『図書館戦争』はライトノベルか

 ちょっと話のとっかかりにできそうな記事を見かけたのでお邪魔して。

 上記エントリでは『刀語』や『図書館戦争』を、特に悩むようなこともなくライトノベルにカテゴライズしてい(るように見え)ますが、私の考えは少々異なります。私の中では『刀語』はライトノベルとしては微妙で、『図書館戦争』はライトノベルではありません。理由は単純で、これらは文庫で出てはいないからです。

 これまでも何度かここの日記で言及してきた『ライトノベル「超」入門』では、ライトノベルというのは、時代に応じて、そのときの読者に受け容れられるよう、さまざまなジャンルの要素を取り込んできたものであり、そうした「手段」こそがライトノベルを規定するものだ、と書かれています。文脈的に、この「手段」は作家自身における手段、と読めるのですが、これは小説の内容だけにとどまらず、パッケージ全体にいえることだと思います。イラストをつけて(少年)漫画に似た体裁にする。文庫サイズにして単価を下げる。これらはいずれも(かつては本の市場からほとんど注目されていなかった)特定の層に特化することを目的としています。そして実際――内容もそれに合わせたものが書かれてきた結果――ライトノベルは漫画を好んで読み、経済的にあまり豊かでない、つまりは中高生を中心に受け容れられてきました。

 こうした現状を踏まえて、ハードカバーの本に「ライトノベルの枠を広げた」という名が冠されるのならば、既存の読者によるある程度明確な支持が確認できることが必要だと思います。『図書館戦争』がそれに当てはまる作品だとは、私には今のところ思えません。小説の内容自体はたしかに「ライトノベル的」ではありますが、それはまだまだ「価格」や「判型」の壁を越えるには至っておらず、読者層の中心はあくまで「(基本的にライトノベルを読まない)大人」と見るべきだと思います。

 一方の『刀語』(というか西尾維新)については、同じく文庫で刊行されてはいないものの、少々事情が変わってきます。というのも、「戯言シリーズ」に関しては「既存の読者によるある程度明確な支持」が確認できている*1からです。「戯言」に関しては、私もライトノベルにカテゴライズすることに異存はなく、半分冗談半分本気で「ライトノベルライトノベルレーベル*2作品+戯言+マリみて」と言っているくらいです。

 ただ、ひとつの作品が支持されたところで、別の作品が同様に支持されるとは限らないのが世の中の常でもあります。西尾維新は比較的読者がついて行きやすい作家だと思いますし、内容(あらすじ)や、イラストが「戯言」と同じ竹ということから、それなりに継続して支持が得られているとは思うのですが、12ヶ月連続ということで、財布へのダメージがかなり大きいという問題もあります。そんなわけで『刀語』に関しては、「戯言」を超えたとは言い難いのではないかということで、ライトノベルとして捉えていいものかどうか、ちょっと判断を保留にしているところです。


 さて、ここまであれこれと書いてきましたが、最初の「ライトノベル=手段」に立ち返ったとき、「ハードカバーで出す」というのもまた、手段のひとつであるということもできます。こうした観点に立ったとき、ハードカバーで本が出たところで、ライトノベルの幅は何ら広がってはいない、ともいえます。

 実際私自身、ライトノベルで書いていた作家が、ハードカバーで本を出すような現象に「枠を広げた」というような表現を用いることについて、素直にうなずきたくない思いを感じています。というのも、ハードカバーというのは、すでに市場がある程度確立された世界であり、そこに進出していくことは、単に既存の作品や市場におもねっているだけのようにも見えるからです。そしてそれはかつて、新たな地平を開拓したライトノベル黎明期と比較して、後退する方向性ではないのか、とも思うのです。

 ハードカバーで出ることがこれほど特別視される背景には、ひとつには「『軽くて薄い』『萌え重視』といったものが、ライトノベルのイメージとして広まってしまったこと」があるのではないかと思います。しかし(十数年前の作品を見ればわかりますが)、ライトノベルはもともと「そういうもの」だけのものではありませんでした。そんなふうに思われているのは、時代がそういう時代になり、それに合わせてきた結果が目立ってきたからに過ぎない、と私は思います。そして、そういうイメージが定着しかけていること自体、ライトノベルの概念が、読者(あるいは作家や第三者)によって狭められていることに他ならないのではないでしょうか。*3

 私はそもそも、イラストつきで文庫、というパッケージング自体が大きな縛りであり、その中でさまざまな可能性を探ることも、まだまだできるし必要なことだと思っています。ライトノベルが「軽くて薄くて」「萌え重視」なら、もっとそれを突き詰めることだって、ひとつの方向性として大いにあり得るし、またそうすることができるはずです。そうした中から出てきた、「これはライトノベルという場所でしか書けない!」と思わせる作品、そういう作品にこそ「ライトノベルの枠を広げた」という冠が(また違った意味で)相応しいのではないかと思います。

*1:このライトノベルがすごい! 2007』ランキング1位獲得など

*2:電撃、富士見M&F、スニーカー、ファミ通MF文庫J、スーパーダッシュ、GA、HJ、ガガガ、徳間デュアル

*3:穿った見方をすれば、ライトノベルで書いていた作家が、ライトノベル外で書くことが話題になること自体、ライトノベルを好んで読む人の中にも、まだまだライトノベルを「劣ったもの」として捉える心理が根強いことの表れではないでしょうか。私は例えば、SF読みに薦めるライトノベルは? と聞かれたとき、自信と根拠を持って「そう簡単にSF読みにライトノベルの面白さがわかってたまるか!」といえるのであれば、それはそれで素晴らしいことだと思いますし、それが可能なのかどうなのかたしかめる意味でも、ライトノベルというものにきちんと向き合っていきたいと思うのです。