孤独が流れる音

あれこれのことが停滞している理由を考えてみたところで、その晩の音楽が気持ちよく聴けるわけがないなんてことは、10代のころからわかっている。逆に音楽に集中することでその理由に存在論的な意味付けをすることで澱みを言語化し、某かの快楽を得ることがある。音楽と言葉が鏡の裏表のように到達不可能な無限の距離の中で拮抗する瞬間だ。理由を考えれば現実は手もとに手繰り寄せられるだろう。しかしそうではないのだ。なぜ現実が"そのようにある"かのほうが俺には重要なのだ。そのようにして時を待つ。
きょうは待っていたその時が来た。動き始めた現実は鏡を透明な流れに変貌させる。バシュラールのいう「明るい水」の想像力だ。
仕事帰りに時折立ち寄る自宅の傍のバーでLAPHROAIGの樽もの11年なんて珍しいアイラ・ウィスキーをストレートで2ショット飲む。想念が流れはじめたぶん肩も指先もかるくなり、気障な台詞のひとつでも語りたくなるが、あいにくきょうはひとりだ。家族が寝静まった家に帰り、805などという20センチもある通信管を出力管に使った真空管アンプに火を入れる。この真空管の明るさは火を入れるというのがふさわしい。こういう日は青白く光をにじませる銘真空管300Bアンプでも、3センチほどの大きさしかないが805などよりも強い音を聴かせるWE396PPPアンプでもなく、805でなくてはいけない。
蝋燭のように明るい805真空管が充分灼熱したところで、音楽を選ぶ。きょうは停滞の意味などを考える必要もない。語ることばかり多い音楽はダメだ。当然だがBGMめいた音楽ならばないほうがいい。沈黙に拮抗しても深く世界にのめり込んでもダメだ(Oh! Mensch! Gib Acht!/Was spricht die tief Mittnacht!/…Aus tiefem Traum bin Ich erwacht!/Die Welt ist tief!)。昏く静かに流れる沈黙がいい。ショパンノクターン。ピアノはヴァレリー・アファナシェフでないといけない。こういう状況でショパンというと松田優作が「野獣死すべし」の映画の中で一人うずくまってショパンのピアノ協奏曲第1番を聴いている名場面を思い出すが、俺が聴きたい音はもっと密やかで孤独な音だ。音が孤独に引き裂かれそうになりながら声を上げず、美の瞬間を無理矢理この世の時間につなぎ止めるために時を進めなければならないアイロニーを表現するのに、アファナシェフ以外のどのピアニストがいるだろう。小雪が出ていたパナソニックのテレビのCMに使われたことで有名になった遺作(嬰ハ短調)に、これほど死の影が寄り添っているとは!

ショパン:ノクターン集

ショパン:ノクターン集