ライトノベル観
の理念に深く同意。
結局のところ、ライトノベルを巡る議論というのはほとんどすべて、個々人のライトノベル観を戦わせ、事実と照らし合わせたときにどちらにより妥当性を見いだせるか、というのを模索していく作業だと思います。
たとえば「『源氏物語』はライトノベルか」という問題に対する答え方ひとつとっても、その背景にはその人が、「ライトノベル」をどのようなものとして位置づけているか、ということが透けて見えます。そしてそれに対して「違うんじゃない?」と投げかけることは、「あなたのライトノベル観ではそうなるのかもしれないが、私のライトノベル観ではそうはならない」と表明することに等しいわけです。
もちろん多くの物事は人によって見方が違うため、最終的に「人それぞれだよね」で済ませるしかない場合も多々現れるでしょう。しかしながら、何もかもがそうであるというわけではなく、すべての人が共有すべき最低限の認識というのもまた、同時に存在しているはずです(そうでなければ議論ができるはずもないので)。私がこちらで書いた「ライトノベル像を言語化されたものとして提示したい」とは、つまりはその「最低限の認識」をきちんと言語化したい、ということなわけです。
ちなみにライトノベル観には、事実から自分なりに類推した「推測系」と、事実はどうあれ自分としては「こうであって欲しい!」という「願望系」の2種類が存在します。もし表明する際には、それらを自分の中できちんと区別しておくべきであろうかと思います。
自分はオタクじゃないのかもしれない、と思った
少し前から意味的にはまったく同じことを考えてたんですが、決定的に違うのが上記に書かれているようなオタクの性質について私が批判的なのに対して、kamimagiさんが肯定的、というか「それこそオタクのあるべき姿だ」という風にとらえているということ。
なるほど、これまで「一般人は俺らオタクのことをバカにしてる」とかいう言説を見るたび「その前になんでバカにされるのか考えてみなさい」みたいな突っ込みを入れたりとか、こういうことを書いたりしてきた私ですが、そういう考え方をするオタクのほうがむしろ異端である、というかオタクはそんなことしない、そんなことする奴はオタクじゃない、と。うーん、目から鱗。
要するにオタクは自己批判しない、というかしちゃいけないんだなあ、と。そうした精神構造がオタクを規定するとなると、いわゆるオタクコンテンツの立場というのはどうなるのか、ということになるわけですが、アニメ、漫画、ゲームといったコンテンツを大人になっても本気で楽しむことが世間的に「後ろめたい」ことであるため、その反動で上に書いたような精神構造を持つ人間が生まれやすい。つまるところそうした精神性とオタクコンテンツとは親和性が高い、という話になるんでしょうな、多分。*1
いずれにせよ、オタク的コンテンツは好きだけれど、オタク自身やオタクコミュニティは嫌いで、ライトノベルを歴史の中に位置づけたい、とか考えてる自分はメンタリティ的にオタクではないようです、うむ。
*1:すいません何となく思ったことを適当に書いてみました。識者の分析を待つ。