南部守行の上洛

南部守行上洛の記事は『看聞日記』応永二十五年八月十日条にある。

関東大名南部上洛、馬百疋、金千両室町殿へ献之云々

これだけしか記事がないが、前後の情勢を考えれば、いろいろほじくり返すこともできる。
この上洛の契機は伊藤喜良氏の指摘通り、上杉禅秀の乱との関係であることはほぼ間違いないであろう。ただどうでもいいことだが、伊藤氏は記者の伏見宮貞成王を「時の天皇の父親」(伊藤『中世国家と投獄・奥羽』417頁)としているが、当時の天皇称光天皇で、「天皇の父」は後小松上皇になる。貞成王は天皇の曽祖父の兄の孫に当たる。後に貞成王の皇子が後花園天皇となる。
一番のポイントは「関東大名(たいめい)」という形で南部氏が把握されていることである。この南部氏は三戸南部氏で、言うまでもなく陸奥国の大名である。陸奥国は「奥」と表記されるのが通例だから、「関東」というのは、南部氏の本拠を表しているわけではあるまい。これは南部氏の政治的立場を表している、と考えられよう。
「関東」はもちろん「関東公方」のことをさしている。要するに南部氏は陸奥国の有力者として上洛しているのではなく、関東公方支配下の一員として上洛している、と考えられる。だから「関東大名」と表記されたのであろう。
応永二十五年と言えば一四一八年、つまり上杉禅秀の乱の直後で、禅宗の乱においては、室町幕府関東公方足利持氏を援助して、上杉禅秀を鎮圧した。その関係で上洛しているのであって、南部守行個人の立場で上洛しているのではなく、「関東」を代表する立場で上洛しているのではないだろうか。「馬百疋、金千両」という大量の贈り物も、守行個人というよりは、持氏の代理人として持参した、とみることもできそうだ。
こう考えれば室町殿足利義教との関係がこじれた後に、持氏側の有力者であった南部氏が、義教の言い分を聞く可能性が低いことを、義教も畠山満家も理解していたとしても不思議ではない。
ちなみに永享の乱では南部氏は持氏を裏切って室町殿側についていた、と「寛政系図」中の「南部家系図」の南部義政項にある。もっともそこでは「義」の字を将軍義教からの拝領としているが、当時「義」の諱を貰える人物は限られていたから、南部氏に「義」字が与えられる可能性はほとんどないであろう。