寄り道
病院に寄ってから大学に行ってきます。
ホント、病院とか歯医者とか、苦手。
ほっといたらよくないのは分かってても、なんだか足が向きませんよね。
寄り道、その後
と、いうか、「全治二ヶ月」ってなんですか!?
とりあえず、また二週間後にお邪魔しないといけません。
ライブとしての講義の存在理由とは何か
- 作者: 桜井哲夫
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2003/06/11
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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上の本の中で、以下のようなことが紹介されている。(pp.217-218)
*1
さて、フーコーにとって、コレージュ・ド・フランスは、理想的な場所だった。大学行政のわずらわしさを免れることができたし、さらに重要だったのは、学生を指導する義務がなくなったことだったようである。ラジオのインタビュー(1975年3月)で、コレージュ・ド・フランスについて尋ねられて、フーコーは、次のように答えている。
ええ、そこで私がうれしいのは、教える、つまり、聞いている人に対して、ある権力的な関係を押し付けているという感じがしないことなんです。そもそも、教育者ってのは、「聞きなさい。ここに、君たちは[まだ]知っていないが、知らなくちゃいけないことが、いくつもある」と語る人間のことですね。これが、私が、罪の意識作用と名づける第一段階を生むのです。二番目には、知らなくちゃいけないことがあって、それを私が知っているので、それを教えるわけです。これが、義務の段階になります。続いて、私は、教えたのだから、生徒はそれを知っていなくちゃならないわけで、それを確かめるわけです。これが、検証(試験)なのです。
そして、今述べたのが、一連の権力関係ということになります。コレージュ・ド・フランスでは、講義は、開放されています。人々は、なんであっても、自分で望むから、講義を聴きにやってくるのです。それが、退役の大佐であっても、十四歳の高等中学校の生徒であってもいいわけです。興味があれば、来る。興味がなければ、来ないというわけです。
まぁ、要は、権力論的なことをおっしゃったわけですね。特に、フーコーのように一流の研究者ともなると、自分の研究に費やす時間を割くのも辛いことだっただろうとも思える。
それはそれとして、学生の側からしても、講義(授業)というものは、なぜ受けなければならないのだろうか、と時々考えてしまいますね。特に、朝、目覚ましが鳴って、起きなければならないけれど、体がいうことをきいてくれない時に、ふと、「なんで、こんなに眠いのに大学に出向かなければならないのだろぅ」と
授業を、「ライブ」で行う利点は確かにある。その場で質問が出れば、先生としても学生としても新たな刺激を受けて、授業が活性化したりするかもしれない。
しかし、ライブの講義は、学生にとっても、研究者たる先生にとっても、いかにも非合理的ではないだろうか。先生によっては、同じ(全く同じ)講義を週に2,3回繰り返すこともあるようだし、生徒の授業参加(出席率・積極的な発言など)も低いレベルであるのが現状だろう*2。
それならば、DVDなんかで授業を映像データ化して、履修届けのあった人が借りて観て勉強できるようにした方がよいかもしれない*3。そして、ネットを介して、専用掲示板などで生徒と先生の双方向の対話も充分可能だと思われるのだが。。。
そうすれば、学生も寝坊できるしフレックスで時間の有効活用ができるし、先生も研究に時間をつぎ込むこともできるだろうし、それによって優秀な研究がでれば、大学としてもメリットが多いのではないかと考えられるのではないか。
まぁ、履修や単位認定の関係上、上のフーコーが述べるような権力関係から開放されることはないが・・・
また、極論だったかな!?