大人になる物語、大人になることを拒絶するキャラクター達

http://d.hatena.ne.jp/tyokorata/20100827
さて、随分と時間が過ぎてしまいましたが、大人になるということについて、考えを進めてみたいと思います。
私が随分以前…、新世紀エヴァンゲリオンがTVで放送された直後でしょうか、時代背景としてオウム真理教によるテロ事件などもあったからか、青少年の精神的成長の問題や社会心理学の問題が一躍クローズアップされた時期がありました(だいたい1996年から数年間です)。
その時私は何かで…、大学の一般教養の心理学だったかもしれませんが、「現代人は14歳から精神が成長しない」といった話を目にした記憶があります。つまり、現代人は大人になっても心は子供のままということなんでしょうが、取り合えずこの話は余談として、では、大人になるとはどういうことなのだろうという点から考えてみたいと思います。

大人になるということ

単刀直入に結論から言いたいと思います。
私は大人になるということを「自分の人生が自分のものだけでは無いことを自覚する」「他人の人生の一部を背負う覚悟を持つ」ことと考えます。
私が座右の書にしている「マップス」からその典型とも言うべきシーンを提示しましょう。



このシーンの前段で主人公であるゲンは、銀河全てを背負うのは女の子一人を背負うのに比べ荷が重いと語っています*1。それに対してゲンの恋人(の一人)である星見は、銀河を重いと感じるなら代わりに私を背負ってと言っているのです。もちろん、ゲンが女の子一人を背負った経験を持つから出た発言なのですが。
この例は少々壮大すぎるかもしれませんが、そもそも論として、いかなる社会においても、大人になる、大人として認められるとは、自分以外の人の人生を背負うことでした。
庶民であれば結婚を認められることと同義でしたし(結婚を指して「身を固める」と言いますね。)、武家であれば元服、つまり家督を継ぐ資格を得ることでした。逆に言えば結婚をしていない人間は「身が固まっていない」、つまり子供と変わりがないということでもあるわけです。
さて、ゲンはこのときまさに自分以外の人の人生を背負うことの意味を問い直され、改めて銀河の勇者*2としての使命と覚悟を新たにしたのですが、tyokorataさんがこれとは全く真逆のキャラクターについて触れておりました。

http://d.hatena.ne.jp/tyokorata/20100827#c1283008104
大人の男性が家庭内で大人の役割を果たしているかどうかというと…。
 大人向けの社会人コミックの代表格である『課長島耕作』が、娘に向かって「私の人生はお前のためにあるんじゃない!」と叫ぶくらいですから…。

これはものの見事に島耕作が「コドモ」であることを自ら暴露してしまった台詞と言えるでしょう。そしてこのメンタリティは、ジャンプ系バトルマンガの主人公達とも共通していると言えます。
実は、メンタルの強さと弱さは表裏一体という話があります。
やり手サラリーマンとして活躍し女性を次々と篭絡する島耕作は実は自分の娘の人生を支えることもできない弱いメンタルの持ち主ですし、他のバトルマンガやスポーツマンガのキャラ達も家族や恋人と関わることを極力避けようとします。
例えばドラゴンボール孫悟空牛魔王の娘のチチと結婚し悟飯や悟天という息子に恵まれながらも日常生活が全く想像できないキャラですし*3、「あしたのジョー」をはじめとしたスポーツマンガも、「グラップラー刃牙」「修羅の門」といった格闘マンガも、戦い以外での日常的な人々との関わり、家族や恋人や友人との繋がりを拒否しているように思えるのです。
「メジャー」の茂野吾郎は、体をボロボロに壊しながらも、家族のために、子供たちに父親が戦う姿を見せるためにマウンドに立ち続けるという道を選択したのですが、未だに殆どのバトルマンガ(スポーツマンガ、格闘マンガを含め)が家族や恋人を自分の行動を制約する障害という扱いから越えられないのですから、長年積み重なった「セオリー」を破るというのは容易ではないのでしょう。*4

碇シンジアイデンティティクライシス

旧劇場版エヴァンゲリオンにおいて、友人との別離や渚カヲルを殺したという精神的ダメージから行動できなくなっていた碇シンジは、葛城ミサトから、

ミサト:「サードインパクトを起こすつもりなのよ。
使徒ではなくエヴァシリーズを使ってね。
(中略)
いい、シンジ君。エヴァシリーズを全て消滅させるのよ。
生き残る手段は、それしかないわ。」


シンジ:「助けてアスカ…助けてよ
もういやだ…死にたい…何もしたくない…」


ミサト:「何甘ったれたこと言ってんのよ。立ちなさい。
あんたまだ生きてるんでしょ。
だったらしっかり生きて、それから死になさい。」


シンジ:「僕は駄目だ…駄目なんですよ。
人を傷つけてまで…殺してまでエヴァに乗るなんて…そんな資格無いんだ。
(中略)
僕には人を傷つけることしか出来ないんだ…だったら何もしない方がいい!」


シンジ:「ミサトさんだって…他人のくせに…何も解ってないくせに!」


ミサト:「他人だからどうだって言うのよ!!あんたこのままやめるつもり?!
今、ここで何もしなかったら…私許さないからね…一生あんたを許さないからね…
(中略)
いいシンジ君…もう一度エヴァに乗ってけりを付けなさい。
エヴァに乗っていた自分に…何のためにここに来たのか…
何のためにここにいるのか…今の自分の答えを見つけなさい…
そして、けりをつけたら、必ず戻ってくるのよ…」

と叱咤され、エヴァに乗せられました。
碇シンジエヴァンゲリオンという作品の中で、

1) 戦いを拒絶:1話〜5話
2) 戦いを受容:6話
3) 承認の喜び:7話〜15話
4) 状況の変化:16話〜23話
5) 挫折・アイデンティティクライシス:24話〜25話
6)解決:26話

という流れを辿っています。
エヴァンゲリオンという作品はとくめー氏(id:FXMC)の指摘するとおり、まともなメンタルを持つ主要キャラが一人もいないという滅茶苦茶な作品でしたが、それでもミサトの台詞は、シンジの肩にはシンジだけではなく他の多くの人の運命がかかっていると訴えた点で、先に提示した「マップス」のシーンに重なります。
エヴァが新しかったのは、アニメは決められた話数内で主人公の行動の変遷を描かなければならないという制約上、主人公の挫折は戦いそのものの否定ではなく、正しいと思って行動したことが上手く行かなかったとか、自分の大切な人(家族や恋人)を戦いに巻き込んだ*5、メンター(指導者)を失った*6という形で描かれるのに対し、エヴァは更に深く、挫折の原因を戦いそのものにあると、戦いの当事者であるシンジ自身に戦いを否定させてしまった為に…結果として収拾がつかなくなり破綻したわけです。*7
精神発達の視点においては、4)、5)、6)のステップは子供がそれまでの価値観、保護者の庇護から脱出し、大人として自立したメンタルを確立するための過程として捉えられているのですが、翻ってバトル系マンガのキャラを考えると、2)戦いの受容〜3)承認の喜びをひたすら行き来するだけで、4)状況の変化以降に進む作品は殆ど無いようです。もちろん4)に触れようとする作品は少なからずあるものの、変化を打倒することで、2)、3)を一層強化するという方向に進むことが多いのです。

*1:ゲンは物語の序盤で、惑星ベニュアスのジャルナ王女を助け惑星イスナとの惑星間戦争を防いだことがあり、背負った女の子とはジャルナ王女のことです。

*2:実はこれも簡単に説明ができないのですが…、ゲンはポジティブなナウシカ風の谷のナウシカ漫画版)と言えば近いと思います。

*3:どう考えても牛魔王の財産に頼ってニートしているとしか…

*4:映画監督、黒澤明の凄さというのは彼の監督技術というより、後年彼のシナリオや絵作りを模倣した作品が多く作られたことから、踏襲せざるを得ないセオリーを幾つも作り上げたということだと言われます。

*5:パッと思いつくのは「るろうに剣心」の人誅編で、剣心が薫を守りきれなかったことを悔やみ、剣を封じてしまったというエピソードです。

*6:近作で言うと「天元突破グレンラガン」のカミナの死など。

*7:対比として「機動戦艦ナデシコ」を取り上げると、「第22話 『来訪者』を守り抜け?」と「第23話 『故郷』と呼べる場所」で、木連(木星圏ガニメデ・カリストエウロパ及び他衛星小惑星国家間反地球共同連合体…長い)との戦いに疑問を感じ始めていたクルー達はナデシコを降り、外から戦いを見つめ直すというエピソードが入りますが、そこで日常を取り戻すには戦いを終わらせなくてはならないという「健全な」意思を持つことで危機を乗り越えています。