西武線に乗ってドラえもん全集を読んでたら車内のJKに煽られた…夏

真夏の昼間に電車乗って『ドラえもん』をおっぴろげて読書に耽ってたんです。「藤子・F・不二雄大全集」の分厚い奴。そんで「藤本さん(通はF先生をそう呼ぶらしい)は映画をタダ見できる道具が好きなんだな」とか「1話で4回もしずちゃんにチンコ見せるエピソードがあるのかー」とか「勝間和代の解説って必要?」とか、鋭い批評を加えながらページをめくってたんですよ。すると対面に座ってた女子高生がこっちに近付いてくるじゃないですか。正直に告白すれば、おれは『ドラえもん』を読みつつ彼女を視姦する高度なザッピングを駆使していたので、「これは手が後ろに回るな」と覚悟を決めた訳です。そしたら彼女は意に反して、「のび太くん、バイバーイ」とおれに軽く手を振って電車から降りちゃったんですよ。
一人残されたおれは意味が分からず不思議な気分に。途中でトヨタのCMを思い出して「もしかして、おれと妻夫木聡を見間違えちゃったのかな?」と自惚れかけたんだけど、妻夫木似の男が西武新宿線で『ドラえもん』を読む人生を過ごすはずがない。つまりあの女子高生は、おれをのび太=ダメ人間に見立てた超絶ディスをかましてくれちゃってこと。西武線かと思ったら、実はフリースタイルダンジョンだったって話ですよ。
いや別に女子高生にディスられたのが悔しかったということじゃなくてね。普通に考えればお金が発生する行為だし逆に嬉しいぐらいですよ。でも「のび太」ってディスはどうなんだと問いたい。おれが丸メガネで黄色いポロシャツと半ズボンを愛用していたとしても煽りとして安易過ぎやしないかと。それに少し考えれば、平日の電車内で『ドラえもん』を読んでいる男なんて、小学館の編集者かシンエイ動画の社員か藤子プロの関係者しか有り得ないって想像がつくじゃないですか(おれはそのどれでもないんだけど)。
さらに『ドラえもん』が標榜するSF(すこし・ふしぎ)な世界観と、お盆というこの時期を鑑みれば、おれがFないしAである可能性だって否定できない訳ですよ。復活の「F」の可能性さえ視野に入れなければならない謎の人物に対して、まさかののび太呼ばわりですよ。ヤクルトの古田がかつて味わった屈辱を噛みしめたおれは、新宿TSUTAYAで「究極の妄想発明シリーズ 時間が止まる腕時計」と「kira☆kira」レーベルのDVDをレンタルして帰路を急ぐことしかできなかった。
そんな悲劇を乗り越えて、5月3日開催の「資料性博覧会09」のパンフレットに記事を書いたので誰か読んで下さい(宣伝ポスト)。http://www.mandarake.co.jp/information/event/siryosei_expo/news.html

ウメハラ、小足見てから余裕でした

桐島、部活やめるってよ』観てきたら面白かった。これ最後にマシンガン持った奴が乱入してクラスメイトを次々と射殺すれば最高なのになーって思ったら本当にそうなったので最高だった。でも一つ気になる所があって、作中で神木隆之介くんがゾンビ映画について熱く語るのよ。そういや『東京公園』でも榮倉奈々がゾンビ好きだったなーって思い出したんだけど、映画って美男美女の俳優にゾンビの魅力を語らせても大丈夫なメディアなの? だってこれのオタ.verを考えるとかなり悲惨な内容になることは火を見るよりも明らかじゃん。
例えばゾンビという三文字をコミケという言葉に置き換えてみる。そして美少女キャラクターがコミケについて熱く語る場面を想像してよう。性格はツンデレだ。なんならセリフも付けてみる。「コミケは日本の文化なんだからねっ!」お、おええーゲロゲロゲローで、でたー美少女のツラを借りて自己肯定を謀るオタが出ましたよー。『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』ですよー(半鐘を打ち鳴らしながら)。
もちろんコミケがゾンビより劣っているという訳ではない。コミケもゾンビも共に素晴らしい文化だ。走ることを禁じられた集団が不気味な速度を保ちながら移動するという親和性までも兼ね備えている。だけどオタが好きなモノを美少女キャラに言わせると、途端に透けて見えてしまう。これただ単にアニメキャラにオタの気持ち代弁させただけじゃねーかって。諺で例えるならキャラの威を借るオタク。文楽を批判した橋下市長の言葉を借りるならば「キャラを操っているオタの顔が出ているのがおかしい」ということになる。
そんなわけで我々はオタ趣味を持つ美少女キャラに対してことごとく死刑判決を下してきたじゃないですか。「エロゲーマニアの妹」ギルティ!「格ゲーがうまい下級生」ギルティ!「高校デビューに失敗した女子高生」ギルティ!「ネット用語を口走る美少女科学者」ギルティ! とキャラの魅力に多少の後ろ髪を引かれながらも、心は鬼にして13階段を登らせた訳じゃないですか。
それなのに、それなのにですよ、なぜ映画制作者は美しい顔をした俳優にゾンビを語らせることに何のためらいも持たないのですか。そりゃ神木くんにゾンビの魅力を語らせれば説得力も生まれますよ。でも実際にゾンビ映画を観に行くと神木くんみたいな美少年は見当たらず、ゾンビみたいな観客ばっかりじゃないですか。そして怖いモノ見たさで訪れた一部のカップルを喰い殺してるじゃないですか。ギルティ! ギルティ!!
おれは神木くんじゃなくて、その友達のおデブちゃんの口からゾンビの魅力を聞きたかったんだよなー。肥満した肉体を持て余して不自然に体を揺らしつつ「ゾンビがーロメロがー」と語って欲しかったんだよなー。と臓物をこぼれ落としながら映画を観ててそう思った。

本編観てないのに『おおかみこどもの雨と雪』のコンテを読んだぜぇ(^-^)/ワイルドだろ〜

ストーリーを追ったら誰でも思う「学生なんだから避妊しろよ」という意見は二重に間違っている。一つは単純に「学生だって子供産んでも良いだろ」という話。もちろんおれも、若くして子供がいる人を見ると思わず親子の年の差を計算して「コイツ齢○○にして中出ししたorされたのか」と唇を噛み締める側の人間だ。学生なのに生で性行為に励む連中を憎む気持ちは君たちと変わらない。だが「学生だから避妊しろ」という計画性のなさを叩く意見は「蓄えのない奴は子供を産むな」という話にすり替わり、最終的には低所得者強制パイプカット法案が賛成多数で可決され、おれの精管が政府の手によって切断されるディストピア社会が到来するのは明らかだ。その点からこの意見には大いに反対の声を上げたい。
世相を斬る社会派ブログとしての一面を披露したあとで残りの理由を挙げると、主人公は後先考えずに行動するタイプの人として、ちゃんと描かれているのだ。野菜を育てようとする主人公はジャガイモのタネイモをそのまま土に埋めてしまう。植え付け前にイモを切らないとダメなことぐらい「タネイモ」でググれば一番上のサイトにも出てくるのに、まったく気にしない。「まぁ土に入れとけば大丈夫だろ。彼のタネイモも膣に挿れたら産まれたし」と土も膣も一緒の安易な考えで野菜を育てようとする。母なる大地とはよく言うもののこれじゃ流石にひどすぎる。その主人公の姿を見ると、あー彼女もアホなんだなー、細田守作品の伝統をちゃんと受け継いだキャラクターなんだなーと感動してしまう。だから避妊も思い至らなかったんじゃないかなーって気がする。
それより引っかかったのが、わざわざ奨学金にアルバイトまでして大学行ったのに何がやりたかったのかさっぱり描かれない所。まるで母親となるために大学に行ったような感じになってる。まぁ学生の大半はセックスか就職のために大学へ行くので間違いではないのだが(おれは勉強をするため大学へ行ったので結局セックスも就職もできなかった)、子育て以外にまったく興味を持たない人物として描かれている。でも最後は子供もいなくなって、早すぎる余生を与えられちゃう。そこで笑うんだけど主人公はつらい時にも笑う人なので真意がわからず、そのまま作品が終わってしまうのは何か怖いなーと思った。あとは読んでて気になったところ。

  • タレの入った瓶に焼き鳥を突っ込むのはセックスの暗喩 (これがアニメ批評)
    • サマーウォーズ』の料理はコンテでは美味そうだったのにアニメだと不味そうだった
  • 細田守作品って死んだ人や消えてしまう人の呪縛に捕らわれる話多いな。
    • つらい時に笑うのも死んだ父親の教えだし、子供育てるのも彼の声が聞こえたからだし
      • 『オマツリ』から全部そうか。オマツリ男爵を好意的に描くと『時かけ』以降の主人公になるのか
  • 時かけ』や『サマーウォーズ』と違って話が一直線に進む感じじゃないので、実際に作品見ると印象かなり変わりそう
  • コンテに「こども特有の動き」って時々描いてあった
  • 笑顔でも何考えてるか分からないっていうのはいいな。『トイ・ストーリー』のキャラが無表情なのと同じで観客が推測するしかなくて
    • 笑顔で作品が終わるのは『オマツリ』もそうか
  • コンテだと狼形態でもケモノ寄りなんで、ゴミ収集の人も新種発見って驚きそう
    • ポニョを皆が金魚って呼んでた違和感と似てる。『ポニョ』は最終的にそんなの気にならない地点まで到達するんだけど
  • 彼の風体がオタの想像する自分自身みたいな感じでちょっと
    • ボサボサの髪とか無精髭とかヨレヨレの服とか出しとけばオタは感情移入すると思ったら大間違いだ
  • 主人公、彼と会うときも別れるときも「気付く」だけで画面は変わらない
    • なぜか色々気付く人として描かれる
      • でも妊娠に気付くのはつわりのせい。つわり→妊娠はもういいよ。母の力で着床を悟って欲しい
  • 奥寺佐渡子脚本ということで『お引越し』を思い出すな。山を登ったり。あと『台風クラブ
  • 狼男はキジに負けて死ぬ。弱い
    • グレンラガン』が地上に脱出した父親を探す話かと思ったら2話で死んでた感じで良い
  • 占領軍の兵士と恋に落ちたけど相手は戦死してしまったみたいな話か
  • 長回しのカットを最近使うようになったけど、あんま成功してないような
  • つらい時に笑う主人公の身振りは子供たちに受け継がれてるのか
    • 雨は彼に、雪は主人公に似てるって訳でもないよな。彼はちゃんと日常生活は送れてたんだから
      • 彼の遺伝子だけを色濃く受け継いだ、自分にあまり似ていない子供たちを育てる話だったら嫌だな

『トイ・ストーリー3』と朽ちたイチゴの香り

『トイ・ストーリー3』の予告を観た時のことは今でも覚えている。あまりに鮮烈で、その後に流れた映画本編の内容が頭に入らない予告は初めてだった。それは一緒に観に行った友人も同じだったようで、映画が終わって食事をしている時も本来観たはずの作品については全く触れずに予告の話で盛り上がっていた。別れというテーマが簡潔に、それでいて明確に表現されている内容はもちろん、個人的にはビデオ特有の粗い映像が憧憬の対象として、取り戻すことのできないものとして表現されているのが新鮮だった。日本のシネマ・コンプレックスではフィルム上映とデジタル上映が混在していた2010年に観られたのも幸福だったのかも知れない。それから2年が経過した今では、予告を観た映画館は全ての作品をデジタルで上映している。
しかし胸を打つ予告を観てしまった者の常として、つい余計な心配もしていたのだった。つまり本編は予告を越えられるのだろうかと。数多く存在するトレイラーだけが面白かった作品に『トイ・ストーリー3』も名を連ねてしまうのではないか。どうしてもそんな恐れを抱いてしまう。いや、こんな素晴らしい予告を観せてくれたのだから本編がダメだって良いじゃないか。むしろダメであるべきなのだ!と傷つくことに慣れすぎた我々は予防線を張り巡らせていたが、当然それは杞憂に終わった。

二つの段ボール

『トイ・ストーリー3』は主人公である玩具のウッディと、その持ち主アンディの別れを主題に物語は進んでいく。もうすぐ大学生になり親元を離れる準備をしているアンディは、引っ越し先にウッディを連れて行くのか、それとも置いていくのかがサスペンスとして描かれる。ウッディが"大学"と書かれた段ボールに入れられれば、これからもアンディと一緒。"屋根裏"の段ボールなら実家に居残り、別れが待ち受けている。だが、その結末はほとんど決まったようなものだ。あの予告編が別れを描こうとしているのは明らかだし、そもそもピクサーが「ウッディはアンディと一緒にいつまでも幸せに暮らしましたとさ」というエンディングを用意しているとも思えない。ウッディの"屋根裏"行きは確定的だろう。本編を観る前から分かりきった話だ。
そう分かっているはずなのに、アンディが一番古い玩具であるウッディだけを"大学"行き段ボールに入れた所で「もしや…」と思う。続いて作品の終盤、アンディが"屋根裏"段ボールの他の玩具たちをプレゼントするため、女の子の家へ向かう場面を観て「おお、本当に別れさせないエンディングなのか」と確信してしまった。よくよく考えれば想定できる「ウッディは"屋根裏"段ボールに入り直し、自ら別れを決断していた」という本当のエンディングに全く思い至らなかった。"屋根裏"段ボールの中に存在するはずのないウッディの姿を見付け、アンディと一緒に驚愕する結果となった。なぜ自分は(おそらくは観客の多くも)ウッディが"大学"行き段ボールに入ったままだと思い込んでしまったのか。誤解する原因となった、アンディが女の子の家へ行くシーンを詳しく観てみよう。
   
女の子の家へ向かったアンディは、車を家の前に止めて"屋根裏"行き段ボールを持って外へ出る。その時、車の後ろに積んである"大学"行き段ボールが画面に映る(画像左)。カメラはそのまま段ボールに近付いていく。画面のほとんどが段ボールに占められるとショットは切り替わり、女の子の家に向かうアンディの後ろ姿が映される(画像右)。画面が長方形に隈取りされている点や前述のカメラワークから、このショットは"大学"行き段ボールの中にいる人物が外を覗き見たものなのだろうと推測できるようになっている。要するに、プレゼントされる他の玩具たちを見守っているウッディの視線なのだろうと思ってしまった訳だ。このなんてことはない無粋な種明かしを読むと、上記のショットは受け手のミスリードを誘うために挟まれたアンフェアなものに思えてしまう。実際"大学"行き段ボールの中には誰も入っていなかったのだから、これは観客を騙すだけに存在する卑怯なショットではないかと。だが『トイ・ストーリー3』はこのショットを挟んだことで、玩具/持ち主という物語上の要素とは異なる、別の関係性を作品内に持ち込むこととなった。

ウッディとアンディ/映画と観客

   
『トイ・ストーリー3』の玩具たちは遊んで貰う機会に恵まれず、長いこと玩具箱の中に仕舞われっぱなし。ようやく出されたかと思ったら今度はゴミ袋や段ボールに入れられてしまう。哀れな玩具たちは狭くて暗い場所から外を覗き見ることしかできない。本作のストーリーは玩具たちが箱の中から外の様子を伺う場面から始まっていたし(画像左)、舞台となるサニーサイド保育園に到着した時も段ボールから覗いていた(画像右)。このように『トイ・ストーリー3』では登場人物の主観ショットが多く採用されている。観客はこのキャラクターの視線と自分の視線を重ね合わせることで彼らに感情移入していく。玩具たちが映画館の環境とよく似た暗くて狭い場所にいることもキャラクターへの同一化を容易にさせ、映画特有の甘美な体験を満喫することができる。
しかし先ほど述べたように、本作で使用される最後の主観ショット、"大学"の段ボールからの視線だけはそれまでのものと決定的に異なっている。いかなる登場人物の視線でもない、偽りの主観ショットであったためだ。キャラクターと視線を共有していた観客が、最後の最後に自分一人だけの視線に戻されてしまう。これは物語のラストで玩具の側から別れを告げられてしまったアンディと不思議と重なってしまう。アンディが玩具といつまでも一緒にいられなかったのと同じように、観客である我々も映画を永遠に観続けることはできない。それを露呈させるかのように、ウッディが"大学"の段ボールに入っていなかったと明かされた後、その驚きが冷めない内に映画は早々と終わってしまう。すぐさま劇場の照明がともり、従業員のアナウンスが早く家へ帰るように促してくる。
『トイ・ストーリー3』は偽りの主観ショットを挟むことで、玩具と持ち主だけでなく映画と観客の関係性にも踏み込むことになった。ウッディは持ち主であるアンディだけではなく、観客にも別れを告げていたのだ。それではウッディはどうして一度は決めていたはずの新生活を捨てて別れを選んだのだろうか。ここにも「映画」という要素が関わってくる。

映画を観たウッディ

外での大冒険を終えた玩具たちはアンディの部屋に戻る。互いに別れを告げた彼らは、ウッディだけが"大学"行き、他の玩具たちは"屋根裏"行き段ボールへ入る。そこにアンディと母親が部屋に来る。するとカメラは一歩引き、部屋の全景を映す。物に溢れていたアンディの部屋はすっかり片付いて閑散としている。母はこれを見て、もうすぐ息子も部屋からいなくなることに気付いてしまう。カメラを引くだけで『トイ・ストーリー3』を母と息子の話に変えてしまった凄い場面だ。前半のアンディの部屋があんなに汚かったのはこのシーンのためだったのか、と思う暇さえない。一瞬で空気は変わり、まるで劇中劇が始まったかのようだ。母は「ずっと一緒にいられたらいいのに」と息子を抱きしめる。それをウッディは目撃してしまう。

どうも自分にはこの場面が、ウッディが映画を観ているショットのように見えてしまうのだ。画面の構図はもちろん、暗い段ボールの中から唯一漏れる光を眺めている点や、サニーサイド保育園に到着する時とは違い言葉を発することなく黙って二人の姿を見つめる様子も、その思い込みに拍車をかける。母と息子の別れを見たウッディは、それまでの決意を全て翻して正反対の行動を起こす。何かに取り憑かれたかのように、ほとんど発作的に。
やはり自分はウッディが突然に決断したのは、母と子の別れを扱った映画を観てしまったために思える。このショットには映画が人の(玩具の)人生を変えてしまった瞬間が表現されているように思えてならないのだ。そして『トイ・ストーリー3』は「映画は人生を変えることができる」という自信に溢れた作品なのだろう。いや、自信という大げさな言葉で飾るのは正しくないのかもしれない。本作は、映画を観ると人生は当然変わってしまうもので別段めずらしいことではないと、さらりと表現しているからだ。もちろん自分もその変わってしまった一員であることは間違いないし、おそらくあなたもそうなのだろう。

もう一人のウッディ

つまり『トイ・ストーリー3』が教えてくれるのは、映画やアニメを観れば人生は良い方向に変わっていく――。なんて牧歌的なことだったら、おれはわざわざこんな長ったらしい文章を書かなかったし、この作品を心底軽蔑していただろう。そんなのウソに決まっているからだ。第二次大戦中にはアニメーションの技術がふんだんに使われたプロパガンダ映画を観て多くの新兵が死地に赴いた、なんて歴史的事実を紐解かなくてもおれの周りにはアニメに魅せられて身を持ち崩した奴らで溢れているし、別にそのことに後悔もしていないだろう。
『トイ・ストーリー3』にはウッディの他にもう一人、映画に似た何かを観てしまったせいで人生が変わってしまったキャラクターが存在する。彼は真夜中に窓ガラスというスクリーンを通して明るい部屋の光を見てしまった。そのせいで彼の人生は一変してしまう。幸運にもその光景を見なくてすんだビッグ・ベビーは優しい心を失わなっていなかったし、一緒に目撃したはずのピエロはあまり変わらなかった。(驚くべきことだが映画を観ても人生が変わらない奴も存在する)*1だが彼に与えられた変化は決定的なもので、自分の命をウッディに救われても改心することはない。逆にウッディを見殺しにしようとさえする。彼は映画のせいでダークサイドに堕ちてしまったキャラクターとして描かれている。
『トイ・ストーリー3』が教えてくれるのは、アニメを観ると人生は(良きにつけ悪しきにつけ)変わってしまうということだ。変わってしまう前の人生を取り戻すことはできないし、アニメは変わってしまった後の人生に責任を持たない。当たり前のことだ。そして変わってしまった者同士として、ウッディと彼は兄弟みたいなものだろう。ただそれがプラスに働いたかマイナスに働いたかの違いでしかない。*2そしてこの作品を観た後でおれはどうしても考えてしまうのだ。自分はウッディなのか、それとも彼なのかと。その時になぜか流れる汗からイチゴの匂いを漂わせながら。
そんな『トイ・ストーリー3』が本日7月8日午後9時から日曜洋画劇場で地上波初放送。さらに7月21日(土)全国ロードショーの『メリダとおそろしの森』では最新短編作『ニセものバズがやって来た』が同時上映されるぞ。みんなもテレビで前作の復習を済ませてから映画館へ向かおう。
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*1:だがそれはピエロが映画的素養を持ち合わせていなかったというより、道化師であるその姿が関係しているように思える

*2:本当はウッディの行動も正しかったのか誰にも分からないように描写されている。寄付先の女の子が腐女子に目覚めウッディとバズをBLごっこに使用する展開も十分考えられる