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砂日記の時間

2013-02-16

黒谷都「半月」@せんがわ劇場


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(注・ネタバレを含む。自分の記憶力はかなり杜撰で、人形劇は量を観ている訳ではないので解釈にも不安があるが、やっぱり書いておきたいので書く。読み違いや事実誤認があれば指摘頂き次第修正します)



黒谷都さんの人形演劇「半月」を観てきた。せんがわ劇場の人形演劇祭"inochi"に行くのは三年目である。去年・一昨年の演目においては舞踏に大きく比重がおかれ、これは人形遣いと人形との差・ヒエラルキーを解消する試みとしてもちろん十二分に納得いくものだったとはいえ、通俗的なレベルでの感想として「もっと人形が動くところが観たいなあ」というものがやっぱりありー去年、時間的にはほんの短い間披露されただけの「水仙月の四日」における人形の所作が戦慄するようなシロモノであっただけにーそして、その欲求は今回ばっちり充たされた。

「半月」はこれまで観た黒谷作品同様、コンセプチュアルな面を除いては語れないようなところがあるのだが、この作品について感想を綴るならなによりまず、その人形の所作の神秘的な美しさに触れなければならない。
「人形は詩的なものを表現することに向いている」というのは、かつてチェコアニメの巨匠イジー・トルンカによって口にされ、今ではこの手の台詞が紋切り型としてやや安易に語られ過ぎるようになったあまり、ちょっと人形を見慣れた観客であるならむしろ、「そうやすやすとは人形が詩的なものを表さないこと」の方に意識的になってしまうと思うのだが、その点、黒谷都の人形操作は神業である。人形が手を上下に動かすだけで、神経が風にそよぐような快感の波が走る。人形の一挙一動を追っているだけで自分の頬にいつのまにか温かいものが伝っているのに気付く。至芸を言語化することは出来ないのでここで止めるが、その霊的な表現は圧巻である。勿論こうした効果が人形操作の妙だけでなく、演出家の哲学・音響・美術・照明との高度な合わせ技なのだけ急ぎ足で付け加えて、次は内容について考えてみる。



「半月」は、ざっくりまとめてしまえば、「赤ずきん」や「桃太郎」といったメルヒェンに登場する老婆(老人)と子供の関係を、人形遣いと人形との関係に置き換えて再話するというものである。
劇中、人形遣いの人形に対する過保護なまでの愛とサディズムが交錯するのは、以前と同様(だった筈。たぶん)。「過剰な愛とサディズムが交錯する」ではわかりにくいので具体的に例を挙げると、「半月」では、人形が慈しまれ、繊細極まりなく動かされるシーンと、首根っこをつかむなどして暴力的に動かされるシーンとが交互に現れる。人形が「ただのモノに見える」シーンと「生きているかのように見える」シーンが猛スピードで切り替わり、激しく明滅するのである。

最初のパート「赤ずきん」の場合を見てみる。下半分が灯され半月に見立てられた球の下、黒衣のおばあさん(役の黒谷都)が袋を開くと、裸の赤ずきん人形と布が登場し、おばあさんが丁寧に赤ずきんに布をまとわせていく。もともと赤ずきんのずきんはおばあさんの作なのである意味原作通りとも言えるのだが、その仕草はどこか母親のそれを思わせる。そして、赤ずきんは原作の筋の通り、森を通っておばあさんの家へと向かうのだが、そもそも人形遣いのおばあさん自身が赤ずきん人形を動かしているので、その関係は自作自演的に倒錯している。おばあさんの家に着くと、赤ずきんは服を脱ぎ(ここでの脱衣の仕草は凄絶にエロティックで忘れられない。服の着脱のモチーフはこの作品のメインテーマのひとつであり、もちろん人形遊びのそもそもの要でもある)、狼に食べられる。しかし、狼は直接舞台上には登場せず、食べられるシーンは人形の仕草で表現されるので、まるでおばあさんが狼となって赤ずきんを食べた(=子宮に戻し、過剰に護った)ように見える。

ここまでの流れで見えてくるのは、人形と人形遣いの関係で捉えればこれらが1対1の双方向的なやりとりである反面、人形に生を見るのを止めた瞬間なにもかもが一人芝居になってしまう悲痛な寂寥感と、ひとりあそび特有の狂気じみた幸福感である(また、忘れられない要素としてここにピアニストの存在感も絡んでくる)。当然この寂寥感は、人形遣いの「生きているように人形を動かせる」というスキルの高さによって際立つものである。こうした諸々が頭でっかちに描かれているのだとすれば、それは白々しいものになってしまいかねないが、この「赤ずきん」のパートは、ひとりの稀有な人形遣いが全力で「赤ずきん」を演じたところ自然にこうなってしまった、というような必然的な雰囲気に満ち満ちていて(実際にはそんな単純な話でもないと思うが)、この手のアプローチにありがちな軽佻浮薄さを寄せ付けない傑作に仕上がっている。



逆に一番判断が難しいのが、次の「桃太郎」のパートである。舞台は明るくなり、孕んでいると思しきグロテスクに腹を膨らませた黒衣に白塗りのおばあさんが現れ、盥とそれに乗る人を喰ったような粗雑な細い金属人形を産み落とす。盥に付いているスイッチで金属人形を左右に動かしつつ、おばあさんはダンスを交え、「桃太郎」のテクストを微妙に変更しつつ朗読していく。ここでは、膨らんだ腹、「桃」への言及、舞台上の球形の月のオブジェと、執拗に(比喩的な意味で人形遣いには不在なのだろう)子宮への執着が語られる。前述の「過保護」というテーマはおばあさんが「桃太郎、鬼退治にいかないで」などという台詞からも浮かび上がる。が、自分はこのパートについてはいささか複雑な気持ちを抱いている。その濃密さ故に極度の集中を強いられた先のパートから一休み、そしておさらい、といった側面もあるのだろうが、ここで語られているテーマはおそらく現代芸術にある程度慣れている人なら前のパートを見ればわかるのでわざわざ言う必要のない事柄だし、逆に慣れ親しんでいない人であればこのように言われてもわからないので意味不明になってしまうからである。「おばあさんは川へ芝刈りにー」といった台詞には作品を壊しかねないあやうさがあったと思う。とはいえ、全体を通して見たとき、やはりここでの「桃太郎」というチョイスに象徴されるような、前面に押し出された違和感が作品を立体的に見せているのもまた間違いない。



そして最後のパート。パンフレットによると「青い鳥」らしいが、自分は未読でわからなかったのでその点には触れない。登場するのは成長した赤ずきん人形遣い。ここでの赤ずきん人形は最初布に直接顔を描きこまれたものとして登場するのだが、途中で別の顔の仮面を被り、容貌を変えるのが特徴である(写真)。赤ずきんは高校生くらいの年齢の人形になっていて、サイズも大ぶりで、リアルな反面、人形劇の人形として動かすには若干奇異な感じのするものである(途中で半裸(=半月?)になって乳首を持たない布の胸を露出するというのも例外的なのではないか。半裸になり、ただの「モノ」であるということが隠微な形で明かされることで、ここでの人形は一般の意味での人形からむしろ繊細に遠ざかっていくようである)。また、このパートの途中に出てきた照明による人形と人形遣いが織り成す影絵は絶美としかいいようのないもので、ここでも自分は泣かされた。

このパートで演じられるのは「思春期の娘と母の葛藤」を模した「人形と人形遣いの葛藤」であり、ただでさえ複雑な前者の関係性に、人形という要素が持ち込まれることで関係はほとんど無限に錯綜していく(たとえば、ここでは先程まで出てきた小さな赤ずきん人形を「成長」したかのように見せかけている、というだけでもひとつ捩じれているし、それが反抗的なそぶりを見せ、人形遣いが押さえつける、というのもまた更に捩じれている。そしてこれらの捩じれがどんどん推し進められていく)。
「小さな少女人形を操る黒衣の人形遣い」という構図が安定したものであるとするなら、「大人の女性になりかけた、半裸の大きな人形を舞台上で登場人物として操る人形遣い」という構図はずっと不安定であり、もはや半分普通のお人形=パペットではなくなりかけたもの(半月?ここでの赤ずきんにはラブドール的な怪しささえ漂う)を操ることで、人形遣いはむしろ過激に人形遣いたりうるという、逆説的な、ほとんどジャンルの極北のようなパフォーマンスが見られる(球体関節人形であれば女子高生くらいの年齢に設定されたリアルで大ぶりの人形などザラだが、それががっつり動くところは今のところ見たことがない。また、等身大人形による人形演劇で名高い「百鬼どんどろ」に関しては、自分は残念なことに未見である)。



最後に気にかかったのは、最終パートでとりわけ顕著で、なおかつ全体を支配してもいる、その悲痛でメランコリックなトーンである。ラストシーンで長いスカートを履いて持ち上げられ、大人の女性になった赤ずきん人形遣いが音楽に合わせて陽気に踊るーここでの人形遣いは男性パートナーのような雰囲気であり、まさに変幻自在ーのも、自分にはむしろ寂寥感の方を引き立たせるように思えた。

「半月」は過去三年間観た中でも一番昏い作品だったと思う。これは人形の仕草だけで人を泣かせるような神業の人形遣いがその代償として抱え込まざるを得なかった業としての昏さなのか、或いは、ますます加速度的に綻んでいく日本に対する嘆きなのかーあの「桃太郎」パートが毀れていたのはそういうことなんだろうか?ーそれともその両方なのか、なにはともあれ素晴らしい作品だったので、果たして来年はどうなるのか、今から本当に楽しみである。



*後日、「人形遣いが<反抗的な態度の人形>を演じさせるとき、自作自演の関係が生まれるのは自明であって、<ねじれ>ではないのでは」というご指摘を頂きました。確かに人形遣いが人形に反抗のそぶりを表現させるのは古典的な芸で、それについて触れなかったのはこちらの手抜かりですが、ただ「半月」の場合、人形の反抗が単なるユーモアとしてではなく、主題にまで昇華されていて、やはり「ねじれ」は「ねじれ」として見る必要があるのではないか、と自分では思うので、とりあえず訂正はしないでおきます。ご指摘ありがとうございます。

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