らわすこと」 や 「つまらない気晴らし」 といったところだろう。

落合恵子クレヨンハウス  

比較に吉田健一訳を載せる。

それが私たちを更に多くの気散じの手段、或いはかりそめの恋愛、或いはまた病院や医者の診察室に追い込む原因の一部にもなっているのである。(p.53)

 

 

 

 

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2009-12-20

   第12回  女は被害者だと書き加えることは怠らない

まず落合恵子訳。

女こそが、自分の内部に力を求めるという革命のパイオニアでならなければいけない。もともと女はそうだったのだ。数十年前までは、女は外的な活動から締め出されていた。その制約が女を内部に向かわせた。(p.57) 

 

まず、 「女こそが」 などという気張った大袈裟な表現を著者アン・モロウ・リンドバーグはしてはいない。*1 蓬頭を鉢巻できつく締め過ぎない方がいいのではないか。落合女史にはせめてもう少し自制した翻訳を心掛けていただきたいと思う。落合恵子髪型

次に落合は 「女は外的な活動から締め出されていた。」 と訳しているが、これを読んだときに直ちに違和感を覚えた。アン・モロウ・リンドバーグが 「女は締め出されていた」 というような短絡的で抑制を欠いた表現を選ぶとは思えなかったからだ。


同じ箇所を吉田健一は次のように訳している。

女が、この我々の内部に力を求めるということの先駆をなさなければならない。女はいつもその先駆をしてきたとも言えるので、二、三十年前までは外的な活動に加わるのが難しかったために、そういう生活上の制約自体が女に注意を内部に向けさせた。 (p.55)

 

そして原文は以下のように書かれている。著者は 「女は締め出されていた」 などと書いてはいない。


Woman must be the pioneer in this turning inward for strength. In a sense she has always been the pioneer. Less able, until the last generation, to escape into outward activities, the very limitation of her life forced her to look into inward. ( p.50)


これの後半部分を少し並べ替えて以下に訳してみる。

Until the last generation, less able to escape into outward activities, the very limitation of her life forced her to look into inward.

つい前の世代までは、女が外的な活動へ 《escape》 することは少なく、まさにその生活上の制約が注意を内部へと向かわせた。


まず 《escape》 という動詞をそのまま残して訳してみた。意外なことに原文の表現には 《escape》 という動詞が用いられている。だがここを単純に 「外的な活動へと逃げる」 と訳しては文意が変になってしまう。

ここの 《escape》 は、 「気体や液体が漏れ出す」 という意味での 《escape》 だと解されるだろう。訳すなら 「外的な活動へ自分自身が流れ出ることが少なかった」 とでもなろうか。


この 《escape》 の意味に気づいた時、そういうことかと唸った。この 「つめた貝」の章では、自分の内側にある泉が涸れてしまわないようにすること、そのために一人でいる時間、一人でいる場所を持つことの大事さが説かれている。そして描かれているイメージの一つは水を豊かに湛えた泉であって、 「満ちる」、 「溢れる」、 「涸れる」、 「こぼれる」 といった水や液体に関連した述語が比喩的に繰り返し用いられている。この 《escape》 もそういった言葉の一つなのだということ、そして著者アン・モロウ・リンドバーグは注意深くこの 《escape》 という言葉を選んだであろうことに思い至った。


「女は外的な活動から締め出されていた」 という表現は、その一文だけを取り出して見れば確かに間違いではないのだろう。 過去に女性が置かれていた状況というのは事実その通りだったとも言えるかもしれない。だがそうだとしても、著者は少しもそのようなことを言ってはいないのだ。 さらに言えば、原文は一つの文章だというのに落合はそれをわざわざ二つに分けてまでして 「締め出されていた」 という言葉を書き加えている。落合の訳文は明らかに自制を欠いており、原文の思慮を台無しにしている。落合恵子クレヨンハウス

 

 

 

 

*1:落合の『海からの贈りもの』の訳文には 「こそ」 の濫用が見られる。これに気付いてざっと拾ってみたところ、一冊の中に11箇所見つかり、比較のため吉田健一の訳文を見ると、吉田訳では2箇所しか 「こそ」 という言葉が用いられていなかった。 「我々こそが」、「今こそ」、こういった表現は煽りの表現だろう。鉢巻と拡声器が似合う。

 

  

 

 

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2009-12-19

   第13回  そんなに男が憎いのか

落合恵子訳は以下の通り。

外に向かうエネルギーも人間にはなくてはならないものだが、それを追求した男たちのやりかた、攻撃力は、現在、問題の解決には用をなさなくなっている。(p58)

 

原文は以下の通り。

落合は一体どこから 「攻撃力」 などという Gift from the Sea の文章と全くそぐわない馬鹿げた言葉を思いついたのか。

This outer strength of man is essential to the pattern, but even here the reign of purely outer strength and purely outward solutions seems to be waning today. (p51)


そのすぐ後の訳文。 先のとは全く違う英語であるのに、これも 「攻撃的」 と同じように訳している。

現代の、外側にエネルギーを発散させるだけの、攻撃的で、即物的な欧米の男たちが、(p58)


原文は以下の通りである。

modern extrovert, activist, materialistic Western man (p51)

落合が 「外側にエネルギーを発散させるだけの」 と全く否定的に訳した 《extrovert》 は、 「外向的な」 あるいは 「外向的な人」 という意味である。 また 《activist》*1 という言葉も、どうひねって解釈をしようとも 「攻撃的」 などという意味ではない。落合恵子オーガニック

 

 

吉田健一の訳文は以下のように適切なものである。

落合恵子はこの吉田訳を一度ならず読んでいるというのに、それを上記のように悪意をもって訳している。

男の外的な力も人間になくてはならないものであるが、その男の世界にも純粋に外的な力や、問題の解決の仕方は今日では用をなさなくなりつつある。 (p56)


現代の外向的で行動的な、唯物論的な欧米の男が (p56)

 

落合の翻訳ではまるで最低の男たちであるかのように読めてしまう。 「外側にエネルギーを発散させるだけの」 などと、何の恨みがあるというのか。一体どういう精神が 「攻撃力」 だの 「攻撃的」 だのといった根拠のない妄言をこの英文から思いつくことができるのか。そしてなぜ思い止まることなく実際にそんなデタラメを書いてしまえるのか。

 

「攻撃的」 と言われるべきは落合自身ではないか。

 

 

 

*1activist とはむしろ落合女史にこそ相応しい言葉だと思うが。  

 

 

 

 

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2009-12-18

   第14回  一休み  「ひので貝」 ‐ 《Sunrise Tellin》

「ひので貝」 の章の原文表題は 《Double-Sunrise》 なのだが、本文中では単に 《sunrise shell》 と表記されていることの方が多い。

しかし、 《double-sunrise》 で検索すると何も見つからず、sunrise shellで検索すると本文中の描写とはだいぶ異なるもっと厚手で頑丈そうな貝の写真が出てくる。落合恵子翻訳海からの贈りもの

あるときこちらのブログで、 「ひので貝」 と呼ばれる貝に相当するのはSunrise Tellinだろうと書いてあるのを目にし、それで検索してみると確かに文中の描写と合致する貝の写真が上がってきた。



f:id:Tyurico:20100422115259j:image

《Sunrise Tellin》*1



 

吉田健一訳『海からの贈物』より。

この、さわるだけで壊れそうな貝の両面は正確に対をなしていて、丁度、蝶の羽のように、両方とも模様が同じであり、二つを合わせている金色の紐帯から白い半透明の表面に、いずれも三本の薄紅の線が延びている。だから、私は二つの日の出を手に持っている訳で、 (p.61)

 

  

海からの贈りもの落合恵子翻訳

*1:写真はMyTurksAndCaicosBlog.com http://myturksandcaicosblog.com/?tag=sunrise-tellinより。

 

 

 

 

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2009-12-09

   第15回  すぐ前の文章と矛盾することを書く

まず落合恵子訳。

この島でわたしはあおい貝を見ながらそういう経験をした。

ひとりで一週間を過ごした後、妹がやってきて、次の一週間を共に過ごした。(p.105)


上記の落合の訳文を読んだとき、すぐにおかしいと感じた。というのは、著者はあおい貝の実物を手にしたことはないのであり、そのことは当の落合の訳においてもちゃんと記されている。

以下の通りである。

あおい貝の、この仮の住まいをわたしは専門家のコレクションでしか見たことはないが、その生き方のイメージには、とても心魅かれるものがある。(p.97)


落合の訳した箇所が実際にはどうなのか、原文を読めば理解できる。少し前から引用する。


And though we may seldom come upon a perfect argonauta life cycle, we have all had glimpses of them, even in our lives for brief periods. And these brief experiences give us insight into what the new relation might be. On this island I have had such a glimpse into the life of the argonauta. After my week alone I have had a week of living with my sister. (p.90,91)


落合が軽率にも 「見ながら」 と訳した単語は 《glimpse》 であって、 「見ること」 には違いないが 「はっきりとではなく、ちらっと見ること」 を意味する。 「見ながら」 などという継続的な状態ではない。

この英文の大意は 「私たちに完璧な“あおい貝の生活”が訪れるということはめったにないにしても、その一端を窺えるようなちょっとした経験は誰にでもある。そういう経験が、人間関係の新しいあり方がどんなものであるかを示唆してくれる。この島で妹と一緒に過ごした一週間はそのような経験だった。」 ということなのであり、この 《glimpse》 は、実物のあおい貝を手にして実際に見たということではなく、 「あおい貝によって象徴される生活のあり方」 の一端を見たということである。

 

《I have had such a glimpse into the life of the argonauta.》

ここを訳せば、 「そのような“あおい貝の生活”の一端を見ることができた。」 といったあたりで、具体的には著者が島で妹と一緒に過ごした一週間の生活のことを指している。


こういう辺りから、やはり落合はちゃんと自分で原文を読んだ上で訳しているのではないという印象を受ける。吉田健一訳かあるいは出版社があてがった下訳者の訳文に、自分の都合や趣味に合うように手を加えただけのように見えて仕方がない。

 

ところで落合はこの辺りに関して [訳者あとがき] でこんなもっともらしいことを語っている。

また、本書が、多くの支持を獲得しながらも、特に日本においては、必ずしも著者が意図したような、拓かれた 「Woman's eye, Woman's voice」 の書として認知されてはいない*1という事実もあった。ここ十年ほど、季節の変わり目にこの本を開くたびに、 「リンドバーグ夫人」 という著者名が、正直気になっていたこともある。原書はもともと彼女のフルネームで発表されていたはずだが、日本で翻訳刊行された当初、 「リンドバーグ夫人」 という表記はやむを得ないものであったかもしれない。しかし、アン・モロウ・リンドバーグという個人名こそ、この著者には、この本にはふさわしい。そう、わたしは考える。また、原書と照らし合わせて翻訳を進める中で、たくさんの 「新しい発見」 もあった。(p.158)

  

「原書と照らし合わせて翻訳を進め」、などといかにも誠実そうな口ぶりであるが、実際に原文と落合の訳文を照らし合わせて読んでみれば落合のこの言葉は全く信じるに値しない*2

とは言え、まず売れ行きを考えなければならない出版社の事情もあるだろう。知名度を当てにして選ばれた訳者が他人の翻訳をアレンジしてまとめるだけのやり方であったとしても、そのこと自体を批判するつもりは別にない。だが、これまで正しく理解されて来なかったこの著作を私がいま本来の姿で読者に贈りたい、とでも言わんばかりの落合の物言いには強い憤りしか覚えない。図々しくも 「新しい発見」 などと言い出すとは。自分が実際にはどんな翻訳をしたのかに思いを致すべきだ。

 

 

 

 

*1:落合は、著者アン・モロウ・リンドバーグがこの著作を拓かれた 「Woman's eye, Woman's voice」 の書として認知されることを意図していたと記しているが、そこに何らの典拠も示していない。試しに 「Woman's eye, Woman's voice」 で検索してみたのだが、関連するような記事は何も見つからなかった。もし関連する事実があるようであれば御教示を願いたい。

*2:あるいは熱意の結果がこの有様で、単に落合の英文読解力が並外れて低かったに過ぎないという可能性も一応考えるべきだろうか。

 

 

 

 

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2009-12-08

   第16回  著者と反対のことを言う

落合恵子訳は以下の通り。これはもう翻訳以前の問題というもので、本当に首を傾げてしまうような矛盾した文章になっている。

島では、言葉によるコミュニケーションは、無言の交感にとって代り、どんな言葉よりわたしたちの心を癒してくれる。(p.126)


しかしこれは一体どういう間違いだと解釈したらよいだろうか。これが誤植でないなら、落合恵子は 「〜に取ってかわる」 という日本語の使い方を完全に誤解しているということである。これでは文章が前後で全く矛盾しているのだから。*1

はたして落合は意味を理解した上でこう書いたのだろうか。 「言葉によるコミュニケーションは、どんな言葉より私たちの心を癒してくれる」 などという馬鹿なことを。全く逆だ。 「無言の交感は、言葉によるコミュニケーションにとって代り、どんな言葉よりわたしたちの心を癒してくれる」 でなければ日本語の文章として成り立たない。これは原文を確認するまでもなく変だとわかる。


吉田健一訳は以下の通り、妥当な訳文である。

話をする代わりに交感するのであって、そのほうがどんな言葉よりも私たちを力づけてくれる。 (p.116)


そして原文はこうなっている。

Then communication becomes communion and one is nourished as one never is by words. (p.108)


このごく簡潔な英文がどのようにしてあの馬鹿げた訳文に成り果てたのかは結局理解することができない。ただ 《communication becomes communion》 という原文の表現から推測するなら、落合に渡された下訳は 「言葉によるコミュニケーションは無言の交感にかわり」 という適切なものだったのだが、簡潔な表現を好まない訳者*2はそれが気に入らず、 「とって代わり」 と書き変えてしまいこのような矛盾した文章になった、ということなのかも知れない。



次の箇所からも落合恵子はろくに原著を読んでいないという印象を受ける。著者が述べていることと全く逆のことを書いているからだ。

島では、わたしに代わって、島が暮らしを選んでくれる。きわめて自然に、技巧をこらさずに。その選択は少しも押しつけがましいところがなく、それでいて量は豊かだ。この島ではさまざまな経験をするが、それも決して多すぎない。(p.126)


ここもまるでおかしな翻訳で、 「それでいて量は豊かだ。」 などと訳してしまっている辺りで、落合恵子には原文がちゃんと読めていない、そして原文をちゃんと読もうという考えが無いことが知れる。原文で著者は 「量は豊かだ」 などということは一言も言っていない。むしろ全く逆のことを述べているのだ。


吉田健一は同じ箇所を以下のように訳している。

島での生活は私の代わりに選択してくれるが、それは極めて自然な具合にである。そしてそれは量の問題であって、ものの性質によってではない。この島ではいろいろな種類の経験をするが、それが決して多過ぎないのである。 (p.116)


そして原文は以下の通りである。

Island living selects for me, but it is a natural, not an artificial selection. It selects numerically but not in kind. There are all kinds of experiences on this island, but not too many. (p.108,109)


原文の後半は以下のように書き換えることができて、

Island living selects numerically. But island living doesn't select in kind. There are all kinds of experiences on this island, but not too many.

島の生活は数量の面で選択する。だが島の生活は種類の面では選択しない。いろんな種類の経験がこの島にはあるが、その量が多過ぎるということがない。と訳すことができる。


ここで言われていることは、 「島ではいろいろな種類の経験をするが、その経験することが量的に多過ぎるということがない」 ということである。もう少し進んだ辺りでそれは具体的に述べられていて、都会での生活では自分と似通ったような人たちとの交流がほとんどだが、島では年齢から仕事から様々な人たちと会うことが出来る、ということが書かれている。更に言えば、都会では沢山の人と会うけれど大抵は自分とそう懸け離れていない人たちで、島で会う人は多くはないけれど自分とは違った色々な人たちに出会える、ということだ。

つまりここの主な意味は、 「島の生活は、種類は多様なのだが量的には多過ぎない」 ということであって、著者の文章は 「種類」 と 「量」 の対比によって明確に構成されている。対して、 「都会の生活は量においては充分過ぎるまでに多いが、種類においてはむしろ豊かでない」 と著者は述べていると言っても良いだろう。量の多さなど著者は少しも重要だと考えていない。 それなのに落合は何を思ったのか、 「それでいて量は豊かだ。」 とまるで見当違いな訳文を書いている。原文のこの明確な対比を無効にした落合恵子の翻訳は、著者が込めた意味を全く読み取れていないものだと言える。


また細かくなるが、 「島が暮らしを選んでくれる。」 という訳も正確でない。そうではなく、 「島での暮らし」 が主語で、 「島での暮らしが交流のあり方を選んでくれる」 と著者は述べているのだ。

それから 「きわめて自然に、技巧をこらさずに。その選択は少しも押しつけがましいところがなく、」 という訳は余りに冗漫でありまた落合の独創が過ぎている。 「押しつけがましいところがなく」 などとは一言も書かれてはいない。ここの英文は、 「自然に、そして人為的でなく」 程度の簡潔な表現である。奇しくも、 「多すぎず、技巧をこらさず、押しつけがましくなく」 というのはまさしくアン・モロウ・リンドバーグの文章に相応しい言葉だと言えるのだが、落合の訳文はちょうどそれと正反対の 「言葉多く、技巧を弄し、押しつけがましい」 ものであって、そのような者が Gift from the Sea の翻訳を手掛けることになったのは実に皮肉なことであり残念な次第だ。

 

 

 

 

*1:どうあれ、これの編集者はいったい何を読んでいたのか。

*2:例えば、落合訳 (p.104) では 「探検にはまず大胆な仮説が必要であり」 とあるのだが、原文には 「大胆な」 などという形容詞はない。そこでもう一言盛らなければ気が済まないらしい。

 

 

 

 

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2009-12-07

   第17回  一休み   「あおい貝」 と 「たこぶね」 ‐ 《Argonauta》

 

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Argonauta argo 「あおい貝」*1  



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Argonauta hians 「たこぶね」*2


  

二つの翻訳どちらでもそのことは書かれていないが、 《Argonauta》 は実は貝の仲間ではなく或る種の蛸*3が自身の周囲に形成する薄い外殻である。他に 《Paper Nautilus》*4 という呼び名もある。非常に薄く壊れやすいものであるらしく、著者も研究者の標本で見たことがあるだけだと記している。

落合恵子訳では 「あおい貝」 、吉田健一訳では 「たこぶね」 となっている。 「あおい貝」 と 「たこぶね」 、どちらも 《Argonauta》 なのだが、上記の通り見た目も学名も多少違っており、厳密に言えば両者は別物になるようだ。

他にも写真を探して見たところ、比較して 「あおい貝」 はやや扁平で表面のうねがより細かく密であり、また 「たこぶね」 のほうが概して黒ずんだ色あいだと言える。

個人的な印象を述べるなら、 「たこぶね」 からは生き物が形づくった生々しさを感じるのに対し、 「あおい貝」 からはむしろ彫刻や建築のような無機的な構造物を連想した。

海からの贈りもの落合恵子翻訳著作著

 

 

 

海からの贈物 (新潮文庫)

海からの贈物 (新潮文庫)

かつては著者名がリンドバーグ夫人と表記され、近年の版になってアン・モロウ・リンドバーグに改められた。旧版よりも文字が大きくまた余裕をもって組まれてあって読みやすい。表紙絵も二見彰一氏による抽象的な銅版画から写実的な貝のイラストにかわった。

この新版の表紙に大きく描かれているのは 「あおい貝」 であるが、右下に一部が描かれている貝はこの著作とは全く関係のないもの。左下の貝は色が紫色なので文中の描写とだいぶ違うが、あるいは 「ひので貝」 を描いたものかもしれない。

   

 

 

  

*1:写真は山口県立山口博物館 http://db.yamahaku.pref.yamaguchi.lg.jp/script/detail.php?no=330より。

*2:写真は鳥羽水族館 http://www.aquarium.co.jp/shell/gallery/hyouzi.php?nakama=tousokuより。

*3:ややこしくなるが、 「あおい貝」 の殻を作る蛸を 「かいだこ」 と呼び、 「たこぶね」 の殻を作る蛸を 「ふねだこ」 と呼ぶようだ。

*4: 「紙のように薄いオウムガイ」 とでも言ったところだろうか。

 

 

 

 

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2009-12-06

   第18回  「多数派の悪」 というのは一体何者なのか

まず落合恵子の訳。

未来への競争をしている内に、現在=「いま」 は見すごされ、自分から遠く離れた 「どこか」 のために、自分がいる 「ここ」 は見すごされ、個人は多数派の悪によって凌駕されている。(p.138)

 

「多数派の悪」 というおかしな言葉が何を意味しているのか理解できる人はまずいないだろう。

落合の 「多数派の悪によって凌駕されている」 という訳文をはじめて読んだ時、私はまず、アン・モロウ・リンドバーグがこんな意味のわからない低劣な文章を書くことがあるだろうかと不審に思った。


アン・モロウ・リンドバーグの原文は以下の通りである。

The present is passed over in the race for the future; the here is neglected in favor of the there; and the individual is dwarfed by the enormity of the mass. (p.118)


これを吉田健一は以下の様に訳している。

未来への競争で現在は脇へ押しやられ、自分から離れた場所のことが取上げられて、自分が現にいる場所は無視され、個人は多数によって圧倒されている。 (p.126)

 

落合は、《enormity》 を 「悪」 とし 《mass》 を 「多数派」 として、 「多数派の悪によって凌駕されている」 という訳文にしているのだが、まず何よりこれでは日本語として意味が理解できない。一冊の終り近くにきて突如語られる 「多数派の悪」 という言葉で落合は一体何者を糾弾しているのだろうか。さらにもっと簡単なことから言うと 「凌駕」 という日本語の使い方からして間違っている。 「凌駕」 という言葉の意味は 「他のものを越えてその上に出ること」 であり、 「悪によって凌駕されている」 という落合の訳文は日本語の表現という観点だけで見てもまるで間違っているのだ。おそらくは、吉田訳の 「圧倒」 という平易な表現では気に入らず、もっと語感が強く意味ありげで格好良さそうに見える言葉にしたいと欲を出した*1のだろうが、とにかく言葉の理解が不十分なまま意味を確かめもせず気分だけで訳文を書いているからこんな大袈裟で無意味な文章ができてしまう。*2


ではこの 《enormity》 はどう解すべきだろうか。

確かに辞書を見れば 「非道、極悪」 *3という説明が出てくるが、 「巨大さ、莫大なこと」 という説明もちゃんと記されている。そして 《enormity》 という英語がそもそも 「尺度、ものさし」 という意味の言葉から出来ている*4ことを考えれば、ここでの意味合いは 「度を外れて大きいこと、途方もなく大きいこと」 といったことだろう。ここで 《enormity》 が意味するのは 「悪」 などではない。それから、《mass》 を 「多数派」 と訳すこともできない。 《majority》 ではないのだ。ここでアン・モロウ・リンドバーグが述べている 《mass》 というのは、私たちが 「世界中の人たち」 とつい何気なくに口にする場合のような、抽象的に把握された膨大な数の人間の存在のことである。だが落合恵子の訳文は、まるで何か巨大な悪の組織によって個人が脅かされてでもいるかのようになっている。


そしてこの 《enormity》 の意味合いは、直前にある動詞の 《dwarfed》 によって、より理解することができる。 《dwarf》 は、名詞であれば『白雪姫』などのファンタジーにしばしば登場する小人 「ドワーフ」 のことであり、動詞であれば 「小さくする、発育を妨げる」 などの意味になる。文字通りに解するなら 「小人にする」 とも訳せる。

つまりこの英文は、 「個人は 《the enormity of the mass》 によって 《dwarf》 にされてしまっている」 という形なのであって、ここの原文は 「巨大な存在と矮小な存在」 という明確な対比を成すように構成されている。単に 「小さくする」 という意味の表現なら他にもあるわけで、著者ははっきりとした意図をもって、イメージを喚起する力の強い 《dwarf》 という単語を選んでいる筈である。それなのに 《enormity》 を 「悪」 などと訳した落合の訳文は著者が込めたものを台無しにしている。

   

 

 

 

*1:落合の訳文を女性らしい言葉づかいだとか瑞々しい感性だとかいって喜んでいる向きも見られるが、 「凌駕されている」 などという仰々しいこけおどしの表現に 「女性らしさ」 や 「瑞々しい感性」 など私は少しも感じることができない。むしろこういうところに落合の質の低い地金が出ていると見る。

*2:このような見かけばかりで中身のない空疎な言回しは他にも指摘できる。あるいは落合の文章の特徴だと言えるかもしれない。吉田健一が 「私の生活の中に或るしっかりとした軸があること」 (p.20) とごく簡潔に訳しているところを、落合は 「自分の生活の核に、いつもたしかな座標軸があること 」 (p.19) と訳している。単なる 「軸」 では不満だったのか、わざわざ落合は 「座標軸」 という言葉を選んだ。原文の表現は 《a central core to my life》 (p.23) であって、著者はこのことを車軸に喩えて述べてもいるので、ここを 「軸」 と意訳した吉田訳は納得できる表現である。だが 「座標軸」 というのは簡単に言ってしまえば数学のグラフのx軸y軸のことであって、著者が説いた回転する中に安定した中心を持つということとは違う。落合は著者の文章をただ表面的にしか読んでおらず、その上自分が選んだ 「座標軸」 という言葉が何を意味しているかも解っていない。おそらく単に 「軸」 と訳しては文章が格好悪いと感じ、字面と響きが格好良いからなんとなく 「座標軸」 という言葉を選んだのだ。そうして自分の趣味に合うように吉田訳に手を加えてかえって駄目にしている。簡素であることの重要性はこの著作で繰り返し説かれている事柄だが、皮肉なことに落合の訳文は全く簡素なものではない。冗漫で大袈裟で空疎な言葉が多用されている。文体の好き嫌いといった曖昧な問題ではなく、二つの翻訳には優劣が歴然としてある。

*3《enormity》 の 「極悪」 というような語義は、 「度を外れたこと、とんでもないこと」 という意味合いから派生したものだろうと推察される。

*4:ラテン語の 《norma》 が基で、例えば 《normal》 「ノーマル」 という英語もここから来る。

 

 

 

 

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2009-12-05

   第19回  女は被害者だと書き加えることはやはり怠らない

まず落合恵子の訳から。

不遇の中にあっても女たちは本当に大事なことを決して忘れることがなかった、といった形にされている。

女は、家庭というひとつの限定された空間で暮らすことを余儀なくされた。そして、家庭を構成するのは、個々の人間であるという独特な感覚を忘れずにきた。

女は、「いま」という瞬間の自然の姿を、「ここ」という空間のかけがえのなさを決して忘れたことはない。(p.140)


落合の冗漫な訳文とは違い、原文は以下の様なごく簡潔なものである。

In the small circle of the home she has never quite forgotten the particular uniqueness of each member of the family; the spontaneity of now; the vividness of here. (p.119)


この原文の根本は、「この大事な三つを女は忘れたことがない」、たったこれだけである。「暮らすことを余儀なくされた。」 という表現は原文には全く無く、 「女は家庭にずっと押し込められていたのだ」 という落合の個人的な考えを加筆しているに過ぎない。 「余儀なくされた」 というのは、 「けっして望んだことではないが、他に手立ても無くやむを得ず」 ということである。そもそも原文は一文であるのに、落合はそれをわざわざ区切って二つの文章にまでして 「余儀なくされた。」 などと書き加えている。これでは著者がそこに重点を置いているかのような印象になってしまう。全くこの訳者のすることはたちが悪い。

また、 「家庭を構成するのは、個々の人間であるという独特な感覚」 *1という訳もデタラメで全くの誤りである。「感覚」という訳語は一体どこから出てきたのか。


吉田健一はここを以下の様に訳している。

女は家庭という一つの狭い範囲で、その家庭をなしている一人々々に認められる独自のものを、また、今という時間の自然な姿を、また、ここという場所の掛け替えのなさを決して忘れたことがない。 (p.127)

 

 

 

  

*1:「家庭を構成するのは、個々の人間である」 と感じるのは、至って普通の感覚だと思うが、一体どこを 「独特の感覚」 と見るのだろうか。意味が解らないが、ことによると 「男たちには持ち得ない、女性特有の」 という意図があるのかもしれない。

 

 

 

 

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2009-12-04

   第20回  《patience》 を 「おおらかさ」 と訳す落合恵子の 「おおらかさ」

まず落合恵子訳。

この結びの文章においても、落合は著者アン・モロウ・リンドバーグの表現から大きく逸脱した書き変えをしている。

波の音が、わたしの背で繰り返しささやいている。*1

……おおらかさ、……豊かさ、……包容力、と。(p.141)


原文は以下の通りである。

The waves echo behind me. Patience - Faith - Openness, is what the sea has to teach. (p.120)


最後の 「包容力」 は問わないとしても、著者は 「おおらかさ」 とも 「豊かさ」 とも書いてはいない。 《patience》 の意味するところは 「忍耐」 である。冒頭で 《patience》 を 「柔軟性」 などと訳したかと思えば、また今度は 「おおらかさ」 などと好き勝手に訳している。

これは著者が述べていることを翻訳し読者に伝えようとしたのではなく、 「海=おおらか」、 「海=豊か」 という、訳者落合恵子の安易で単純な連想をただ書き連ねたのに過ぎない。

 

 

吉田健一はこのように訳している。

波音が私の後ろから聞こえてくる。忍耐、― 信念、― 寛容、と海は私に教える。 (p.128)

 

 

 

  

*1:波の音が 「ささやいている」 と、落合は原文とは違う擬人的な表現に書き変えてしまっているが、著者がそのような表現を選ばなかったことに考えを致さないのは無思慮であると言わざるを得ない。「ささやく」 という述語は、二者の間の距離や関係がごく近いことも含意している。「海」 と 「わたし」 をそのような関係において気安く並ばせるのは安手な感傷と陶酔でしかない。このような落合の通俗性によってこの著作が日本において多くの読者を得たのだとしたら、それは決して喜ばしいことではない。

 

 

  

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2009-12-03

   第21回  一休み   その他の貝など

吉田健一訳『海からの贈物』より。

ここの浅瀬の温かい水の中を渡って行くと、大袖貝の群れが片足で立ち、かしぱんが泥に幾つも嵌め込んだ大理石の賞牌のように横たわり、無数の極彩色のおおのがいが水の中で光って、蝶の羽も同様に開いたり、締まったりしている。 (p.110)


原文は以下の通り。

Here in the shallow flats one finds, wading through warm ripples, great horse conchs pivoting on a leg; white sand dollars, marble medallions engraved in the mud; and myriad of bright-colored cochina-clams, glistening in the foam, their shells opening and shutting like butterflies' wings. (p.101,102)

  

「大袖貝」 に当たるのが 《horse conch》 であり、 「かしぱん」 に当たるのが 《sand dollar》 であり、 「おおのがい」 に当たるのが 《cochina-clam》 である。

以下にそれらの画像を紹介する。

  

f:id:Tyurico:20120930114102j:image:w360

Horse Conch*1海からの贈りもの落合恵子

  

f:id:Tyurico:20110121172424j:image:w360

Sand Dollar*2

  

f:id:Tyurico:20101101160613j:image:w360  

Coquina*3海からの贈りもの落合恵子翻訳



最後の 《cochina-clam》 であるが、《clam》 は 「クラムチャウダー」 の 「クラム」 であり、二枚貝の総称であるから考えないで良いとして、これは 《coquina》 のことではないかと思われる。真ん中の綴りが 《chi》 ではなく 《qui》《cochina》 で探しても貝は出て来ずまた英単語としても見つからず、出てくるのはスペイン語のあまり品の良くない俗語としてのみだった。*4

二種類の原著どちらも 《cochina》 となっているが、こういう別の綴りがないのだとすれば、これはやはり誤植かまたは著者の聞き違いや誤記であると思われる。

  

  

 

 

*1:写真はiloveshelling.com http://www.iloveshelling.com/blog/category/seashells/conch/horse-conch/より。成長すると人の顔より大きなものになるようだ。

*2:写真はiloveshelling.com http://www.iloveshelling.com/blog/category/sand-dollar/より。《Sand Dollar》 は貝ではなくウニの一種。コインに擬してそう呼ばれる。また何か軽い焼き菓子のようにも見え、実際、《Sea Biscuit》《Sea Cookie》 という呼び名もあるのだという。これはその死んだ外骨格の部分。つまり殻。

*3:写真はiloveshelling.com http://www.iloveshelling.com/blog/category/seashells/coquina/より。 まるでカラフルなキャンディのように見える。 「極彩色」 という吉田健一の訳語が少しも大げさなものでない。こちらのサイトを見ていると南の海の貝というのはなんと綺麗なものであるかと思う。

*4《Coquina》 という貝の呼び名の方も同じくスペイン語から来ているようだ。

 

 

 

 

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2009-12-02

   第22回  新しい章の翻訳は間違いだらけデタラメだらけ

落合恵子による新訳の『海からの贈りもの』には、初版20年後の1975年に著者アン・モロウ・リンドバーグが新たに書き加えた章も収められている。その訳者あとがきにおいて落合は、この新しい章を日本の読者に伝えたいと思った、それが翻訳を進めるモチベーションの一つだったと述べている。*1

それ以外の章には吉田健一の旧訳があるのでそれを頼りにして落合は訳文を作ることができたわけだが、この章に限っては “お手本” 無しで翻訳に取り組んだことになる。恐らくそのせいだろう、この新しい章は他と比べて訳文の間違いが飛び抜けて多い。この章は原文で7ページほどのごく短いものだが、その訳文が間違いだらけだと言っても言い過ぎではない。しかもごく平易な英語表現の翻訳においても間違っている。

また英文の意味とかけ離れているというだけでなく、単に日本語の文として見ても意味不明な文章が幾つもあるのだが、作家でありながらそういう意味の通らない文章に対して疑問も抱かずにいられることが不思議でならない。( さらに言えば、このように問題の多い訳文を見過ごしそのまま出版した担当編集者の仕事にも問題がある。)

そして、もう吉田訳と比較されることもないと調子に乗ったのか、落合恵子が自分のフェミニズムの立場に都合が良いように歪めたデタラメな翻訳もこれ以前の章よりも多く見られる。簡単に言ってしまえば、この20年女たちは素晴らしい勝利を収めた、だが本当の闘いはまだこれからだ、という主張に歪められている。落合恵子フェミニズム


かつてこの本が初めて店頭に並んだ時、この新しい章の訳文を少しだけ読んだことがあるが、年月を経て著者アン・モロウ・リンドバーグの思考や言葉がすっかり硬直してしまったかのようで、非常に残念な印象を受けたことをよく覚えている。しかし今回原文と比べて読んでみて、落合恵子の身勝手な翻訳によって誤った印象を与えられていたのだとようやく気がづき、安堵することができた。同時に落合に対する怒りは一層強いものになった。

 

次よりその翻訳の問題点を取上げていく。

 

 

 

 

*1:「それでも敢えて翻訳をすすめたのは、七〇年代に、著者アン・モロウ・リンドバーグによって新しく書き加えられた一章を、わたしと同じようにこの本を愛してきた読者に伝えたいという思いがあったから」 などと落合はいかにも誠実そうでもっともらしいことを語っている。だが実際のところは、落合によるその新しい章の翻訳はまるでデタラメで偽りに満ちたものである。気づかずに間違えて訳してしまったのとは違うのだ。言っていることと実際の行為が全く違っている。言うことすることが違う人間を普通 「嘘つき」 と言う。

 

 

 

 

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2009-12-01

   第23回  著者になりすまして感慨を語る

落合はここでも著者が書いてもいないことを勝手に書き加えている。

次に感じたのは、実に素朴な困惑 ( 誰でも昔に書いたものを読めば、困惑を覚えるだろう ) であった。 さらにそれは、フェミニストによって、女たちにもたらされた、大いなる勝利という歓迎すべき驚きと結びついている。(p.145)


まず、( 誰でも昔に書いたものを読めば、困惑を覚えるだろう ) というような表現は原文のどこを探しても出てこない。あるいは、著者がどこか他のインタビューか何かでそのような発言をしていたのを落合は覚えていて、それをここに挿入したという可能性も一応考えられなくはないが、もしそうなら当然それについての説明がされていなければならない。何よりここまでの落合の翻訳ぶりを見る限りそのような可能性はほとんど考えられず、これは落合恵子が訳文の不自然さを誤魔化すために勝手に加筆をしたのだろうと私は踏んでいる。全く常軌を逸した行為としか思えないが、訳者あとがきで落合は著者の気持ちと溶け合うことができたなどと語っており、ことによると落合のあの頭には普通の人間には聞こえない声が聞こえてくるのかもしれない。

そして 「実に素朴な困惑」 も全く原文と違う。ここをいきなり 「実に素朴な困惑であった」 と訳してみても脈絡のないまるで唐突な文章でしかなく、なぜ著者がそのような困惑を覚えたかを全く説明していない。そこで落合は、「自分が昔に書いたものを久しぶりに読み返したなら、誰だって困惑を覚えるというものだろう」 という表現を勝手に付け加え、「特に理由はないが誰だって普通そうなるだろう」 という事にして、それで辻褄を合わせようとしたのだろう。だが原文の 《an embarrassed astonishment》 が意味しているのは、 「実に素朴な困惑」 などではなく、 「当惑をともなった驚き」 である。そこに 「素朴な」 という意味の英語は使われていない。

後半の訳文も全くひどいもので、 「大いなる勝利という歓迎すべき驚き」 などという表現は原文には全く存在しない。それにしても何という大袈裟で醜い言葉づかいだろうか。北朝鮮のアナウンサーの口舌と変わりがない。また 「素朴な困惑」 がどうして 「歓迎すべき驚き」 と結び付くことになるのかも全く理解できない。(落合による訳文の腹立たしさの一つは、アン・モロウ・リンドバーグの原文は至って明晰な文章であるのに、落合の手に掛かった訳文はまるで脈絡が不明な朦朧とした文章になっていることだ。)


原文は以下の通りである。

Next comes an embarrassed astonishment at re-reading my naïve assumption in the book that the “victories” (“liberation”is the current word, but I spoke of “victories”) in women's coming of age had been largely won by the Feminists of my mother's generation. (p.123,124)


《an embarrassed astonishment》 「当惑をともなった驚き」 であり、 《my navïe assumption》 「私の素朴な仮定」 であって、そしてそれが何についての仮定かというと、《(“victories”) had been largely won by the Feminists of my mother's generation》 「“勝利”の大部分は私の母の世代のフェミニスト達によって既に成し遂げられていた」 という仮定である。

大意を訳せば、ここの英文の意味は、 「自著を再読してみたところ、当時の私は、私の母の世代のフェミニスト達によって“勝利”の大部分は既に成し遂げられていたと素朴に考えていて、そのことに驚きまた当惑した。」 ということだ。落合の訳文は著者の原文とまるで違う。絵本 クレヨンハウス



また直後に続く以下の訳文は、もはやどの箇所がとかではなくほとんど全てが原文と違った非常にひどいものである。もはや誤訳とすら呼べず、これは捏造か虚言とでも言うべきものだ。原文と合っている訳語は 「多くの勝利」 くらいしかない。

控え目に見たとしても、かなり多くの勝利を勝ちとることができたし、その闘いはいまもまだ現在進行形で続いている。(p.145)


原文は以下の通りである。

I realize in hindsight and humility how great and how many were―and are―the victories still to be won. (p.124)


《hindsight》 は 「後知恵」 とか、「その時はわからず後になってから初めてわかること」 という意味である。それから 《humility》 は 「謙遜」 や 「謙譲」 や 「卑下」 。英英辞典の記述に拠るなら、 「自分が他の者よりも優れているとは考えないこと」 、というのが 《humility》 の意味である。落合はここを 「控え目に見たとしても」 などと訳しているが、それはあり得ない。上記を踏まえて訳せばおおよそ次のようになるだろう。

  

その後もいかに大きな、いかに多くの勝利が成し遂げられねばならなかったかを、そしてなお成し遂げられねばならないかを、恥ずかしながら私は後になってから理解した。

  

こうなって初めて、その前の文章と意味がつながる。

 

 

 

 

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2009-11-30

   第24回  《rock》 は 「封鎖」 ではない

落合恵子の訳。この箇所も何ともお粗末な訳文になっている。

ここ数年の出来事を振り返ってみよう。

わたしたちは、四人の大統領を迎え、そのうちのひとりを暗殺によって失った。わたしたちは、あの長く、分裂的な、そうして良心そのものを枯らしてしまう戦争の悲劇と直面してきた。わたしたちは、科学とテクノロジーの、破壊に向けての 「進歩」 を目の当たりにしてきた。わたしたちは、人間が月を歩くのを観た。政治的、経済的封鎖を体験した。この力学はいまもって世界に広がっている。(p.146)


原文は以下の通りである。

To look back on those years is sobering experience. We have lived through the terms of four presidents and the assassination of one. We have wrestled with the tragedy of a long, divisive and conscience-searing war. We have witnessed shattering advances in science and technology. We have watched a man walk on the moon. We have been rocked by political and economic tremors that are still in force and worldwide. (p.124)


原文は 「政治的、経済的封鎖」 などどは書いていない。

《political and economic tremors 》 「政治的、経済的な震動」 によって、《have been rocked》 「揺り動かされ」 と書いているのだ。「政治的、経済的封鎖」 などとどこからそんな訳語が出てきたのか。ことによると落合が用いた原書には 《rock》 でなく、《lock》 と印刷されていたのだろうか。まさかそんなことはあるまい。 

直接的に述べられてはいないが、ここはケネディ大統領の暗殺、ベトナム戦争、アポロ11号の月面着陸といったアメリカ史における出来事が述べられている。原文を読めば、《We》 はアメリカ国民を指していることが理解できる。 「わたしたちは政治的、経済的封鎖を体験した。」 というのは歴史事実的にもあり得ない記述なのであり、そういう点でもこの訳文はおかしい。キューバの話とかではあるまいし、何を言っているつもりなのかまるで意味が解らない。

次に、「この力学」 *1という日本語も意味が解からない。 「この」 はいったい前文のどこを受けているのか。落合はまさか 「政治的、経済的封鎖」 が全世界に広がっているとでも言いたいのだろうか。アン・モロウ・リンドバーグの原文はそんなとんでもない事態を論じてはいない。ここは 「政治的、経済的な震動は今なお続き、そしてそれが世界的なものになっている」 ということだ。

 

また、 「わたしたちは、四人の大統領を迎え、」 と書いているのに、その直前では 「ここ数年の出来事を振り返ってみよう。」 となっているのもおかしい。ここは Gift from the Sea が出版された1955年からの20年間を著者が振り返っている箇所である。日本の首相交代ではあるまいし、たった 「数年」 の間に四人の大統領などあり得ない話だ。幅はあるにせよ日本語でいう 「数年」 が10年に満たないことは間違いない。とにかく文章が雑すぎる。

それから、 「破壊に向けての「進歩」を目の当たりにしてきた」 という訳だが、著者の原文には 「破壊に向けての」 というまでの批判的な意味合いはないだろう。またわざわざカッコを付けて 「進歩」 と書いてしまう*2あたりも、著者を差し置いての科学や技術に対する落合個人の持論が聞こえてきて耳障りである。

この機会にアン・モロウ・リンドバーグの原文を読んでみて、彼女は文章を書くに際して一つ一つの言葉を慎重に選び丁寧に置いていったという印象を受けたが、落合恵子の翻訳ぶりからは全く逆の印象を受ける。言葉の表面的なイメージに安易に流されるまま訳文を綴り、ちゃんとした意味の通らない文章を無頓着に書き流す、という感じだ。

落合はアン・モロウ・リンドバーグの文章を訳すのに相応しくない、全く不適任な人間だと言わざるを得ない。

 

 

 

*1 《force》 を 「力学」 と訳したということか。デタラメが過ぎる。 「力学」 という言葉も一度きちんと調べたほうがいい。

*2:こういう 「 」 は否定的あるいは批判的な意図を以って使われるものだ。カッコ付きで 「進歩」 と書いてあれば、本当の進歩だとは見ていないのだなと受け取られる。なかなか落合も芸が細かく油断がならない。

 

 

 

 

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2009-11-29

   第25回  「革命と社会運動の足音」 とはどこの国の話か

落合恵子の訳は以下の通り。

そうして、すべてのわたしたちは、革命と社会運動の足音を聞いた。その中の多くは、かならずしも全体的な意味においては、あまり認知された運動とは言いがたいが、いまもって前進を続けている。(p146)


原文は以下の通りである。

All of us have been swept forward by the ground swells of revolutionary social movements, most of them still in progress and not wholly defined by their popular labels. (p124,125)


「すべてのわたしたち」 という奇怪な日本語を当時の担当編集者はよく見過ごしたものだとあきれてしまうが、まず、 「革命と社会運動の足音を聞いた」 という訳が原文とまるで違っている。加えて 「足音を聞いた」 という遠回しで曖昧な表現で何を言おうとしているのかも理解できない。 ( 普通、 「〜の足音を聞く」 という比喩は、迫り来る出来事の予兆を感じるという意味だと思うのだが。では単にその 「足音を聞いた」 というだけなのか、実際にその出来事が訪れたというのか、落合の文章は曖昧模糊として不可解である。)

原文の大意は 「革命的な社会運動の大波」 によって 「前方に押し流された」 である。また原文の表現は 「革命的な」 であって、実際の 「革命」 ではない。どうやら落合は 「革命」 という言葉がいたくお気に入りのようだが、落合のこのような訳文のせいで、あたかも著者が現実の革命の達成に期待を寄せているかのような印象を与えてしまっている。


その次の 「全体的な意味においては、あまり認知された運動とは言いがたいが、」 という変に難解な訳文も誤りである。

ここの英文は最後の 《labels》 をそのまま 「ラベル」 と解すると解りやすくなる。要するに、外から付けられた呼び名、通り名のことであり、そのような通称ではこれらの運動の本質を言い表すことはできない、というだけの話だ。

また 《still in progress》 は、運動が現在も力強く前進を続けていて頼もしい、というような( 落合が望んでいるであろう )意味合いではなく、 「まだ発展の途上にあって見定められない」 といった意味合いに解さなければその後の文章と整合しない。

 

大意は以下のようなものだろう。


それらの運動の多くはなお発展の途中であり、また一般的に知られているその呼び名によって全てが言い表されているわけではない。

  

あるいは、

それらの運動の多くはまだ発展の途上であるし、また一般的に知られているその呼び名によっては充分に定義することができない。

 

 

 

 

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