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2008-05-10

[]亀山上皇安達泰盛と平頼綱 21:07 亀山上皇と安達泰盛と平頼綱を含むブックマーク

平頼綱は大河ドラマ北条時宗」では北村一輝氏が演じていた。こわい演技で、宮迫博之氏演じる北条義宗やともさかりえ氏演じる北条時輔夫人の祥子との絡みは一つの名場面だったが、別のラブコメでこの3人が共演しているのをたまたま見た時に何となく笑ってしまった。義宗と頼綱と祥子ラブコメやってる、というイメージ安達泰盛柳葉敏郎氏。頼綱と激しい対立を繰り広げ、和泉元彌氏の北条時宗をかなり困らせる。義宗は自殺に追い込まれ、義宗を巻き込んでしまった塩田義政は自責の念に駆られ、出家遁世する。

実際にモンゴル戦争の頃の鎌倉幕府は頼綱と泰盛の対立が抜き差しならないものになっていた。これは研究史が一致する所である。未曾有の国難に日本国民が一致団結して立ち向かった、というのはおそらくニッポソ歴史であって、日本の歴史ではない。鎌倉幕府ですら泰盛と頼綱が対立していたのである。そもそも鎌倉武士が勇敢に戦った、とかいうのも嘘である。勇敢に戦ったのは九州武士である。鎌倉武士の奮戦というのは九州武士団を軽んじる言い方である。

安達泰盛・平頼綱・北条時宗の3人がモンゴル戦争で何をしていたのか。安達泰盛北条時宗に関してはかなり一致がみられる。安達泰盛は非御家人御家人に取り込む動きを活発に見せていた。その一方で亀山院政との関係を強化するなど、幕府日本全体の政権にするべく動いていたようだ。それを海津一朗氏は「武家一統」を目指した、と評価し、本郷和人氏は「統治」を目指した、と評価する。北条時宗についてもほぼ一致している。強力なリーダーシップを発揮した人物ではないようで、概ね泰盛と頼綱の狭間で何もできなかった、せいぜい泰盛と頼綱の衝突を調停する役目でしかなかった、という評価である。どちらかと言えば調整型の人間だったようで、それはそれとして評価すべきだろうとも思うが、乱世のリーダータイプではないようだ。

評価がほぼ一致している泰盛と時宗だが、問題は頼綱の評価である。頼綱が何を目指していたのか、というのが分かれるのだ。

海津一朗氏は泰盛の御家人拡大政策が非御家人の中の「京都被官」と呼ばれる人々を積極的に取り込もうとしていたために、亀山院政との軋轢を引き起こし霜月騒動において成立した頼綱政権によって京都被官に対する管理・保護政策が改められ、頼綱との協調のもとで亀山院政の徳政興行が進められることになった、という(『蒙古襲来』吉川弘文館、1998年)(「『元寇』、倭寇日本国王」『日本史講座』第4巻所収、2004年)。

本郷和人氏は逆に頼綱政権亀山院政への対抗関係で捉える。亀山上皇皇子であった後宇多天皇を退位させ、後深草上皇皇子である伏見天皇即位させる。亀山は失意のあまり出家してしまう。本郷氏は亀山院政から後深草院政へのスイッチは二月騒動ですでに予定されていた、とする。つまり後深草皇子の煕仁親王立太子させることは、亀山院政にくさびを打ち込み、求心力を低下させた、と考える(『新・中世王権論』新人物往来社、2004年)。

この両者の考えの対立点は、亀山院政安達泰盛・平頼綱の関係如何である。海津氏は亀山はむしろ頼綱と近かった、と考え、本郷氏は泰盛と亀山の親近性を主張する。

私にはこの両者とも正しいと思う。というと矛盾がありまくりだが、要するに亀山と泰盛の関係を中心にして考えるべきなのだ。そしてそれを固定的な関係として捉えずに、動的なものとして捉えるのだ。つまり泰盛と亀山関係は、協調と競争の狭間で揺れ動いた、と。いずれも「統治」という視点で「公武手をたずさえて」(村井章介氏『北条時宗蒙古襲来』NHKブックス、2001年)徳政興行を行ったが、非御家人の拡大枠によって朝廷の権益が侵されかねない局面に入ると、当然緊張関係に変わる。頼綱は基本的に既存の御家人利益を代表する勢力である。非御家人御家人化を促進する御家人拡大政策を主導する泰盛とその点においては対立するわけだが、御家人拡大政策が自らの権益を侵すことを恐れる亀山院政とはある意味協力関係にもなり得る。ただ頼綱サイドには亀山院政の自律化を歓迎しない意向が働いていたので、常に頼綱が亀山を見放す可能性は当然存在した。二月騒動で頼綱が亀山院政にくさびを打ち込んだことが、逆に頼綱にとっての亀山の利用価値につながるのだ。しかし亀山院政が軌道に乗り出すと頼綱は亀山院政をいつでもつぶせる。そして霜月騒動から二年後に頼綱は源惟康の親王宣下を要請し、1287年10月4日に立親王、同21日に後宇多天皇伏見天皇譲位し、亀山院政が終わりを告げる。「統治派」の命脈はほぼ断たれた。これ以降頼綱政治恐怖政治と化していく。惟康親王から後深草皇子久明親王将軍職が交替するのと前後して亀山上皇出家し、法皇となる。惟康から久明への将軍職の移動と亀山出家がほぼ同時並行で行われたのは、単なる偶然ではなく、おそらく頼綱の意向が働いていたのだろう。頼綱は泰盛に続いて亀山も葬ったのだ。

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