11年12月07日(水)
■[演奏会]都響スペシャル

19時〜 サントリーホール
- シモナ・シャトゥロヴァー(ソプラノ)
- ヤナ・ヴァリンゲロヴァー(メゾ・ソプラノ)
- トマシュ・ユハース(テノール)
- ペテル・ミクラーシュ(バス)
- 晋友会合唱団(合唱)
- 東京都交響楽団(管弦楽)
- ヤクブ・フルシャ(指揮)
とても親密な雰囲気の中でおこなわれた、素晴らしい演奏会となった。チェコからやって来た四人の独唱者は素晴らしい出来でしたが、声高に歌うというよりも、しんみり音楽を奏でている感じでとても親近感が持てた。Pブロックを潰して入った晋友会合唱団も同種の方向性の演奏を披露し、合唱が好調なときに感じられる「声はやっぱりいいねえ」という感覚を十分に得られたものと考えます。そしてオーケストラが素晴らしい! この曲は今までピンと来ずそれほど詳しくも聴いて来ませんでしたが、オーケストラが単なる伴奏に終わらず、ちゃんとメイン・メロディーを奏でて、それだけ取り出して聴いても立派に音楽になるように書かれていて、それでいて声を潰さないよう大音響では鳴らないように精妙にコントロールされてるんですね。これは素直にドヴォルザークに感心しました。そして都響の皆さんも気持ちが入っていて*1、シルクのような柔らかな響きによる、本当に素晴らしい演奏を見せてくれました。いやもうほんと、弦も管も、か細く儚く、絶妙に歌うんです。この曲は、嗚咽するでも吼えるように号泣するでもなく、息子が十字架にかけられた聖母の哀しみを思い頭を垂れ、彼我の救いを祈り見届け、魂を昇華する音楽であったのです。かけがえのない宝石以上にかけがえのない、美しい音楽であったと思います。「あまり知らない曲」から「ドヴォルザークの最高傑作」へと、私の中で一気にランクが上がりました。
なお、演奏参加者全員が、お互いに十分聴き合っているのも十分感じ取れました。誰も前に出て過度に目立とうとせず、美しく悲しく儚い音楽を、じっくり聴かせるのだという目的意識を共有していたのが痛切に感じられました。その姿勢がなんと感動的だったことか! これはやはり、指揮者ヤクブ・フルシャの功績でしょう。素晴らしく実直でまっすぐで、でも懐の深い指揮ぶりでした。1981年生まれの若手ですが、いやはや感服いたしました。
ということで、これまでクーベリック盤でしか聴いて来なかったこの曲に対するイメージがガラリと変わった演奏会だったのですが、twitterを見ていると、「ドライブ感がない」と文句を付けている人がいて驚かされました。フルシャは、ドライブ感なんかどう考えても最初から狙っていないわけで、この批判はあまりにも一面的だと感じられた。
ただし、今日のフルシャらの演奏だと、最後の最後、アーメンのフーガの盛り上がりが妙に浮いて聴こえたのも事実。どうもその呟きをした人は、昔、マンフレッド・ホーネック指揮チェコ・フィルでこの曲を聴いたことがあるらしく、そちらはもっと濃密で劇的であったよし。正直、今の私には「濃密で劇的」なドヴォルザークの《スターバト・マーテル》は想像がつかないんですが、相反する傾向の演奏も平気な顔をして存在して、なおかつどっちも素晴らしいというのがクラシック音楽の特徴の一つであることは間違いない。そして確かに、「濃密で劇的」な演奏であれば、最後のアーメン・フーガも浮かないだろう。いつかそういう演奏に当たるのを期待しておきたい。
*1:この演奏に「気合いが入っている」と言うのは凄くずれるなと思ったのでこの表現。
11年12月04日(日)
■[演奏会]NHK交響楽団第1715回定期演奏会

15時〜 NHKホール
当初発表からキャスト変更のあった公演である。まず10月25日にソプラノのクリスティーネ・ブリューワーがエリン・ウォールに、テノールのポール・グローブズがジョン・ヴィラーズに、それぞれ「本人の都合で」変更。11月29日には、メラニー・ディーナーが中島彰子に「健康上の理由で」変更。この種の大本営発表をどう受け止めるべきか、という問いが、東日本大震災後(なかんずく、福島第一原発事故後)の日本の聴衆には突き付けられている。
さて演奏。デュトワがいつも以上に大きな身動きで大編成をテキパキさばいていたのが印象に残る。全体的にはとても洗練された造形ですっきりまとめ上げられていて、聴いていてとても心地よかった。オーケストラのアンサンブルはさすがN響で鉄壁、特に弦と木管は底力を発揮して個人技面でも見事であった。一方、金管は、首席トランペットが肝心なところで音を外していたのが残念であった。でも皆さん、結構な力演で、クライマックスでは遠慮会釈ない大音響を現出、小さい音の箇所では一転して(弾いている人数は多くても)繊細な表現が希求されていた。合唱にもこれは言えて、東京混声合唱団もNHK東京児童合唱団も素晴らしい演奏を披露。デュトワのバランス感覚も相まって、非常に美しい《千人》が達成されていた。前日の1日目の演奏では、第1部が勢いに任せてる感ありとの情報を得てましたが、今日はそんなことは全くなく、第1部・第2部ともに、デュトワのコントロールが行き届いていたと思います。第1部がスペクタキュラーな音楽である一方、第2部では内省的でしんみり味わい深い音楽に聴こえる、という現象を実演でも確認できたのは収穫かな。
独唱者は、テノールは高音部が「音が聞こえない」レベルで全く出せておらず落第点。誰だこれ呼んだのは。バスも非力でした。しかし他は満足すべき水準に達しており、特にエリン・ウォールと天羽明惠、スザンネ・シェーファーの歌にはグッと来た。
なおこの演奏会での演奏者は、総勢で500人超。同曲初演の1,000人超のほぼ半分ながら、それでもやはりこれだけ出て来ると見た目も圧巻だし、日本一巨大なゴミ箱であるところのNHKホールすら、最大音量時には音が飽和寸前になっていて、なかなか面白かった。
11年12月03日(土)
■[演奏会]東京交響楽団第595回定期演奏会

18時〜 サントリーホール
- J.S.バッハ/シェーンベルク編曲:プレリュードとフーガ 変ホ長調BWV552
- ラヴェル:左手のためのピアノ協奏曲ニ長調
- (アンコール)カッチーニ/吉松隆編曲:アヴェ・マリア
- ストラヴィンスキー:バレエ音楽《ペトルーシュカ》(1947年版)
- 舘野泉(ピアノ)
- 東京交響楽団(管弦楽)
- ギュンター・ノイホルト(指揮)
一曲目のバッハ/シェーンベルクは非常に立派な演奏。一つのモチーフの中でも、楽器編成をちょこまかいじるシェーンベルクの微細な音色制御をしっかり表現していました。ノイホルトは職人ですなあ。
二曲目の協奏曲は……舘野泉はもう「ひびの入った骨董」ではなく、「割れた骨董」である。リズム処理は甘いし、ミスタッチは多い。恐らく卒中の後遺症でしょう、高音のキー(つまり右側)の方に身体を向けるのが難儀そうで、高音の動きが微妙にぎこちない。オーケストラの伴奏と音を合わせるのにも、単なる聴き専の私ですらはっきりわかるレベルで用心深く弾いていた。もちろん、ジャズの影響を云々されるこの曲の真の姿を描き切れるはずもない。もう彼にはそういうのは無理なのです。でも音楽とは不思議なもので、あまり伴奏に注意しなくてもよい箇所(カデンツァ的な所とかね)では、深い呼吸で本当に味わい深い音楽をやっていました。遅い箇所とかもう最高です。それが極点に達したのはアンコールのカッチーニで、これはもう感動的な演奏だったと思います。
後半の《ペトルーシュカ》は、重心を過剰なぐらい低く設定して、テンポやバランスなど、全ての要素をかっちり管理しようとした演奏。この曲にちらつく前衛性を丸ごと排除した演奏で、ここまでオケの「音楽」を掌握したノイホルトの手腕が光りますが、棒自体は割とぶっきらぼう、おまけに楽団員の生理を無視した側面があって、オケが走りたくてうずうずしているような不穏な空気も感じさせました。金管中心に、細かくないミスもちょっと多かったかな。ここしばらく好調だった東響の、久々のハズレだったと考えます。まあたまにゃこうなりますよね。
■[演奏会]新日本フィルハーモニー交響楽団第486回定期演奏会

14時〜 すみだトリフォニーホール
- 新日本フィルハーモニー交響楽団(管弦楽)
- クリスティアン・アルミンク(指揮)
このコンビの良い所と悪い所がはっきり出た演奏会であった。その意味では、双方本当にしっかり仕事をした、ということになろう。
前半のシューベルトは悪い方が出てしまった。正統的な解釈によるノーブルで美しい仕上がりを見せた演奏で、まあ普通に考えれば佳演なのだが、リズムの処理が甘いというか弾まないし抉らない、おまけに旋律も(ビブラート抑え気味なのに)妙にベターっと平面的に演奏されており、申し訳ないのは重々承知だが、どうも面白くない。つまらない。退屈だ。
後半は、こちらが聴き慣れていない曲だけあって、前半に感じた弱点はほとんど感じずに済み、ノーブルで真っ当な端正な演奏で、大編成の難曲をしっかり味わえたように思う。新日本フィルは(前半でもそうでしたが)技術的にはほぼ完璧な仕上がり、アルミンクの力の籠った指揮も相俟って、多種多様な楽器の混淆がある曲なのに、一切音が濁らず、似たような曲想が延々と繰り返されるしつこいフィナーレも含めて、緊張感が途切れない素晴らしい演奏を披露していた。
11年11月30日(水)
■[演奏会]読売日本交響楽団第509回定期演奏会

19時〜 サントリーホール
- 読売日本交響楽団(管弦楽)
- シルヴァン・カンブルラン(指揮)
強烈だったのは《悲愴》の第2楽章である。流れるように演奏する人が多い中、カンブルランは変拍子を強調し、まさに踊るように音楽を弾ませていた。テンポも快速だったため、かなりメリハリの利いた音楽に化けており、この楽章からこれまで聴いたことのない表情を引き出していたように思う。続く第3楽章も見事な出来栄えで、楽想という横の流れとリズムと言う縦ノリの二兎を得て二兎とも得たという、これまた素晴らしい演奏を披露。両端楽章も素晴らしく、特にフィナーレのそれは、スマートに白熱し、その熱を保ったまま音量だけが減衰していく、なかなか見られない音楽作りになっていたと思います。オーケストラの鳴りは、もう一段の制度を求めたくなりましたが、十二分にグッジョブの範疇でありました。カンブルランはこれまで聴いたところ、サウンドそのものにはあまり肉付けしないタイプなので、これでいいのかも知れない。
前半も見事な演奏。序曲《リア王》が素晴らしいのは当たり前として、《ロミオとジュリエット》がまるでベルリオーズの曲のように響いていたのは面白い。ロマン性たっぷり情緒纏綿たるメロディー・メーカーとしてのチャイコフスキーを強調せず、かなり男性的で構築的な音楽を作る人としてのチャイコフスキーを強調しており、結構直線的な表現になっていたと思います。これはこれで素晴らしいんだよなあ。お涙頂戴の悲劇ではなく、緊迫感溢れる悲劇/惨劇って感じを受けた。これは《悲愴》でも同様でした。
なお今日は客層も良かったです。《悲愴》では、パウゼだと本当に物音ひとつしませんでした。音が鳴ってる時は咳してる人が散見されましたが、季節柄この程度はしょうがないです。
11年11月26日(土)
■[演奏会]パリ管弦楽団来日公演(東京1日目)

18時〜 サントリーホール
クラシック音楽を聴く愉しみの究極とは何か? 私が考えるに、それは四つほどある。極めてシリアスに、楽曲の精神の深淵を覗くことが一つ。神あるいは偉大なものへの供物として作られた崇高な奉献を仰ぎ見るのが一つ。聴き手に寄り添ってくれる楽曲を心静かに一人浸るか噛み締めるのが一つ。そして最後の一つが、全てを忘れて心の底からお祭りのように楽しむ、というものである。
今日の演奏は、最後のそれだった。パリ管弦楽団は、明るい音色と、木管群を中心とした素晴らしい個人技、そしてパーヴォによって整えられたアンサンブルをベースに、心底楽しい演奏を展開してくれた。驚かされたのは、音色の多彩さと芸の細かさである。ウェーバーでは音がちゃんと質実剛健だったし、メンデルスゾーンは素敵にくすみ、そしてベルリオーズでは色彩感が全開となって聴き手を圧倒した。節々に薫る高貴で粋な情感と来たら、もう反則のレベル。なお、諏訪内晶子はコンチェルトで、この素晴らしいバックに全く負けず、堂々とした造形と艶っぽい音色の奏楽を披露、これもまた素晴らしかった。楽曲をあまり締め付けていなかったのが特徴(もちろん、技術的に緩いという意味では全くありません)で、尖らない奏楽でしたが、正直この人をここまで素晴らしいと感じたのは初めてだったかな。離婚に絡んで週刊誌に色々書かれたそうですが、音楽はぶれず進化を続けているようです。来年のリサイタルには行けそうにないのが残念。
本日最高のパフォーマンスは幻想交響曲でした。先日のカンブルラン指揮読響が、この曲に込められた情念をシリアスなものと受け止めて、その狂熱を表現することに注力した演奏だったとすれば、ヤルヴィとパリ管の演奏は、曲の情念を作曲者による自己戯画として若干ニヤニヤしながら書いた「わざとらしい」ものと捉え、随所に埋め込まれた当時としては新奇で珍奇な音楽作りを、エンターテインメントとして受け止めていたように思われます。パーヴォも楽団員も笑顔で演奏、良い音を出すとパーヴォがニッコリ頷いたり笑いかけてたりしました。それは演奏に欠ける意気込みや緊張感の欠如ではなく、あくまでこの演奏の方向性を指し示すものであったと思います。
いやー、本当に楽しかった! 弾むリズム、輝く音色、吹きこぼれるニュアンス、そして堂を満たす強烈な愉悦感! こういうのもあるから、コンサート通いは止められないのです。
