2011/02/09 (水)
2011/01/15 (土)
■[愚痴] 生きているのが面倒くさい。 
誰もが当たり前にこなせるようなことをこなすのが辛い。
具体的に言うと、朝起きるのが辛い。ああこれは誰も辛いか。外が寒いのがしんどい。だからといって我慢するのは嫌。このへんは誰も辛いか。
まともな文化的な生活を送るのがしんどい。
歯を磨く、風呂にはいる、まともなものを食べる、っていうかまともなものを作って食べる、そのための収入を確保する、部屋をきれいにする
こうしたことがしんどくてたまらない。
「努力」も辛くなくなったほうがいいというのは間違いない。
だけど、「普通の生活」すら辛くなっている。
生きづらい。死にたい。
死んだほうが安上がりだし。
まだ生きているのが悔しい。
もっと計画を立てて、徐々に自分を追い込んでもう死ぬしかないという状況を作らないとダメかしら。
就活やめる→経歴にあな開ける→まともなところに就職できない→家がいづらくなる→行き場がなくなる→死にたいと連呼して友達もなくす→失うものがなくなる
ここまでできないのが情けないな。
「30歳までに死んでやる」って誓っても、実際の死に目をみてヤキが回って死に損なうのがオチなんだよ。
本当に死んだ人はすごいな ってまで思うようになりました。
2011/01/03 (月) 死にたい
■[愚痴] 自分の価値 the answer 
人と人が手を取り合うのは、基本的に相手に対して何らかの価値を見いだしているからと考えられる。
ここでいう「価値」とは、自分に対して何らかの利益をもたらしてくれるものと解せばいいだろうか。
「利益」とは、金銭などの経済的な利益というよりは、情緒的なもの、もしくは生物としての利益(ここでは、「生きる」「増える」上で有利になる事象を「生物としての利益」として扱う。)のことを言うとよさそうだ。
例えば、自分の配偶者が亡くなったとき、母親に対しては子供から同居のオファーが来ることはあっても、父親に対してはあんまりない。例えば、メーカーが一度落ち目になると、彼の一番の得意先ですら、仕入れた商品の代金の支払いを渋るようになる。また、品質上の欠陥、仕様書の規格に合っていないこと、納期の遅れ云々、このうな苦情を訴えるようになる。例えば、小型の淡水生物であるヒドラの一種は、緑藻類と共生関係にあるけど、ヒドラが弱ってくると、藻類はヒドラとの関係を見限って搾取を始める。同様に、ヤドカリとイソギンチャクの共生関係も、チスイコウモリの助け合いも「将来の利益」を見込んだ上での投資である。(このへん、文献からちょいちょいと引用した。俺が自分自身の言葉でチスイコウモリの生活について語れるわけないよね!)
路上に落ちている石は、誰かが「この石は綺麗だ!」と考えて拾えば、価値のあるものに変わる。
しかし、拾った人がその価値を見限ったとき、「ただの石」に戻れるだろうか?
「ただの石」以下のものになっている可能性は低くないだろう。
「ただの石」に戻れたとしても人間の幸福感の感じ方に、過去の自分との比較は避けられない。
「きれいな石」として扱われた日々と比べて、みじめさを感じずにはいられまい。
私にとっては「ただの石」かもしれないものも、別の人にとっては「きれいな、保存するに値する石」であるかもしれない。
価値が絶対的なものじゃないなら、そのものの価値は使い手の状況によっても変わるだろう。
例えば、漫画の価値は読み手に読まれる前と読まれたあとで読み手にとっての価値は大きく変わる。
もうひとつ、親密化について。知り合い→友達→恋人→配偶者という感じに自分と相手の関係が変わっていくケースを想定しよう。
友達に求めるものは「一緒にいて楽しいこと」。
恋人に求めるものは「一緒にいて楽しいことに加えて、ドキドキすること」「価値観が似てる」こと。
配偶者に求めるものは「よき父親であること」 例えば家事を手伝ってくれたり、家族サービスをしてくれたり、たくさん稼ぐことかしら。正直よくわからないので適当に書いた。ただ、「自分が必要なもの」は時々刻々と変化していく。
相手のニーズが変わったときに、それを満たしていなかったら「ただの石」に成り下がる。
「ずっと友達」という関係であるとしても、過去の自分と未来の自分は別人なので、それに適応することが求められる。あとは、年齢相応の振る舞いを求められたりとかね。「年下をけなすなよ。」とか「●●歳になってあんなんじゃ…」とか、そういう会話ってあるよね。
「変化」に適応できず、価値を提供できなくなったとき、人も道具も処分の憂き目を見る。
何もしてないだけで、「価値」は摩耗していくものじゃないだろうか。そもそも人間25を過ぎれば、あとは基本的に衰えていくしね!成長することを求められることのなんという恐ろしさよ。
「自分の価値を低く見積もらないで」って自己啓発書とかでよく見かけるし、私が尊敬する人も同じようなことを言う。評価してもらえるのは確かにうれしい。
ただ、人からの評価ってあくまで「現在の価値」もしくは「オープンにされた情報に基づいて見積もられた将来の価値」に過ぎないと思う。開示された情報の裏には「開示されていない情報」があるわけで。
「開示されてない情報」によって隔たれた自分の真価と、相手によって見積もられた価値のギャップが、時に付き合ってみて、または結婚してみて「惚れ直した」または「こんなはずじゃなかった」という事象を生み出す。
前者なら万々歳なので、後者についてもう少し見てみよう。
実は借金がある、実は浮気性だ、実はとんでもない怠け者だ、実は厄介な病気がある、家庭環境に何らかのアキレス腱があるetc. それまで付き合ってきた相手からはわからなかったけど、これからの関係を考える上で意思決定に重大な影響をもたらす可能性が高い事実が隠れている。当たり前の生活の中から見つかったものは、宝石じゃなくて不発弾でした。
「一つ一つ、向きあっていけばいいじゃないか」っていうけど、不発弾は、ゾンビのように払っても払っても湧いてくる。受験、就活、激務、増える体重、なくなる金、出世競争、振りかかる欲求、相対的剥奪、荒れる肌、市場に晒されるプレッシャー、無くなってく髪の毛、失われる健康、ヤキが回る、 etc.
俺達の戦いは、まだ始まったばかりだ。そこに健康も病んでるもない。心が健康だろうが病んでようが、腐っていくことだけは厳然たる事実である。
主な参考資料とか、発想やネタをパクった元とか
アクセルロッド『付き合い方の科学』ミネルヴァ書房 2章と5章。
2010/10/26 (火) 人に愚痴ってもしょうがないので、一人で愚痴るの巻き。
■[愚痴] コミットメントの弊害 
今は会計士クラスタにいるんだけど、最初から強く「会計士になろう。」って思ってたわけじゃないんです。とりあえず「面白そうなので、簿記2級まで取ってみよう。それから先のことは、取ってから考えよう。」って。
この思考法自体は当時の自分としては良かったと思います。
「とりあえず、動いてみる。」 人間の認知には一定の限界がある。したがって頭に思い描く理論は、いくつかの条件を無意識に無視する。行動を起こすのは自然科学や心理学の実験のようなもの、管理会計でいうと実際原価を求めるようなもの、社会学でいえば調査することで、実際に現実に問いかけることで、頭の中のイメージとのズレを確認できる。
親や先輩のアドバイスとかは、この論拠のようなものが十分に得られないことがあって、それが私を惑わしていた感じがします。だって、矛盾した内容がいっぱいあるんだもん。
ふたを開けてみて、いろいろわかりました。
イメージでは、恵まれた環境(大学までバイクで20分)の力で、このあたりのハンデを賄おうと思っていたのですが、悪い意味での定性的な見積もりなわけで、実際問題賄いきれないわけなんですね。
会計の勉強は私に多くのことを語りかけてくれたけど、奪い去っていった時間も少なくない。
誰の目にでもわかる成果として「簿記1級」はつかめたけど、それ以外にもいろいろ気づきはあったと思う。
ただ、会計の勉強にコミットしてしまっている以上、じゃあ今から「アクチュアリーになろう。」とかそういう考えを持つこと自体、マゾ以外の何者でもないんですよね。最初は軽い気持ちでも、あとで絶対後悔する。やらないよ。「不確実性にアプローチする。」という至上命題にはすごく共感するから、人生やり直せるならやってたかもしれないけど。
アクチュアリーについては割りとネタなんですが、やっぱり読める本とかはある程度制約は受けます。とりあえず短答から解放されるまでは心理学や社会学の本は満足に読めないので積む一方です。統計学の授業も切ってしまいました。基礎を理解できた気がしないので、何かを勉強している実感がわかなくなっちゃったんですよね。決して朝1限に出るのが面倒くさかったというわけではないです。
頭の中では、一度コミットメントしたらあとは振り返らない!という覚悟が一番合理的です。
思想のソースはこれ。http://sinri.net/sinrigaku/571.html
「くよくよ悩んでもしょうがない」というメッセージを確率論でバカでもわかるように示してくれた数学の成果は偉大だと思います。メーカーを専門とする会計士になるのが一番いい気がするなぁ。
ここまで書けた時点で思考の整理はできた!

・○○活動の憂鬱
・学習と成長を求める社会