第18回 「多数派の悪によって凌駕される」という意味不明のひどい日本語

 
まず意味不明な落合恵子の訳文から。

未来への競争をしている内に、現在=「いま」 は見すごされ、自分から遠く離れた「どこか」のために、自分がいる 「ここ」 は見すごされ、個人は多数派の悪によって凌駕されている。(p.138)

 
この 「多数派の悪」 という奇怪な言葉が何を意味しているのかを説明できる人間は(書いた落合本人も含めて)間違いなく一人もいないだろう。
私は落合の 「多数派の悪によって凌駕されている」 という訳文をはじめて読んだ時、アン・モロウ・リンドバーグがこんな意味もわからない程度の低い文章を書くはずがないとまず思った。


アン・モロウ・リンドバーグの原文は以下の通りである。

The present is passed over in the race for the future; the here is neglected in favor of the there; and the individual is dwarfed by the enormity of the mass. (p.118)


これを吉田健一は以下の様に訳している。

未来への競争で現在は脇へ押しやられ、自分から離れた場所のことが取上げられて、自分が現にいる場所は無視され、個人は多数によって圧倒されている。 (p.126)

 

落合は 《enormity》 を 「悪」 とし 《mass》 を 「多数派」 として、「多数派の悪によって凌駕されている」 という訳文にしているが、まず何よりこれでは日本語として意味が理解できない。一冊の終り近くにきて突如語られる 「多数派の悪」 という言葉で落合は一体何者を糾弾しているのだろうか。さらにもっと基本的なことから言えば、そもそも 「凌駕」 という日本語の理解から間違っている。落合恵子は意味もわかっていない言葉を並べて翻訳を行っているのだ。
「凌駕」 という言葉の意味は 「他のものを越えてその上に出ること」 であり、「悪によって凌駕されている」 という落合の訳文は日本語の表現という観点だけで見てもまるで間違っている。おそらく吉田訳の 「圧倒」 という平易な表現が落合女史のお気に召さなかったのだろう。それでもっと難しそうで語感が強く、意味ありげでかっこ良く見える言葉にしたいとつまらない欲を出したのだろうが、理解できていないうろ覚えの言葉を確かめもせず気分だけで使ってしまうからこういう大袈裟なだけの意味のない無様な訳文が出来上がる。*1 *2
調べると落合はこの時49歳、若書きという年齢ではない。あやふやな感性に任せて文章を書き散らすことは慎んで、落合にはまず辞書を引くという地道な習慣を身につけてもらいたいものだ。


ではこの 《enormity》 はどう解すべきだろうか。
確かに英和辞書には 「非道、極悪」 というような説明もあるが、まず 「巨大さ、莫大なこと」 という説明がちゃんと記されている。*3 そして 《enormity》 という英語がそもそも 「尺度、ものさし」 という意味の言葉が元になっていることを考えれば、ここでの意味合いは 「度を外れて大きいこと、途方もなく大きいこと」 といったことだろう。*4 ここで 《enormity》 が意味しているのは 「悪」 などではない。
それから、《mass》 を 「多数派」 と訳すこともできない。 《majority》 ではないのだ。ここでアン・モロウ・リンドバーグが述べている 《mass》 というのは、私たちがあまり考えないままなんとなく 「世界中の人たち」 と言う場合のような、抽象的に把握された膨大な数の人間の存在のことである。だが落合恵子の訳文は、まるで何か巨大な悪の組織によって個人が脅かされているかのようになっている。


そしてこの 《enormity》 の意味合いは、直前にある動詞の 《dwarfed》 によって、より理解することができる。《dwarf》 は、名詞であれば『白雪姫』などのファンタジーにしばしば登場する小人、「ドワーフ」 のことであり、動詞であれば「小さくする、発育を妨げる」などの意味になる。文字通りに解するなら 「小人にする」 とも訳せるかもしれない。

つまりこの英文は、《the enormity of the mass》 によって個人は 《dwarf》 にされてしまっている」 という形なのであって、ここの原文は「巨大な存在と矮小な存在」という明確な対比を成すように構成されている。単に 「小さくする」 という意味の表現なら他にもあるわけで、アン・モロウ・リンドバーグははっきりとした意図をもって、イメージを喚起する力の強い 《dwarf》 という単語を選んでいる筈である。
それなのに落合恵子《enormity》 を 「悪」 などと訳してしまって、著者が文章に込めたものを台無しにしているのだ。
   
 
 

*1:落合の訳文を女性らしい言葉づかいだとか瑞々しい感性だとか言って喜んでいる手合いも見られるが、「凌駕されている」 などという仰々しいこけおどしの表現に 「女性らしさ」 や 「瑞々しい感性」 など微塵も感じることができない。こういうところにむしろ落合の程度の低い地金が顔を出していると私は見る。

*2:このような見かけばかりで中身のない空疎な言回しは他にも指摘できる。あるいは落合の文章の特徴だと言えるかもしれない。吉田健一が 「私の生活の中に或るしっかりとした軸があること」 (p.20) とごく簡潔に訳しているところを、落合は 「自分の生活の核に、いつもたしかな座標軸があること 」 (p.19) と訳している。単なる 「軸」 では不満だったのか、わざわざ落合は「座標軸」 という言葉を選んだ。原文の表現は 《a central core to my life》 (p.23) であって、著者はこのことを車軸に喩えて述べてもいるので、ここを 「軸」 と意訳した吉田訳は納得できる表現である。だが 「座標軸」 というのは簡単に言ってしまえば数学のグラフのx軸y軸のことであって、著者が説いた回転する中に安定した中心を持つということとはまるで違う。落合は著者の文章をただ表面的にしか読んでおらず、その上自分が選んだ 「座標軸」 という言葉が何を意味しているかもわかっていない。おそらく単に 「軸」 と訳すと文章が平凡でかっこ悪いと感じて、字面と響きがかっこ良いと思ったからなんとなく 「座標軸」 という複雑そうに見える言葉を選んだだけなのだ。別に考えは無いのだ。そうして吉田訳に無駄に手を加えてかえって駄目にしてしまっている。簡素であることの重要性はこの著作で繰り返し説かれている事柄だが、皮肉なことに落合の訳文は全く簡素なものではない。冗漫で大袈裟で意味のない空疎な言葉が多用されている。文体の好き嫌いといった曖昧な問題ではなく、二つの翻訳には優劣が歴然としてある。

*3:《enormity》 の 「極悪」 というような語義は、「度を外れたこと、とんでもないこと」 という意味合いから派生したものだろうと推察される。

*4:ラテン語《norma》 が基で、例えば 《normal》 「ノーマル」 という英語もここから来る。