北条時輔関係史料 文永3年(1266)9月29日「六波羅召文案」『青方家家譜』(『鎌遺』9574号)

引き続き召文。

肥前国御家人青方太郎吉高申、被抑留所従三人由事、重訴状(副具書)如此。早来十一月中、相具生口、可被参洛之状如件。
 文永三年九月廿九日 散位 在判
           左近将監 在判
 白魚弥二郎殿

まずは読み下し。

肥前国御家人青方太郎能高が申す、所従三人が抑留せらる由の事、重訴状(副具書)此の如し。早く来る十一月中に、生口を相具し、参洛せらるべき之状件の如し。
 文永三年九月廿九日 散位(北条時輔) 在判
           左近将監(北条時茂) 在判
 白魚弥二郎殿

現代語訳。

肥前国御家人青方太郎能高の所従三人が抑留されたという事について。重訴状(具書を副える)は以上の通りである。早く来る十一月中に生口を連れて上洛されるようにということである。

「生口」というのは何かよくわからないが、おそらく「生口」が奴隷もしくは捕虜のことを指しているとすれば、白魚弘高が抑留した青方能高の所従三人のことである可能性が高い。所従のことを「生口」と表記するというのは、所従が一種の奴隷であることを示している。所従とひとまとめとして史料に現れる「下人」については「農奴」という見方と「奴隷」という見方が対立しているが、所従に関しても同様の問題はあるだろう。しかし所従が他ならぬ自身の身体すら所有していない状況を鑑みると「奴隷」とみなすことが出来るように個人的には思われる。安良城盛昭氏は「奴隷と犬」(『天皇天皇制・百姓・沖縄』吉川弘文館、1987年)において次のように奴隷の特質を説明する。
「他人の所有の対象」「非所有主体=無所有」「被給養=非自立」「被給養=非自立の強制」「過酷な支配」
この概念は戦国大名家法の分析を通じて得られた「下人身分」なのだが、安良城氏のいうように「奴隷身分」であろう。しかしそこから鎌倉時代室町時代を「奴隷制社会」と定義づけるのには慎重にありたい。なぜか、と言えば、古典古代の「奴隷」と「下人・所従」とは同じ奴隷といっても外面的な共通性があっても、本質は異なると考えるからである。もし「奴隷身分」が存在することが「奴隷制社会」の指標であるならば、リンカーン奴隷解放宣言を出すまでのアメリカも「奴隷制社会」ということになる。しかし実際にはこれを「奴隷制社会」というのは躊躇せざるを得ない。「下人・所従」というのは古代律令制における「奴婢」とは異なるカテゴリーであると考えた方がいいだろう。
『鎌倉遺文』ではこの関係の史料は出てこないが、瀬野精一郎氏編の『松浦党関係史料集』ではこの史料(一〇一号)の次の一〇二号文書に裁許状があり、青方能高と白魚弘高の兄弟(!)の裁判は白魚弘高の勝訴となったようで、「葵」と「荒太郎」のうち、少なくとも「葵」は白魚弘高のもとにいくことになったようである。