鎌倉幕府はいつ開かれたのか

昨日、結石の発作で医者に行ったが、そこの医者の待合室には「サピオ」「週刊文春」「週刊新潮」が置いてあって、かなり繁盛していたので「文春」「新潮」「サライ」と読んでもまだお呼びがかからないので「サピオ」を手に取った。折しも小林よしのり氏が「天皇論」を書いていて、そこに書かれたことに一々反応するほどこちらも天皇論に関してまともな知見があるわけではない(偏向しまくった論もどきならいくらでもあるが、不特定多数の目に触れる場所に公にするべきではない内容)。ただ一つ目についたのは小林氏の「陰謀論」全開の認識、というよりも小林氏がいかに歴史を知らないか、ということを知った。
小林氏は教科書で鎌倉幕府が開かれたのが1192年から1185年に変更されていることを天皇の影響力を小さいと考えたい左翼の陰謀、という趣旨で批判していた。1185年に守護・地頭が設置されて西国にまで頼朝の力が及んだことを以て幕府開設、と見なすのは反日サヨクの陰謀だと言う。
要するに1185年に鎌倉幕府の開設を認めるのは反日サヨク的な学説である、ということである。それでは実際の研究ではどうなっているのか、をみておこう。
1185年に鎌倉幕府成立の画期を認める古典的な学説は牧健二『日本封建制度成立史』である。この著で牧は所領を媒介とした主従関係を歴史上の制度に高めたものとして守護地頭設置の勅許を評価し、それを以て鎌倉幕府が成立した、と主張した。小林氏の理屈に従えば、牧健二は反日サヨクとなる。牧がこの著作を著したのは1938年1935年、すでに左翼運動は弾圧され、言論統制はしっかり敷かれていた。この時代の大家の著作をサヨク呼ばわりするのは難しいと思う。牧の著作は当時通説として扱われていた。時々何も知らない人が「封建制というのはサヨク用語で、戦前にもサヨクはいた」と知ったかぶりを披瀝することがあるが、牧健二の業績も知らずに戦前の封建制研究に言及するのは、いわば四則計算もできないのに二次方程式を解こうとするようなものである。最近先学の膨大な研究史をすっ飛ばしてネットで知った一片の知識を振り回しているのが目立つが、過去の膨大な研究の蓄積に対する冒涜である。そういう類いの言説が「サピオ」という商業誌に載っていることに寒心する。まあ「サピオ」は「戌」と「戊」の誤字を直さないまま史料を載せて当該史料を意味不明にしてしまった前科がある。それがそのままコピペでネットに広がったために、ネットの中の史料のほとんどが「戌」と「戊」の誤字が残っている、という結果になり、逆に言えば「戌」と「戊」を逆にしたまま載せている人は、おそらく「サピオ」の孫引きなのだろう、ということが分かる。せめて校訂位はしてほしいものだが、そういう人は出展を「サピオ」とはせずに、自分で調べました、とばかりに「サピオ」に書かれていた出展を載せているのがかわいらしい。実はそれは明治時代に発刊された本で、今日ではほとんど入手不可能だ。私のバイト先の大学図書館でも西園寺公望が所蔵していたものしかなく、学生や院生では閲覧できない。私が閲覧できたのは、そこで学生を教えるバイトをしているからだ。そういう本を出展にした「サピオ」編集部に歴史学的素養があるとは思えない。少しでも歴史学的な素養があれば『鎌倉遺文』を出展として挙げるだろう。これならば文学部のある大学には大概あるし、私がかつて宿直のバイトをしていた高校にも置いてあった。地域の図書館にも置いてあるし、比較的当たりやすい。
牧の著作を批判したのが石母田正。石母田は1960年に発表した「鎌倉幕府一国地頭職の成立」で牧説である鎌倉幕府1185年成立説を否定する。石母田自身は1959年の「頼朝の日本国総守護職補任について」において頼朝の「六十六箇国惣追捕使」補任が大きな画期とみなし、1190年に上洛し、朝廷から六十六箇国惣追捕使に補任されたことを重視する。つまり天皇によって幕府が公認されたことを強くみるのである。
黒田俊雄も権門体制論を提唱し、幕府は天皇を国王とする権門体制国家の枠組みにおける武力担当の一権門にすぎないと定義した。黒田もまた天皇の枠組みを強く意識する研究者である。小林氏の理屈に従えば、石母田や黒田は反日サヨクによる天皇軽視に抵抗する天皇主義的歴史学研究者になるだろう。しかし石母田も黒田も日本を代表するマルクス主義歴史学研究者である。教科書で1185年に鎌倉幕府の画期が置かれることと、「反日サヨク」とは何の関係もない。むしろ1192年説を提唱する研究者が極端に少ないだけである。頼朝が朝廷に公認を求めた事例は何も征夷大将軍だけではない。1183年の寿永二年の宣旨、1185年の守護地頭の設置の勅許、1190年の六十六箇国惣追捕使補任、右大将・権大納言任官と政所設置の許可などいくらでもある。その中で征夷大将軍に特に注目する意義がない、というだけの話である。小林氏は頼朝と朝廷の関係について全くと言っていいほど基礎的な知識がなかったために、征夷大将軍否定=天皇否定と短絡したのであろう。普通はそういうのは編集部がチェックを入れるべきなのだが、悲しいかな、「サピオ」の編集部にも歴史学に関して最低限の素養を持つ人材がいないのであろう。それは「戌」と「戊」の誤字でも明らかだが、今回も「サピオ」の歴史学的素養に疑問符がついてしまった。
聖徳太子問題でも聖徳太子論争について全く無知なまま議論をしていて、聖徳太子問題に触れるのであれば大山誠一『聖徳太子の誕生』(1999年)や谷沢永一聖徳太子はいなかった』(2004年)を読めば、特に谷沢永一氏の思想を考えれば「反日サヨク」=聖徳太子否定説ではないことがわかるだろうし、直木孝次郎「厩戸王の政治的地位について」、上田正昭「歴史からみた太子像の虚実」(いずれも2001年)が逆にマルクス主義歴史学研究者からの大山説批判であることを考えれば「聖徳太子を否定するのは反日サヨク」というのがいかにいい加減な記述かは分かるだろう。それとも谷沢永一氏が「反日サヨク」なのだろうか。そして直木孝次郎氏や上田正昭氏は「愛国者」なのだろうか。このことも何も原著に当たらなくともウィキペディアをみればわかる話である。ウィキペディアが信用ならないのであれば谷沢氏や大山氏や上田氏や直木氏の著作に当たる労を惜しまなければいいだけの話である。小林氏も思い込みとネットの情報だけでマンガを垂れ流さない方がいいし、「サピオ」編集部ももう少し真剣にフォローすべきであろう。むしろ編集部の存在意義が問われているのである。極端な話、小林氏が誤ったとして、小林氏は多忙だろうし、歴史学の素養を期待する方がそもそも過剰に期待しすぎかもしれないので、止むを得ないとも思うが、それを正すのが編集部の仕事である。編集部が少なくとも歴史学的な側面では全く機能していないのである。他の問題についてはそういうことはないと信じたいが、歴史学の分野に関しては現時点では編集部の能力に疑問符を付けざるを得ない。小林氏位のビッグネームになれば編集部も注文をつけづらいのかもしれないが、小林氏の論の説得力にも関わる問題であり、「サピオ」編集部は勇気を出して小林氏の誤りを正すようにすべきである。せっかくの氏の論の説得力が損なわれかねない。まあ所詮よしりんはそんなもんだ、とか「サピオ」ってその程度のクズ雑誌だ、と言われれば何とも言いがたいが、少なくともそう言われないような努力はするべきだろう。あるいは「サピオ」の読者層は嘘を言われても、それが自分の意見と一致していれば気にしない、というのであれば、それは「サピオ」の読者をバカにしすぎているだろう。