承久の乱の原因2−承久の乱と源氏

承久元(1219)年7月13日に後鳥羽の命令によって討ち取られた源頼茂であるが、頼茂の誅殺に関して幕府が何らアクションを起こした形跡はない。それどころか伊賀光季によれば、「たまたま若君(藤原頼経)が下向されたので、今まで事情を申しませんでした」と25日に到着した使者が報告したわけで、一応鎌倉幕府御家人でもあるはずの頼茂の誅殺に関して何ら特別な関心を寄せていないのは注目される。これは頼茂の誅殺が少なくとも幕府にとって意に反することではなかったことを示しているだろう。
吾妻鏡』においては「頼茂依背叡慮」ということで、後鳥羽の意に背いたことを原因として挙げているが、『愚管抄』では「我将軍ニナラント思タリト云コトアラハレテ」ということで、将軍になろうとしたことを原因としている。
源頼茂摂津源氏の棟梁で、源頼政の孫にあたる。血筋的には河内源氏の棟梁であった源実朝に替わって将軍に就く資格は十分にある。しかも頼茂は実朝の政所別当でもあった。実朝親裁を支える有力者でもあったのである。実朝暗殺の場にも「殿上人」として一条信能や源仲章らと並んで参加している。そして頼経が京都を出発する4日前に討滅されている。頼茂事件により摂津源氏は滅亡した。河内源氏に続いて摂津源氏もその棟梁が失われたのである。そして頼茂は御家人でもあったにも関わらず、幕府が特別な反応をしている様子もない。頼茂の子息の頼氏は捕縛され、以降の消息は不明になるが、もし頼茂が後鳥羽に殺されたのが、幕府にとっていわれのないことであれば、名誉回復が図られて然るべきである。ということは、頼茂の誅殺は後鳥羽にとって、というよりは幕府にとって意にかなったことだったのであろう。実朝の後継に藤原頼経を擁立し、源氏の将軍を終わらせる幕府の意向に後鳥羽もこの段階では協力している、ということになる。倉橋・長江両荘の地頭職の問題が倒幕のきっかけではないことを如実に示している。そして頼経が下向した段階でももちろん後鳥羽は倒幕に踏み切ってはいない。この段階ではまだ幕府との協調の可能性を模索していたのであろう。
頼茂の誅殺は幕府の意を受けた後鳥羽によって実行された可能性は、当時幕府が源氏の血縁の抹殺を計っていたことからもうかがえる。公暁の血縁を全て処断したのみならず、北条政子の妹の阿波局所生の阿野時元も消されている。残る有力な源氏の血統は頼茂と大内惟義であった。大内惟義は実朝の暗殺の場に居合わせたことが確認できるが、それ以降、史料から姿を消すので、おそらくほどなく死去したのであろう。ということは、将軍として源氏の棟梁として一番相応しいのは頼茂ということになる。頼茂は消されるべくして消されたのである。
永井氏は九条家を反後鳥羽と位置付けたうえで、後鳥羽が頼経将軍擁立に伴って倒幕に踏み切った、と考え、その上で後鳥羽が独自に兵力を集める場合に後鳥羽にとっても、幕府にとっても頼茂は邪魔になっていた、と考えるが、私は九条家を反後鳥羽とカテゴライズすることに対しては疑問があり、さらに頼茂の存在はむしろ幕府にとって邪魔になっていた可能性が高いと考える。もし後鳥羽が兵力を組織しようと考えるならば、摂津源氏の棟梁で、大内守護を担当する頼茂を自分の側に抱き込むことは有益であると考えられるし、現に後鳥羽は同じく源氏一門で大内守護を務めていた大内惟信を抱き込んで、承久の乱の時の兵力としている。頼茂が後鳥羽の倒幕計画に気付いて誅殺されたのであれば、幕府は何としても頼茂の名誉回復を図るはずである。現実には幕府は頼茂誅殺には何ら反応を示していない。おそらく幕府も頼茂誅殺には関与していたのであろう。そして『愚管抄』が「将軍ニナラント思タリ」としたのは、頼茂が実朝の後を継いで将軍になりうる存在と見なされていたことを示しているだろう。そのような存在の頼茂が消されることの利益は後鳥羽よりも幕府にとって大きい。
では大内惟義とはどういう人物なのか。大内惟義は平賀源氏である。平賀源氏とは源義光の四男の盛義に始まり、信濃国平賀郷に所領を持ったことから平賀源氏と呼ばれる。盛義の子の義信は源義朝に従って平治の乱で活躍し、義朝が落ち延びるのにも従っている。その後義朝と別れ、信濃国に向かったことが幸いして殺されずにすんだ。頼朝が挙兵した後は頼朝に従い、御家人筆頭の地位を占める。義信の子の平賀朝雅北条時政と姻戚関係になり、時政と牧の方のクーデターでは実朝に代わって将軍になろうとしたとして時政の失脚とともに誅殺される。
朝雅の兄が惟義で、惟義は義信の嫡子であったことから、御家人筆頭であったが、朝雅事件以後、北条義時御家人筆頭の地位になる。伊勢・伊賀・越前・美濃・丹波・摂津の守護を兼ねていたが、これは後鳥羽の意向が強く働いていると考えられている。惟義もまた実朝の政所別当として頼茂や仲章らと並んでいる。そして政所別当が9人に増員された時から新たに別当になった人物こそ、実朝親裁では大きな役割を果たしていた、と考えられようが、その人物こそ源仲章源頼茂大内惟義であった。あと一人の大江広元は将軍と義時の調整役として、おそらく義時の意向で加えられた、と考えられるので、仲章・惟義・頼茂は北条義時にとっては非常に邪魔な存在であったことが推測できる。仲章は実朝と共に消された。頼茂はこれも消された。惟義を嗣いだ惟信にとってはこのまま源氏の粛正が続けば、次は自分だ、との考えが当然出てくるだろう。
承久の乱の直前には幕府自体が分裂していた。その中で源氏は追いつめられて行ったのである。摂津源氏が滅亡させられた今、残る源氏の有力者は大内氏と足利氏だけであった。足利氏は北条義時の妹をめとり、義時との関係が強かった。大内氏平賀朝雅の関係上、義時と距離が存在するのは否めなかったのである。北条氏もややこしい内部事情を抱えていた。義時は時政の嫡子ではなかった。江間を名乗る分家であったのだ。時政の嫡子は牧の方の所生の政範と考えられている。そして平賀朝雅の妻は牧の方の所生であり、一方足利義兼の妻は牧の方の所生ではなく、政子と同腹であった。
惟義の死後、六カ国守護を継承した惟信は後鳥羽に属し、承久の乱で倒幕に加わる。惟信が後鳥羽の倒幕計画に加担していたことは、後鳥羽の倒幕計画の中身を如実に表している。つまり、源氏による幕府を清算し、新たな幕府体制を作ろうとする北条義時に対し、後鳥羽は源氏による幕府を復興させようと考えたのではないだろうか。さらに言えば、北条氏が新たな貴種をかついで幕府を新たな〈共同体−間−第三権力〉として位置付けようとしたのに対し、後鳥羽はあくまでも権門体制の中の「武」を担当する権門として、権門体制という〈共同体−間−第三権力〉の「武」という強力機構を担う権門として位置付けたかったのではないだろうか。
頼経下向の段階では、まだ後鳥羽自体は倒幕に舵を切っていない。しかし義時は頼経を担いで後鳥羽主導の〈共同体−間−第三権力〉からの自立を計っていた。貴種を担ぐにしても、そこに実朝という紐帯が存在すればこそ、皇族を下しても、あるいは摂関家を下しても、幕府は朝廷中心の権門体制の中の一権門であり得た。しかし義時が完全に飾りものと化した貴種を擁立すれば、それは新たな王権として自立することになる。後鳥羽はそれを阻止しようとしたのではないだろうか。とすれば、後鳥羽が倒幕の意図を固めるのは、義時が頼経を使って、朝廷の権威を侵害するような挙に出たことを後鳥羽が悟った時、ということになるだろう。そういう出来事を考えてみたい。