奥州探題を考えてみる2


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陸奥国の有力国人の一人蘆名盛氏。弓の攻撃カード。
奥州管領奥州探題の違いやその経緯について。
1391年、奥羽二国は鎌倉府に移管され、斯波氏にまとまりつつあった奥州管領は終焉する。その理由について、通説として室町殿足利義満鎌倉公方足利氏満の円滑な関係と、奥羽における指揮者不在が挙げられるが、管領斯波義将から細川頼元に交代したことの影響を挙げる遠藤巌氏や家永遵嗣氏の見解が存在する。
実際、黒嶋氏は幕府が有力国人を保護育成していることに注目する。幕府は奥州国人と直結し、権限を与えることで、奥州管領地盤沈下をもくろんだのではないだろうか、つまり義満は奥州管領の強大な権力が斯波氏のもとに収斂し始めた時、その解体を決意した、と推測する。
しかし国人が鎌倉府と対立し、また氏満を継いだ満兼が弟を篠川・稲村御所として送り込んだことで、混乱が激化し、幕府はその収拾のために斯波詮持を奥州探題に任命し、京都の室町殿の支配下に置き、以降大崎斯波氏が奥州探題世襲する。これがいわゆる奥州探題の「復活」であるが、黒嶋氏は奥州管領奥州探題を同一視することに疑問を呈する。
伊藤喜良氏は奥州探題の職権として軍事指揮権、段銭徴収権、官途推挙権をあげ、「余目氏旧記」の書札礼の記事などから、探題を中心とする室町的秩序の存在を指摘する。しかし黒嶋氏は、一国を単位とした賦課を徴収した事例が15世紀初頭には消滅しており、他国の守護と同様の段銭徴収権を保持していたとは考えられない、としている。また裁判権も有力国人がその任にあたっており、大崎氏が陸奥国の行政的な統治権を有していなかった、と指摘する。官途推挙権も、被官となったのではなく、足利一門という家格の高さから、官途推挙状を出し得たものと推測する。
書札礼と席次について、「余目氏旧記」の席次に関する記事が、南北朝期の奥州管領時代のものであることを指摘し、その記事をそのまま奥州探題大崎氏の立場に適用するのは、問題があるとしている。
奥州探題武家社会秩序で陸奥国の頂点に位置することは明らかだが、行政的統治権を有さず、国人を拘束するような職権を持ったとは考えられない、という見解を示す。広範な権限を有し、国人を統御し、幕府から解体された奥州管領奥州探題とは別物であるが、それを同一視する認識が生まれたのは、「余目氏旧記」にあるとする。