箱庭から出ること、成長すること、大人になること

さて、それでは物語の箱庭性と大人になることの意味について書いてみたいと思います。

彼らは「成長」するのか?〜成長を描くことの困難〜

tyokorataさんは彼らが物語の箱庭、自分達のルールが通用する世界から出られない理由について、次のように描かれました。

 なぜ箱庭から出れないかというと、肩書きや立場こそがすべてだからです。そこには一個人というものの輝きは存在しないのです。もしそれがいたとしてもマスコミ(ネット含む)という第三者によって保障された一個人に過ぎないのです。箱庭から一歩でも外を出たら、箱庭の中で地位を固めたり戦う事に特化した人間は一部の例外を除いて恐ろしく無力で価値のない存在に成り下がるからです。

これはこう考えてみればよく分かるでしょう。
グラップラー刃牙の「地上最強の生物」範馬勇次郎やその息子の刃牙は「月光条例」や「絶対可憐チルドレン」で活躍することができるでしょうか。おそらく、彼らの強力無双をもってしてもこれらの作品で十分に活躍することは出来ないでしょう。ましてや「機動戦士ガンダム」の世界ならば、モビルスーツに蹂躙される個人以上にはなりようがないでしょう。
これは単に、彼らがそのような世界で通用する能力を持たないということだけではありません。
彼らの持つパーソナリティがグラップラー刃牙という作品に、広く見ても見ても格闘マンガという「箱庭」に特化しているために、それ以外のジャンルの作品に馴染むだけの余裕を、柔軟性を持たないのです。*1
ですが、私がここで問い直したいのは、彼ら…主人公達は、そもそも成長余裕可能性を持つ存在であったのだろうか、ということです。

成長のドラマとヒーローの論理
 ヒーローは成長しない、ということは、ヒーローは基本的に大人である、ということを意味する。漫画やアニメばかりに目を取られると、この真理を見失う。『特攻野郎Aチーム』のジョン・ハンニバル・スミスも、『西部警察』の大門啓介も、『子連れ狼』の拝一刀も、みなオッサンではないか。
 つまり、ヒーローが少年少女である場合でも、ヒーローの核となる信念についてはすでに完成形態になっていなければならない。

私はこの引用箇所が本質だと思います。
話は変わりますが、江戸幕府をひらき天下を統一した徳川家康は「鳴かぬなら、鳴くまで待とう、ホトトギス」と言われるように、自分が台頭する時代が来るまで耐え忍び待った男だと、一般には言われています。ですが彼自身は自分の忍耐強さについて、自分は怒りっぽい性格だから、怒らないように怒りを表に出さぬように、意識して耐えたのだと言っているのですね。
つまり、耐え忍ぶ家康も怒りっぽい家康も共に彼自身であって、もし仮に、怒りっぽい家康が経験を積んで耐え忍ぶことを身につけたとしたら、それは「成長」と呼べるのではないでしょうか。
「成長」を短所や欠点の克服と定義した時、主人公達は短所や欠点を自覚した時点で既に成長していると言えるのかもしれません。彼らにとって成長とは、自身の長所と短所を自覚し克服する過程であるとも言えるでしょう。
前述のグラップラー刃牙に戻ってみれば、主人公刃牙は、最強の生物である父親範馬勇次郎を倒すために戦い続けて強くなるという信念を持っており、そして彼の住む箱庭もその信念を正当化するように出来ているわけです。
刃牙の信念は少なくとも箱庭の中にいる限りは正しいのですが…、そして勇次郎も暴力の神に仕える暴力主義者でありますから、刃牙が父親を克服する手段として暴力を用いるのは間違っていないのですが、同時にその信念の問題点に無自覚である限り、彼は成長可能性を持ち得ないのです。*2

まだ続きます。

*1:これはある意味、就職した企業のスタイルに特化してしまう日本型サラリーマンに似ているとも言えます。その点からも、tyokorataさんの指摘は正しいと言えるでしょう。

*2:これについて、刃牙は鍛錬を続け強くなり続けているから箱庭の外でも通用する強さを身につければ良いのだという反論があるかもしれません。ですが「箱庭の外に出る」とは暴力ではどうすることも出来ないモノが存在する世界に出て行くということなのです。