これはひどい ウィキペディア(笑)

ウィキペディア近衛基平の項目。「基平は下手に返答を出せば御しやすしと侮られ、日本の体面を潰しかねないと憂慮し、返答せずの姿勢を堅固し、返答すべきと主張する一条実経二条良実らと激しく角逐した」だと。そんなこと誰が言ってんだぁ?近衛基平が返牒に反対していたのは『深心院関白記』(近衛基平の日記)を見れば明らかだが、一条実経二条良実が返牒すべし、という意見なんてここのような怪しげなサイト(2008-05-04 - 我が九条)でしかお目にかからねぇぞ(笑)。こちらもしっかりと裏を取っていない仮説段階だから、利用は自己責任でお願いします、ってことで。
ちなみに史料から読み取れるのは、基平が「元摂関」という肩書で評定にしゃしゃり出てくることを嫌がっていることである。
具体的に史料をあげると以下の通り。

両前博陸参内。余即事退出。近日前官人々競出仕。頗無先規歟。『深心院関白記』文永5年2月15日条

もうひとつはこちら。

一条前殿下令参給。前関白殿御参。座籍依無骨、殿下退出給『吉続記』文永5年6月14日条

ちなみに私がそのように考えたのは次の二つのところ。

牒状、高麗取進蒙古国牒也。仍其牒二通也。称和親之儀。委見牒状、此事国家珍事大事也。万人驚嘆之外無也。前博陸両人参向座。無骨。仍余参内。『深』文永5年2月8日条

これと次のここ。

異国事(返牒有否)有沙汰。前博陸両人参。然而余対座ニ居也。如此重事不参之条、不可然之故也。『深』文永5年2月10日条

追記
「基平は下手に返答を出せば御しやすしと侮られ、日本の体面を潰しかねないと憂慮し、返答せずの姿勢を堅固し、返答すべきと主張する一条実経二条良実らと激しく角逐した」という「要出典」な記述は今年の1月29日に書き加えられたもののようだ。「要出典」タグでも貼り付けようかな(笑)